いつ頃からかは断定しかねますが、創価も組織維持という目的で、リスク管理を徹底してきたものと思われます。それだけ安定期に入ったとも言えますが、冒険はしなくなった、または必要がなくなったということかもしれません。かつての強引な折伏も、何万人も集めるような大会合もなくなりました。多くの人間を一箇所に集めると、危険なリスクが比例して増大するからです。今は、一つのクレームが、社会問題化する傾向もあります。また反逆者を整理し執拗に葬り去りました。リスクを排除したのです。
最近は一般会員のクレームが頻繁にあるようです。これらは社会常識の範囲内ですが、将来の一律な打ち出しの困難さを予想させるものです。しかし、細部にわたっての対処の仕方は定まっていません。およそ宗教団体において対応マニュアルを作ること自体、おかしなものですが、現場を知らない職業宗教人(在家僧)はその実情に精通していないことから、会員の悩みに的確に応えることができません。クレームや苦情、相談事は無視できない切実さを含んでおり、十分なフォローとサービスが必要なのですが、鈍感な幹部は、やがて創価の名誉が傷つけられる事態に至るまで気づかない。
昭和32年、夕張炭労事件がありました。労働者地域共同体とも言うべき労組と、生命次元での救済を使命と信じている宗教団体との対決は、その行動動機の深さにおいて、はじめから勝敗は決っていたようなものです。「小説・人間革命」や関連する随筆などの行間を想像して読めばわかりますが、池田先生は自らの責任を自覚し、深い決意で困難に臨まれました。菩薩の誓願は、信仰による自己責任の再自覚と言い換えることも可能ですが、これは仕事上でも言えることですね。
労働運動の衰退とともに、労働貴族という言葉は死語になりましたが、反対に、宗教貴族という言葉が、その勢力拡張のなかで息をふきかえしました。宗教貴族は、再自覚が苦手なリスク名簿の筆頭格です。
改革を使命とする者が、安泰を望むわけですから、次第にリスクが増大していきます。変化を必要とするところに、変化を望まなければ、やがてその組織は腐り、死にます。宗門は七百年もの間、一時の興隆はあったかもしれませんが、ほとんどレームダック状態同然です。広布という変革を忘れたためです。
弘教という変革がなかったがゆえに、宗門は形ばかり残り、本質が失われました。化儀とはよく言ったものです。本質が失われているから、社会への展開と儀式で補ない安泰を図ろうとする根性には、宗教人特有のいやらしさがあります。信仰は生命次元での変革を目指すこと。信仰集団が変革集団になることは当然の道理ですが、早急な変革を望まないのが仏教の伝統的あり方です。
強く主張することを控えて、組織に埋没する性向をその遺伝子に持つ日本人は、宗教貴族の格好の餌食です。現実を正視できずに矛盾を放置して、善のなかに悪があり悪のなかに善がある、その人間の二面性を認識できない幼児性に原因があると思う。悪は正体を隠して、善の衣装を着こなしているのですから惑わされます。さらに、唯一の正義が唯一の悪に転化します。
善をなそうとすると苦悩が生まれ、その苦悩に負けて傍観者に甘んじ、賢い大人を演じて責任を放棄する。責任感の強さが人間性の大きさなのに、確信の強さが現実変革の手段なのに、弱さのなかで自己嫌悪に陥り、後悔しても反省はありません。現在は、自己責任という輝かしい言葉ほど、虚しい響きはないでしょう。実に魔は心理の襞に巧妙に働きかけていく悪智慧があるのですね。
肯定的な見方をすれば、今までの創価の指導は社会への適合性を含み、順応性に富み、柔軟な思考があり、個人の変革は決して社会に脅威を与えないということ。信仰とともにたゆまない努力を強調すること。また平和行動や社会参加も漸進的であり、早急な社会変化を望みません。仏教は本来、保守的な思想なのですね。「革命児」という創価が好む言葉を、最近見かけましたか?
