【長州力インタビュー〈終〉】引退への思いを告白「リングで表現できなくなったら自然に」
プロレスラー長州力(65)が来年1月14日、後楽園ホールでプロデュース興行「POWER HALL2018」を行う。スポーツ報知のインタビュー最終回では、自らの過去と未来のプロレス人生を明かした。
1974年にアントニオ猪木の新日本プロレスに入門した長州。84年9月には新日本を離脱し、85年1月からライバル団体でジャイアント馬場が総帥の全日本プロレスへ参戦した。日本プロレス界を代表する歴史的両巨頭の下で戦った男は、BIへの思いをこう明かした。長州は猪木を「会長」、馬場を「代表」と呼ぶ。
「会長と代表の違いがハッキリしていた。だから、ファンの人も、どちらのファンだとかよく昔はね(論争していた)。(猪木さんのような)そこまでの強烈なものはいらない、もうちょっと楽に見たいというファンは(全日本へ)ね。そこには、馬場さんのレスラーとしての人柄がにじみ出ていた」
実際、2人はプロレススタイル、性格も「違ったでしょうね」と明かす。
「それは、(2人を)見る方も違うから。やっぱり、(2人が)やったら、会長が強い。代表が強いって。そういう話題が出ること自体がスゴイなぁって思っちゃいますよね。そういうものは。昭和の時代は、誰とやったら誰が強い。こうなるとか。ファンがいろんな見方、考え方を楽しめた」
そしてこう続けた。
「会長も代表がいたから、代表も会長がいたから二大巨頭でいられたんですよ。そう思いますよ」
大きなライバルが自分を光らせる存在になる。それは長州自身のプロレス人生もそうだった。82年10月8日。「オレはお前のかませ犬じゃない」と叫んだ藤波辰爾(63)がその最たる存在だろう。「名勝負数え歌」と呼ばれた2人の対決。あれから今年で35年。藤波との遭遇を今、こう表現した。
「ラッキーですよね。ちょこっとプロレスのカラーなり何なのかを変えることができたかなぁっていう部分ありますよね。あの人も身体能力も高いし」
藤波に牙を向き革命戦士と脚光を浴び、一気にスターダムに躍り出た。ライバルと戦う前と後で何が変わったのだろう。
「本来、あれが自分のカラーだったんでしょうね。持ってたんですよ。でも、出せなかったっていうか。やっぱりちょっと鈍くさいっていうか。自分で言っててよくわかってるんですよ、鈍くさいっていうのは。あの(藤波さんの)身体能力に合わせることはできた」
維新軍団としてリングを席巻。そして全日本への移籍。当時。欠かせない存在がいた。それがアニマル浜口(70)だったという。
「(全日本参戦は)自分が精いっぱい面白い動き方ができたのは良かった。そういう動ける時代でもあった。そういう中で浜口さんが、そういう具合にさしてくれた。自分一人では絶対に無理だった。大きいですよね。自分を上げてくれるために、浜さんが自分はこういうスタンスでって。それは浜さんいなかったら今の自分はまったくいないだろうし。それは間違いなくありますよね」
全日本では、故ジャンボ鶴田、天龍源一郎(67)と激闘を展開した。こうしたライバルたちがいたからこそ、自身のプロレスがあったと強調する。
「藤波さんもいたし、鶴田さんもいたし、源ちゃんもいたし。その時代に格闘技ブームに火が付き出したら(前田)日明が出てきたし。彼らもプロレスっていうものがなかったら、多分、どこまでやれたかって。ファンが比較してくれたから成り立てたというのもありますよね。そういう選手がいたからね。自分一人だったら何もできない。まして東京ドームで興行なんかもできないっていう」
平成に入ってから新日本の現場監督を務めた。数多くの個性、個々の選手にライバルがいたからこそドームで観客動員6万人を越えるヒットが連発できた。
「本来、そういう集められるだけの選手が新日本っていうカラーの中にあった。ファンからすればあの時代はわくわく感があった。どこまでやっちゃうのかなって」
そして、今、ライバル物語は続く。プロデュースする1・14後楽園に藤波が参戦する。
「入ってもらおうって思ってます。絡むかどうか今から考えていきます」
タッグを組むのかあるいは戦うのか。それは、これから検討する。今、長州の中で藤波への対抗心、負けてられないという思いは「それはない」という。あるのは「安心感ありますよね。藤波さんも安心感あるんじゃないですかね」
藤波は、主宰する「ドラディション」で定期的に自主興行を開催している。今年は4月にベイダー、10月にミル・マスカラスを招聘し昭和のプロレスファンにターゲットを絞って好評を得た。
「それは、藤波さんの考えで決して間違えではない。オーナーでやっているから、大変だなって思いますよ。それに藤波さんは息子(LEONA)が(プロレスを)やっている。厳しいこと言っていると思いますよ。でも、オヤジが藤波辰爾で幸せですよね」
12月3日で66歳になる。これからのプロレス人生をどう考えているのだろうか。
「そんな、大それたこと、これからのプロレスなんて考えたこともない。考えてもいない」
。 引退を聞くと「もう引退しているんですよ」と即答された。
98年1月4日、東京ドームで引退試合を行った。しかし、2000年7月30日、横浜アリーナでの大仁田厚(60)戦で復帰して以来、リングに上がり続けている。
「なんかみそをつけたような上がり方しているんですけど…。復帰したとは思ってないんですよ」と言い切ると、ひと呼吸おいて「その言い方もズルいよね」と自虐的に漏らした。
「引退って言う言葉はこの業界にあってないようなもの。リングで表現できなくなったら自然に。リングで何か打ち出して表現できなくなったら。表現というか、(今の自分は)持っている個性が力強くもないですよ。大変ですよ。そこまで大変に考えなくてもいいかなとも思いますけど、これは長くやっている性分」
そして最後にこう明かした。
「結果は、最後は違いはないですよ。プロレスはプロレスですよ」
(終わり。敬称略。取材・構成 福留 崇広)