ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ。口癖は「えー、そんなの別にどっちでも良いんじゃないの?」老害発言の説明文多し。

我々はいつから一生懸命になる事に恥じらいを覚えるようになったのか

どれくらいからだろうか。幼稚園の頃の自分の記憶などない。小学校はどうだろうか。まだ何かをするにあたり一生懸命だったように思う。中学校。この頃はエレキギターを持ち始めたので一生懸命だった。高校生。どうだったかなぁ。情熱は完全に音楽に行ってたので一生懸命だったような気がする。しかし周囲はどうかと言われれば高校生あたりからダルい連中が増えていたような気がする。それから大人になっていくに従って、「ダルい奴」というのは常に私の周りにいた。そしてそういう連中には独特の空気があり「一生懸命はダサい」というバカにした空気があった。「何を熱なっとんねんwww」「あーしんど帰りたいわー」「必死やなwww」などなど。例に漏れず私もその空気に飲み込まれた時期はあった。ダルいのがカッコ良い。今考えるとそんなことは全くなく、私は早いうちに気付いたので環境を全て変えた。そのままダルいを突き進んだ知人は沢山いるが、今は目も当てられない。ダルそうなオッサン。そりゃダルいだろうなと思いながら近寄らないように私は見ている。ここインターネッツでもそういう空気を感じる。「楽して稼ぐ」「毎日10分で簡単に10万円」「え?まだ東京で消費してるの?」「Mac一台でどこにいても月100万稼いでユニクロのコーデ公開しちゃう」などなど。俺こんなに簡単に金稼いでんだけどwwwと「ダルい奴ら」が「ダルい空気」をバラ撒いている。その「ダルいのがカッコ良い」的な空気に飲まれてる人達が金を巻き上げられている。確かにパッと見でスマートではない「一生懸命」はカッコ悪いかもしれない。皆が寝ている夜中に作業したり、ボロボロの作業服と安全靴で軽トラをかっ飛ばしたり。しかしながら、では「誰に対して」カッコ悪いのかと言えば、そこには誰もいない。私にはカッコつけなければいけない人が目の前にいないのだ。勿論それなりの人に会う時はそれなりの格好をする。それは格好をつけるのではなく、相手に恥ずかしい思いをさせないように、相手に失礼のないようにであって、カッコつけるためではない。ここインターネッツでも「私がカッコつけないといけない人」なんていない。一生懸命と言えば、私はパンク・ハードコアのバンドを組んでいる。一般的に認知されているハードコアとはまた違うニッチなジャンルである。この年で何やってんだバカと思われてもしょうがない。変な話であるが、私は別にパンク・ハードコアが特別好きなわけではない。好きなアーティストや曲はあれど、それほど好きかと聞かれればそれほど好きではないといつも答える。では何故そんなバンドをやっているのか。パンク・ハードコアのバンドは皆一生懸命でカッコ良いのだ。ダルい奴など一人もいない。こんなにいつも客がいない、認知されていない、ライブの利益などとんでもないといったジャンルであっても、だ。客がいない客席に向かって皆これでもかとデカい音を出し、これでもかと叫び、これでもかとのたうち回る。私はパンクといったジャンルではなく、この人達の「姿勢」が好きでこの音楽に魅せられている。私が子供の頃「一生懸命」を誰に見せていたのか。それは父親と母親だ。私が一生懸命なのを見て手を叩いて喜んでくれた。その喜んだ顔を見たいからまた頑張った。今はどうだろうか。私はどこを向いているのか。私の家族であり、私に期待してくれている取引先である。私がそっちを向いていない、ダルい奴らにカッコ悪いと思われても全く構わない。私が向いている人達に、私の一生懸命を見せて喜んで貰うのが私のモチベーションであり、喜びなのだ。そして私は今日も現場にスーツで入ってズボンに穴を開けるのである。