激しい言葉は消えゆく運命にありますが、軍歌調や行進曲風の学会歌、気持ちの鼓舞に焦点を当てた言葉の数々や、大真面目に大げさな表現を好む伝統的闘争心は、男性標準の男性社会だからです。
もう時代にそぐわないことは明らかですが、会員の意識もグローバル時代に適合できていません。
宗門と決別したとき、創価では聖的な信仰のシンボルを池田先生という「師」に求めました。「学会精神」「信仰の継承」というキーワードで学会史を振り返ってみれば、「師」がその間に介在しています。学会精神も信仰の継承も、すべて先生という中心から必ず生まれるのです。
さらに学会史を貫いてきた「勝利」という成果主義も、ことさら強調されるようになりました。わたしたちは幸せを求め信仰に励んでいますが、幸せと勝利はほとんど同じ意味です。また人生の成功者でありたいという願望、サクセスストーリーを歩むイメージは、現世的、世俗的、現証的な創価の指導と合致しています。現証的であるがゆえに結果を重視し、それにともない、主観的な認識に左右される功徳と諸天の加護の強調もあります。その勝利への原動力としての先生のご指導は、政治的な支援活動での数量的結果主義に代表されるように、常にノルマとして会員の肩にのしかかってくるのです。功徳や唱題行為が、すでにノルマ化している会員をよく見かけます。それをMCというのであれば、MCなのでしょう。
創価の理念から言えば、「会員のため」という論理ほど、ご都合主義があらわになる自分勝手な言い訳はないでしょう。正義とはいったい何だろうか? 正義はもともと自分用の、都合の良い解釈の側面を持っています。正義は極めて自己流なのです。
スキャンダラスな裏面史を知りたくないと考えるのは、真に信仰者の姿勢なのでしょうか。臭いものにフタをする行為は、日常でもよくあることです。師弟の大切さを訴えながら、本当に師を求めているのか、わたしは懐疑的です。真実を恐れなく観ることが、ブッダ以来の仏道修行だからです。
わたしが許すことができない裁判の和解が「矢野裁判」です。真実に目を塞いだ裁判でしょう。先生の弱音と恐怖心を想像しますが、和解はリスク管理の一つの選択肢でもあります。しかし本当の問題は別のところにあります。なにものにも代替できない宗教信念にも本音と建前があることです。表と裏があることです。創価には立派な言葉と理念が網羅されていますが、読んでいるうちに虚しくなってきます。世のなかきれいごとばかりではありません。
あるサスペンスドラマのなかで、主人公が叫んでいました。
『組織は大きくなればなるほど歪みが生じるものです・・・だから間違っていることを、間違っているとハッキリ言える人が必要なのではないでしょうか』
(2012年3月6日に記した「アンナの日記」)矢野裁判について
最近、矢野某と和解したとの記事が聖教に掲載されました。献身的会員に、後ろを振り向き唾を吐きかけた恩知らずに、譲歩する理由があるとは思えません。
聖教や指導のなかで、会員には散々けしかけておいて手打ちを行うとは、よほど都合が悪い事情、会員に知られたくない事実があったのでしょう。宗門の秘義なるものが批判の対象であるのと同様に、これは隠さなければならない事実があると認識し、隠蔽しようと考えること自体がおかしいと思う。誠意とは口ばかり。会員を蔑む行為です。「信仰を破壊する信仰」と名づけたいと思う。
法律家や御用学者のなかで誰も反対する人がいなかったと推測しますが、革新や保守と妥協することはあっても、悪と妥協する習慣はないはず。わたしは宗教組織内の政治や法的手続きや経営を否定するわけではありません。信念の風化は容認できないということです。
宗門から解放されたとき、わたしたちは自由でいることの重要さを、あまりにも意識し過ぎたのではないでしょうか。信仰の損益を毎日確認しノートに書くことを忘れない。わたしは間違っていないという半強制的な自分に対する自分の姿勢の緊張を、絶えず持ち続けている。中心幹部は、一般会員が考える以上に、そのような脅迫観念にとりつかれていると思う。聖教にもその傾向はあって、正義や勇気や勝利という言葉が毎日、目に入らない日はありません。このような自己確認の情熱がいつまで続くかわからない。
