オピニオン

自分を信じて生きていく

1984年生まれ。東京都在住。慶應義塾大学環境情報学部卒業。映画、音楽、読書をこよなく愛す編集者。ビジネスについて勉強中。

「失敗は成功のもと」

という言葉をよく聞きます。

 

そもそも「失敗」とは何でしょうか。

同じ出来事でも、単に「失敗」と捉える人もいれば、「勉強の機会」だと捉える人もいます。

「失敗」とは、出来事に対するその人の評価だということです。

 

仕事をしていると、いい時も悪い時もありますが、前に進まなければなりません。

つまり、重要なことは、その「出来事(失敗と思われる)」を次の行動につなげるべくポジティブな「意味づけ」を行うことなのではないでしょうか。

 

仕事だけではなく、生活をしていても、いい時も悪い時もあります。

失敗といっていいのかわからないけれど、何をしていても悪い方向に転がってしまう時期は誰もが経験しているのではないでしょうか。

生活のような必ずしも目標や目的があるわけではないようなことは特に、うまくいかなかった時に考えたこと、実行したことが無意味に感じてしまいがちです。

 

仕事にしても、生活にしても、出来事に対して「意味づけ」を行うというものは重要なのです。

 

京セラの創業者にして、JAL再生の立役者である稲盛和夫氏は以下のような発言をしています。

(人は)信じていないものの為に努力することはできないのです

意味を見出すことが次の一歩を踏み出させてくれるのです。

ビジネスや生活、ひいては人生をより豊かなものにするために、今回は「意味づけ」という行為について少し掘り下げて考えてみましょう。

 

演劇「ゴドーを待ちながら」が描く「意味のない」世界

「ゴドーを待ちながら」(1952年:サミュエル・ベケット作)という面白い演劇があります。

この演劇の特徴は「ゴドーを待ちながら」と言いながら「ゴドー」は一切登場しないことです。

  • 2人の登場人物がゴドーを待っているだけの話
  • ゴドーは一体誰なのか、わからない
  • ゴドーはなぜこないのか、わからない
  • ストーリーが展開していかない

と主人公であるはずゴドーが登場しないことで「退屈だ」などと賛否を呼んできた作品です。

 

しかし「ゴドーを待ちながら」は、様々な言語に訳され世界中で再演されるなど生き続けている作品でもあります。

この演劇に今もなお人々が惹きつけられている理由は、徹底的にまでに「ストーリー」すなわち「意味」が描かれないことです。

 

見ている観客自身が意味をつけなければいけないそんな作品なのです。

 

何を指針に生きていくのか?

私は何か無意味に感じた時に、よくこの「ゴドーを待ちながら」を思い出します。「意味は自分でつけるしかないんだ」と思うのです。

 

もちろん、悲観的になってそう思っているわけではありません。

 

みなさんもお分かりのとおり、どんな行動にも絶対的な意味というものはありえません。行動や事実という出来事に対して深く向き合えば、向き合うほど様々な角度の意味に気付くことでしょう。

「これでよかったのか。」

「この方向で間違っていないか。」

このような問いを誰もが持っていると思います。

 

もちろん、あなた自身の行動に家族、友人、会社、社会、道徳など様々な意味づけを与えてくれるもと思います。ただ周囲が、必ずしもあなたの行動すべてに意味をあたえてくれるものではありません。

 

私は「出来事(失敗と思われる)」も「ゴドーを待ちながら」と同じだと思っています。

なぜなら、出来事の中心は(つまりゴドーは)待っていてもくるものではありません。

それを意味つける自分がいなければいけません。

 

自分で意味をつけていくしかないのです。

 

そもそも、意味をつけるとはどういうことでしょうか。

それは冒頭の稲盛氏の言葉にある通り、「何かを信じること」につながります。

 

つまり、自分で意味をつけるということは、自分を信じることなのです。

自分の感じていることは間違っていません。まずは感じていることを受け止めて信じる。そこで、うまくいかなければ対処していけばいいのです。

 

「ゴドーを待ちながら」は現代社会の「意味の不在」を描いた作品でもあります。非常に不安定な「意味」の中で生きていかざるをえない大きな構造を持っているのが現代という時代なのです。

意味は最初から誰かが外からやってくるものではない。

だからこそ、その意味は誰かが教えてくれるものではなく、自分で決めるべきもの、あるい自分で決めることができるものです。

 

自分で作った意味は大きな財産

私たちの周りの実際の状況を考えてみましょう。

アメリカや欧州ではキリスト教・中東、東南アジアではイスラム教のような社会的に強く受け入れられている宗教があります。そのことが、人々の「意味づけ」にも大きな影響を与えているのです。

 

では、日本社会において人々は何に大きな影響を受けているのでしょうか。そして、何を信じているのでしょうか。

そもそも「何かを信じる」土壌はあるのか。

 

日本にも様々なコミュニティーでこれを基準とすべき信じられているものがあります。

お金、仕事、人間関係、常識などこうすべきだという既成概念に基づいた様々な論拠を誰もが聞いたことがあるでしょう。

「受動的に信じているもの」と「能動的に信じているもの」など様々な「意味づけ」の素があると思います。

 

あなたが今本当に信じているものは何ですか?

 

「我思う、ゆえに我あり」ではありませんが、自分を信じるからこそ、その出来事に「意味づけ」ができるのではないでしょうか。

「自分を信じる」と公言する必要はないのかもしれません。

ただ、キャリアの選択などでも、何かの板挟みになり「意味」が揺れてしまった時には「自分でやる(やらない)と決める」ことはできます。

最後にやるかやらないか決められるのは自分自身だけです。

自分を信じて「自分がやりたいからやるんだ(逆も然り)」と思えるスタート地点を見出すことで、「意味」を自分のものにすることができるのです。

自分で決めたのだという態勢をとることで、自分の中の「意味」は強度を増していくでしょう。

 

もし何かの出来事によって意味を見失ってしまうことがあったとしても、その時流した涙はあなたにとって必ずしも無駄なものではありません。

なぜならば、意味は外から来るものではなく、自分自身の内側から湧き出るものだからです。

そして、あなた自身の手で自分の中に「意味」を作ることができたのならば、その意味はあなたにとって簡単には揺らぐことのない大きな財産となるのではないでしょうか。

 

あなたが、努力して流した涙にはどんな色が付いているでしょうか。

最後に、冒頭でも紹介した稲盛和夫氏の言葉をもう一度。

(人は)信じていないものの為に努力することはできないのです

 

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