カメキチの目
前に立山への旅の記事で、「人それぞれ」「さまざま」ということを書いた。
そのときは、景色のみかた、思いなど身近なことで感じたけど、対象の範囲を広げればひろげてみるほど、多様多彩であることに気づきます。
いわゆる「人畜無害」のぶんにはいいけれど、衝撃的なニュース(最近では、いくら自殺願望とはいえ二十歳前後の若者を9名も解体したという事件や、きょねんの障害者施設の事件など)をきくと、「いろいろ」「さまざま」「それぞれ」とすましているわけにはいかないと思いました。
カッとなって(いわゆる「激昂」)「われを見失ない」他人に害を及ぼしたというのは、(程度の差こそあれ)身近にもあります(私は、たとえ口先のことだけでもツレの心を傷つけることがよくあります)。
けれど、あきらかな殺意をもった「計画的犯行」。やっぱり「いろいろ」「さまざま」「それぞれ」とすましているわけにはいかない。
これらの事件は容疑者(犯人)個人のレベルの殺人。
だが、よくいわれるように戦争は国による(公的、合法的)殺人。なにも国がカッとして(過失で)人々を殺すのではない。
この前、トランプが日本に来て「アメリカ製兵器」をセールスし、安倍は深くうなづいたそうです。日本国が他国の人々を殺すことを、私たちはぜったい許してはいけない。
(話が横道に「発展」してゴメンなさい)
同じモノゴトでも受けとる側の反応は、人によりいろいろあるということ。
もっと前には、ブログについての思いで、似たようなことを書いたことがあります。
まったく「自明」「あたり前」のことなのだけど、最近また、あらためて自覚することがあった。
興味・関心など好きなことは人により多種多様ですね。
ブログ世界はまるで「万華鏡」をのぞくみたいです。
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さて、本題。
「国宝展」開催の情報を知ったときから、行きたいと思っていた。
その展覧会に、美奈子さん(ずっと前に記事にも書いたステキな読者のブログ名《注:女性ではありません》)が行かれたときのことを記事に書かれていた。
本物に接したときの臨場感、戦慄にも近い高揚感が読むこっちにも直に伝わってくるすばらしい記事でした。
相手は「国宝」といわれるだけのモノ。
本物。きっとオーラみたいなもの、後光のようなものが発せられており、程度の差こそあれ、誰もが感じるのだろうか。
あまりにすばらしい、すばらし過ぎる「宝物」の展示会だから大人気。
で、なんと待ち時間が40分(平日ながら)したとのこと。「ゲッ、40分…」私は凹んだ。
入場の待ち時間は実際には半分くらいですんだと後にご本人が教えてくださり、「それなら…」と思わないでもなかったのですが、
初めに「40分は長い、やめよう」と思ったことは確かで、そんな程度の気もちしかなかった自分を自覚せざるをえませんでした。
で、そういう自分について考えこんでしまったということです。
さっき「程度の差こそあれ、…」と書いたが、自分の程度の低さを感じたのだった。
「行きたい」と思っていたが、40分と聞いただけで「やめよう」と決めた自分を強く意識した。
で、「40分」にひるみ、行かないと決めた自分を弁護するかのように、「細かいところはテレビなんかの映像のほうがよくわかるもんね、フラフラ、よくみえない目でみて回るより…」などと言いわけし、自分を納得させようとする(情けない…)。
「それぞれ」「さまざま」は、相手・対象だけでなく、深さ、程度にもいえるのである。
それは「好きずき」の問題で、比べるようなことではないし、また比較できるものでもないのだろうが、「あーぁ、自分の思いはこんなものだったのか…」とちょっぴりガクンとした。