宗教改革における意識改革は、ロマン的色調を帯びた運命論にも理解されます。それは言ってみれば、純粋に宗教的であろうとする精神と行為の飛躍。考え方によっては、本来の仏教精神への回帰とも言えますが、新しいルールを学ぶことにより、目の前が開け、賢明になったと自己評価も可能です。わたしたちの経験は未知のものなのです。したがって独立動機と発展プロセスという財産こそ、後世に残さなければならない歴史なのです。宗教に依存した「知性の犠牲」を訴えたのはマックス・ウェーバーです。世俗的・金銭的等価物を許さないのが、大聖人のご遺命に適った行動であり、悪に親和性を持たず清潔であるべきと説くのが、創価の主張なのではないでしょうか。宗教の価値とは、非合理な運命に逆らうことです。不幸な宗教奴隷から解放されることです。
「船出しよう! 新しい世紀に」とのスローガンは、束縛から解放された精神の自由を表現したものです。わたしたちは厳格さから解放されたと考えたかもしれませんが、自由でなければならないとする厳格さも、甘んじて享受したことを理解しなければなりません。自由は責任という担保があるから自由なのですが、自由の定義の縛りもまたあるのです。個人の自由を強調するあまり、集団が分解することもあるのです。
また教義の厳格さから解放されたのは、世俗的な価値判断に傾くことでもありません。多額の寄付の使い道に経営感覚を活かさなければならないとする宗教人とは、組織運営の経営者のこと。計算された合理主義と組織拡張は、経済的利潤追求と同じ力のモーメントとして展開されます。回転軸に勢いを与えるのが信者です。能率的セオリーで生産活動を行いますが、商品は信仰?
超過債務も超過利益も破滅の元。心的価値の解釈体系である宗教に、経済原理を適用するのは、人格陶冶に、目的と尊厳の意味喪失を迫るものです。
矢野と和解する点があるとすれば、国政選挙への影響と、先生の不名誉なイメージ定着に、恐怖を抱いているからでしょう。師弟不二なら恐怖も共有されているということでしょうか。それとも弟子の暴走なのでしょうか。詳しい理由を語らないのは、説明責任を果たさないのは、会員に盲目な隷属を強いているからです。
戦士的会員は戦士であるがゆえに、統率され規律が守られた器のなかで多少の試みが予期せざる結果を招いても、全体意思を放棄することに喜びがあると自らに言い聞かせているのでしょう。組織からはみ出さないこと、組織に従順であることが信仰者の姿勢と考えながら、個人的信仰を維持するだけで精一杯なのです。でもそれは無責任という信仰者にそぐわないカテゴリーに入る行為なのではないでしょうか。さざ波が立ち風が舞う社会の接点においては、個人は組織の代表でもあるのですから。組織人でありながら、身のまわりの狭い範囲でしか考えないのが、多くの創価人の特徴です。
うそをついてはいけないと大人は子どもを諭します。初歩的道徳ですが、うそはドロボウのはじまりとも言います。意図的たくらみと欲望の成就から、心を盗む人間も犯罪者です。宗教詐偽に騙される方がワルいと考えるのが、欲でつっぱった冷たい現代人の誇り高き人間性です。多くは害を及ぼさないクールさですが、内面に立ち入れば、無関心と無感動をあらわすもの。その冷酷さは他者への同情心を欠いているからです。反社会的道徳と紙一重です。
社会と人間に必要とされる慈悲は学ぶものであって、人生に対しての謙虚さを自分に課している人間に、ふさわしい精神の所産として恵まれるものです。試練は思いもよらずにやってくる。そして信ずることの難しさと、慈悲の行為の不完全さを改めて問われるのです。
うそも騙しもしない宗教、もてあそぶこともしない愚直な姿勢、学ぶ人への尊敬、平凡でありながらダイナミックな生活変革体験、師の人格の高揚、ご本尊さまへの無疑曰信、創価への信頼と赤誠を説き、広宣流布は悪との戦いと、毎日、聖教で強調しているではありませんか。
会員を守るためという口実・方便と考えるなら、ほとんど創価の思考方式は末期症状でしょう。会員を守るためという大義名分なら、なんでも許されると安易な判断をするのであれば大きな間違いです。宗教史は一面、教義の解釈史です。先人の功績に、さらにオリジナリティーな問題提起と検討を積み上げること。それは行動を制する判断、危機の本質を見抜き対処する力のことです。
