湯気が立ち上る鉄板に肉のような塊、その上には鮮やかな色つやの卵黄――。皆さんはこの商品をご存じだろうか。
これは居酒屋チェーン「塚田農場」の大ヒットメニュー、「加藤えのき 月見ステーキ」という商品である。毎年9月から翌年1月までの期間限定で販売していて、昨シーズンは4万3000食以上を売り上げた。前年と比べて1万3000食増、約143%の成長だ。この数字は塚田農場の限定メニューの中ではピカイチである。
エノキに鶏のつくねを載せたこの商品は、ステーキという名前の通り、肉厚な食感が楽しめるが、注目したいのはエノキの石づき(軸)の部分だけを使っていること。通常、家庭でエノキを調理する場合、軸の部分を取ってしまう人も少なくないだろうが、あえてそこをメインにするというのはユニークだ。
実は、エノキの生産者の間では半ば“常識”になっている。エノキの軸をしょうゆなどで焼くとホタテの貝柱みたいな味わいだと知られていた。4年ほど前のある日、塚田農場を運営するAPカンパニーの企画担当者が宮崎県の生産者などとの親睦を図るバーベキューイベントで、エノキの栽培および製造会社である加藤えのきの加藤修一郎社長からその話を耳にし、商品化を持ち掛けたのが始まりである。2014年に新発売したこのメニューはすぐに話題となり、秋冬シーズンの看板商品となった。販売数は累計で11万食を超えている。
一見すると誰にでも真似できそうなものだが、実際には加藤えのきでなければ実現不可能なことが多々あるのである。その差別化要因は同社の“生き残り戦略”そのものだった。
宮崎市の北部、西都市との市境に位置する高岡町で加藤えのきは事業を営む。2015年時点で同社のエノキ生産量は4000トン。全国の生産量が13万1000トンなので、市場シェアは3%ほどだ。これは宮崎県内ではトップ、西日本エリアでもトップクラスのシェアを誇る。
エノキの産地と言えば、寒冷地の長野や新潟が有名で、宮崎では現在3軒しかないほど珍しい。なぜ加藤えのきはエノキ専業でやっているのだろうか。
高岡町は古くはミカンの産地として知られていた。加藤社長の家も代々、ミカンを栽培する農家だった。ところが、全国的にミカンの生産量が増え、取引価格がみるみるうちに下がっていく中で、先代である加藤社長の父親は一大決心をする。ミカンをやめてエノキの栽培に事業を切り替えることにしたのだ。1973年のことである。
町内のいくつかの農家でもミカンをやめるところはあったが、同じ柑橘系である日向夏やキンカン、レモンなどに品目変更していった。加藤社長の父はなぜエノキを選んだのか。「明確な理由は分かりません」と加藤社長は苦笑するが、そのころは日本各地でキノコの人工栽培が盛んになり、宮崎でも数軒の農家がエノキやシメジなどを作り始めていたという。その様子を見て、先代はミカンをスパッとやめたそうだ。
その判断は正しかった。多くのミカン農家は廃業するなどして、今では高岡町でミカン農家は数えるほどしかないという。
加藤えのきは設立後、じわじわとビジネスを拡大していった。当時はまだエノキの生産者が少なかったので、商品を高値で売ることができたのである。
ところが、しばらくするとミカンのときと同じような状況がやってくる。県内でもエノキ農家が増えて生産量は右肩上がりに。すると取引価格がそれに反比例して下がっていったのだ。生産者はどんどん淘汰され、いくつかの農家はエリンギなど別の品目に切り替えざるを得なかった。
福岡のアパレル関連会社で働いていた加藤社長が、家庭の事情で実家に戻り、加藤えのきの後を継いだ2002年ごろは、同社も岐路に立っていた。年間生産量は約400トンと横ばいが続いていて、このままでは先がないと感じていたのだ。
エノキからエリンギに切り替えるかどうか非常に迷った時期もあったという。「けれども、エリンギはゼロからのスタートなので、軌道に乗るまで時間がかかります。そう考えるとやはりエリンギで突き進むしかないなと。また、エリンギを作る人が増えたら価格は下がります。結局、何を作っても同じことなので、どこで勝負して、どうやって1番になるのか、それしか方法はないと思ったのです」と加藤社長は振り返る。
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