組織は上から腐るとご指導されたのは先生です。従順であることだけが、正しい信仰者の生き方ではないとご指導されたのも先生です。師が築き上げたものを、みんな、不肖の弟子がダメにする。
策を弄し溺れるものは、策で窮地に陥る。かつてそのような行為で冒涜の誹りをうけ、自分の宿命を呪った人がいました。貨幣と奢侈の奴隷は、やがて生の根拠を根こそぎ奪われてしまう。
思想的闘士は怯まない。状況を悲観しない。
信仰者である前に、公明正大なエートスをもう一度省みることをお勧めします。わたしたちが師から学んだ戦いは、逃げもかくれもしない、師子のような信仰の正攻法と考えるからです。
中、高校生の愛読書「青春対話」には、次のようにご指導されています。
『権力というのは魔性です。自分たちが思うように民衆をあやつり、自分たちを守ることが根本となっている。自分たちのやり方や目的に反する者は悪人として扱う矛盾の世界です』
『正義を壊すものは、人を殺す、盗む、嘘つき、嫉妬、おとしいれ、利己主義、破壊・・・といったことです。つまり、自分だけを、自分たちだけを守っていこうというものです』
『悪に敗れてしまうような正義であるがゆえに、人類の不幸が続いているのです。歯止めをしなければならない。歯車を組み替えなければならない。個人においても、一家においても、団体においても、国家においても、です』
『一日一日が、自分自身の建設であり、それがすべての建設につながるという確信をもっている。中傷・批判も恐れない。裏切り者が出ても恐れない。いかなる時でも恐れないという、その努力の結果が、不敗不滅の自分をつくるのです』
『信仰は観念論ではない。いな人生そのものが観念論ではわからない。「生きる」とは観念ではなく、実践であり、実感であり、厳然と事実の上に刻まれていく歴史です』
『牧口先生は、勇気のない傍観者には厳しかった。「弱い善人」は結局、悪に負けてしまう。先生は、いつも口癖のように語られていた。
「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと、その結果において同じである。道路の中央に、大きな石を置くのは悪であり、後からくる人が迷惑する。それを承知しながら、「私が置いたのではないから」と取り除かないで通り過ぎれば、「善いことをしない」だけであるが、後の人が迷惑をする結果は同じである』
未来部新聞には、先生の贈言が掲載されています。
『私は絶対に負けない!
父母のために
わが友人のために
そして恩師のために』
高等部には、「リーダーに必要なこと」というテーマで、ナポレオンの言葉が引用されています。
『旺盛に行動せよ、他の模範たらんことを心掛けよ。因循姑息なること勿れ。怯懦なること勿れ、大胆に前進せよ。一切の事物に対して果断たれ』
このたびの和解なるものは、道路に置いた大きな石なのではないでしょうか。石を置いたのは一部の幹部かもしれませんが、それを取り除かない者は勇気のない傍観者となるのではないでしょうか。
悪と妥協し和解することが、因循姑息でないと誰が言えましょうか。
私物化とはこのような行状をいうのでしょう。腐った幹部は教義さえ平気で変える。それが会員のためだとウソをつき、師も了解するのですから、創価に未来はありません。
信仰とはくじけない強き意志のこと。悪と妥協しないこと。
未来部への指導は、ただのキレイごとなのでしょうか。
最近、矢野某と和解したとの記事が聖教に掲載されました。献身的会員に、後ろを振り向き唾を吐きかけた恩知らずに、譲歩する理由があるとは思えません。
聖教や指導のなかで、会員には散々けしかけておいて手打ちを行うとは、よほど都合が悪い事情、会員に知られたくない事実があったのでしょう。宗門の秘義なるものが批判の対象であるのと同様に、これは隠さなければならない事実があると認識し、隠蔽しようと考えること自体がおかしいと思う。誠意とは口ばかり。会員を蔑む行為です。「信仰を破壊する信仰」と名づけたいと思う。
法律家や御用学者のなかで誰も反対する人がいなかったと推測しますが、革新や保守と妥協することはあっても、悪と妥協する習慣はないはず。わたしは宗教組織内の政治や法的手続きや経営を否定するわけではありません。信念の風化は容認できないということです。
宗門から解放されたとき、わたしたちは自由でいることの重要さを、あまりにも意識し過ぎたのではないでしょうか。信仰の損益を毎日確認しノートに書くことを忘れない。わたしは間違っていないという半強制的な自分に対する自分の姿勢の緊張を、絶えず持ち続けている。中心幹部は、一般会員が考える以上に、そのような脅迫観念にとりつかれていると思う。聖教にもその傾向はあって、正義や勇気や勝利という言葉が毎日、目に入らない日はありません。このような自己確認の情熱がいつまで続くかわからない。
宗教改革における意識改革は、ロマン的色調を帯びた運命論にも理解されます。それは言ってみれば、純粋に宗教的であろうとする精神と行為の飛躍。考え方によっては、本来の仏教精神への回帰とも言えますが、新しいルールを学ぶことにより、目の前が開け、賢明になったと自己評価も可能です。わたしたちの経験は未知のものなのです。したがって独立動機と発展プロセスという財産こそ、後世に残さなければならない歴史なのです。宗教に依存した「知性の犠牲」を訴えたのはマックス・ウェーバーです。世俗的・金銭的等価物を許さないのが、大聖人のご遺命に適った行動であり、悪に親和性を持たず清潔であるべきと説くのが、創価の主張なのではないでしょうか。宗教の価値とは、非合理な運命に逆らうことです。不幸な宗教奴隷から解放されることです。
「船出しよう! 新しい世紀に」とのスローガンは、束縛から解放された精神の自由を表現したものです。わたしたちは厳格さから解放されたと考えたかもしれませんが、自由でなければならないとする厳格さも、甘んじて享受したことを理解しなければなりません。自由は責任という担保があるから自由なのですが、自由の定義の縛りもまたあるのです。個人の自由を強調するあまり、集団が分解することもあるのです。
また教義の厳格さから解放されたのは、世俗的な価値判断に傾くことでもありません。多額の寄付の使い道に経営感覚を活かさなければならないとする宗教人とは、組織運営の経営者のこと。計算された合理主義と組織拡張は、経済的利潤追求と同じ力のモーメントとして展開されます。回転軸に勢いを与えるのが信者です。能率的セオリーで生産活動を行いますが、商品は信仰?
超過債務も超過利益も破滅の元。心的価値の解釈体系である宗教に、経済原理を適用するのは、人格陶冶に、目的と尊厳の意味喪失を迫るものです。
矢野と和解する点があるとすれば、国政選挙への影響と、先生の不名誉なイメージ定着に、恐怖を抱いているからでしょう。師弟不二なら恐怖も共有されているということでしょうか。それとも弟子の暴走なのでしょうか。詳しい理由を語らないのは、説明責任を果たさないのは、会員に盲目な隷属を強いているからです。
戦士的会員は戦士であるがゆえに、統率され規律が守られた器のなかで多少の試みが予期せざる結果を招いても、全体意思を放棄することに喜びがあると自らに言い聞かせているのでしょう。組織からはみ出さないこと、組織に従順であることが信仰者の姿勢と考えながら、個人的信仰を維持するだけで精一杯なのです。でもそれは無責任という信仰者にそぐわないカテゴリーに入る行為なのではないでしょうか。さざ波が立ち風が舞う社会の接点においては、個人は組織の代表でもあるのですから。組織人でありながら、身のまわりの狭い範囲でしか考えないのが、多くの創価人の特徴です。
うそをついてはいけないと大人は子どもを諭します。初歩的道徳ですが、うそはドロボウのはじまりとも言います。意図的たくらみと欲望の成就から、心を盗む人間も犯罪者です。宗教詐偽に騙される方がワルいと考えるのが、欲でつっぱった冷たい現代人の誇り高き人間性です。多くは害を及ぼさないクールさですが、内面に立ち入れば、無関心と無感動をあらわすもの。その冷酷さは他者への同情心を欠いているからです。反社会的道徳と紙一重です。
社会と人間に必要とされる慈悲は学ぶものであって、人生に対しての謙虚さを自分に課している人間に、ふさわしい精神の所産として恵まれるものです。試練は思いもよらずにやってくる。そして信ずることの難しさと、慈悲の行為の不完全さを改めて問われるのです。
うそも騙しもしない宗教、もてあそぶこともしない愚直な姿勢、学ぶ人への尊敬、平凡でありながらダイナミックな生活変革体験、師の人格の高揚、ご本尊さまへの無疑曰信、創価への信頼と赤誠を説き、広宣流布は悪との戦いと、毎日、聖教で強調しているではありませんか。
会員を守るためという口実・方便と考えるなら、ほとんど創価の思考方式は末期症状でしょう。会員を守るためという大義名分なら、なんでも許されると安易な判断をするのであれば大きな間違いです。宗教史は一面、教義の解釈史です。先人の功績に、さらにオリジナリティーな問題提起と検討を積み上げること。それは行動を制する判断、危機の本質を見抜き対処する力のことです。
組織は上から腐るとご指導されたのは先生です。従順であることだけが、正しい信仰者の生き方ではないとご指導されたのも先生です。師が築き上げたものを、みんな、不肖の弟子がダメにする。
策を弄し溺れるものは、策で窮地に陥る。かつてそのような行為で冒涜の誹りをうけ、自分の宿命を呪った人がいました。貨幣と奢侈の奴隷は、やがて生の根拠を根こそぎ奪われてしまう。
思想的闘士は怯まない。状況を悲観しない。
信仰者である前に、公明正大なエートスをもう一度省みることをお勧めします。わたしたちが師から学んだ戦いは、逃げもかくれもしない、師子のような信仰の正攻法と考えるからです。
中、高校生の愛読書「青春対話」には、次のようにご指導されています。
『権力というのは魔性です。自分たちが思うように民衆をあやつり、自分たちを守ることが根本となっている。自分たちのやり方や目的に反する者は悪人として扱う矛盾の世界です』
『正義を壊すものは、人を殺す、盗む、嘘つき、嫉妬、おとしいれ、利己主義、破壊・・・といったことです。つまり、自分だけを、自分たちだけを守っていこうというものです』
『悪に敗れてしまうような正義であるがゆえに、人類の不幸が続いているのです。歯止めをしなければならない。歯車を組み替えなければならない。個人においても、一家においても、団体においても、国家においても、です』
『一日一日が、自分自身の建設であり、それがすべての建設につながるという確信をもっている。中傷・批判も恐れない。裏切り者が出ても恐れない。いかなる時でも恐れないという、その努力の結果が、不敗不滅の自分をつくるのです』
『信仰は観念論ではない。いな人生そのものが観念論ではわからない。「生きる」とは観念ではなく、実践であり、実感であり、厳然と事実の上に刻まれていく歴史です』
『牧口先生は、勇気のない傍観者には厳しかった。「弱い善人」は結局、悪に負けてしまう。先生は、いつも口癖のように語られていた。
「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと、その結果において同じである。道路の中央に、大きな石を置くのは悪であり、後からくる人が迷惑する。それを承知しながら、「私が置いたのではないから」と取り除かないで通り過ぎれば、「善いことをしない」だけであるが、後の人が迷惑をする結果は同じである』
未来部新聞には、先生の贈言が掲載されています。
『私は絶対に負けない!
父母のために
わが友人のために
そして恩師のために』
高等部には、「リーダーに必要なこと」というテーマで、ナポレオンの言葉が引用されています。
『旺盛に行動せよ、他の模範たらんことを心掛けよ。因循姑息なること勿れ。怯懦なること勿れ、大胆に前進せよ。一切の事物に対して果断たれ』
このたびの和解なるものは、道路に置いた大きな石なのではないでしょうか。石を置いたのは一部の幹部かもしれませんが、それを取り除かない者は勇気のない傍観者となるのではないでしょうか。
悪と妥協し和解することが、因循姑息でないと誰が言えましょうか。
私物化とはこのような行状をいうのでしょう。腐った幹部は教義さえ平気で変える。それが会員のためだとウソをつき、師も了解するのですから、創価に未来はありません。
信仰とはくじけない強き意志のこと。悪と妥協しないこと。
未来部への指導は、ただのキレイごとなのでしょうか。
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