古典教育の意義(続)
昨日書いた記事(古典教育の意義)について、様々な反応がありました。→はてなブックマーク
昨日は古典教育の意義として以下の4点について述べました。
①伝統文化を継承して未来の世代に託す
②古典と関わる職業へのきっかけ作り
③古典世界のものの見方・考え方を知ることで自己の世界を広げていく
④教材の一つとして
①②については、社会にとって古典、③④は生徒にとっての古典という意味でまとめました。
前者については、今引き継いで学んでおかないと後世の人が古典を学ぶ機会がないかもしれないこと、そして古典の授業がなければそもそも古典関係に進むかもしれない職業選択の選択肢が生まれないかもしれないことについて述べました。
多くのコメントにもあるのですが、これは別段古典に限った話ではなく、音楽や芸術、芸能についても言えることです(英語や数学、理科についても言えるかもしれません)。社会が何を残そうとするか、これは議論されるべきことです。本当にそれは必要なことなのか、必要だとすればどのくらいの時間が必要なのか、そして必要とはどのような意味で必要と言えるのか、短期的なのか中期的なのか長期的なのか、そのような議論は必要だと思います。
初等中等教育においては、時間数は限られています。古典よりも、生活に根付いた、それこそ中学校を卒業してから働く人も一定数いる以上、そのような人たちが社会で生きていくための力を育成するために、たとえばリテラシー、プログラミングの知識、礼儀作法、法律、税制等、多くのことがあります。欲張りたい気持ちはあるものの、時間数だけではなく様々な困難を抱えている生徒たちに一律に教えるべきことなのかどうか、一律に教えないとすれば何をどのようなレベルに設定していき、その量をどのように設定するのか、それに関わる教科書や教材は誰が用意するのか、そしてそれを教える教員の授業力はどのようにして育成していけばいいのか、多くの課題が出てきます。
古典を現状維持で残すとすれば、古典との出会いによっていろんな道が拓ける生徒が出てくる一方で、古典の時間があるために学ぶことができなかったことと出会えずにその子が出会っていたら進んだであろう道を閉ざす危険性はあると思います。
何を残し、何を削り、何を増やしていくか、この問題を抜きには語ることができません。ただ学習指導要領では古典はなくすことはないと思います。「伝統・文化」は固有の価値があり、それは疑うこともなく「学ぶものである」というわけです。これについては、繰り返しになりますが、本当にそうなのかと問うことは必要だと思います(でも、誰が?)。
古典教育擁護、古典教育不要、いずれでもない、それぞれの立場があります。
擁護する人は、①実際に読んで面白かった、②現代語の成り立ちがわかる、③昔の人々の考え方がわかる、④古典を学ぶことが歴史等に関連するから必要(歴史学以外にも明治時代あたりの文章を読む力)、⑤リベラルアーツとして、⑥「日本人」としての民族性と継続性等々あるわけですが、擁護する側は生徒だった時か卒業してからある程度年齢を重ねて改めて古典に触れることでその人にとっての古典の意味が生み出されていくことがあるように思います。
逆に古典教育不要の立場の人は、前述のように①もっと教えるべきことがある、②面白くない、③進路に関係がない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛等々、その人にとって全く意味がないどころか害悪ですらある、そのような経験や記憶がある人が多いように思います。
いずれでもない人は、①義務教育課程ではなく高校になってから選択して学べばよい、②古典教育は不要だが古典自体は必要、③自分は面白かったが全体が学ぶ意味はないかもしれない、④社会全体として学んだ方がいいと思うけど自分はいやだ等々、一定の擁護と不要の考えがあるように思います。
擁護している人は、私のような職業にとってはありがたい存在ですが、その立場から古典不要論をいたずらに批判することはあまり建設的ではないように思います。古典不要論にも一定の理由がありますし、共有すべき問題もあります。排除する、議論の余地なし、となってしまい、そこで対話は閉ざされてしまいます。
とはいえ、すべての人が納得できる問題ではありません。
古典が本当に必要なのか、それに替わるものを教えた方がいいのではないか、こうした問いは役に立つ、実益に関わる問いであり、役に立つこと、実益はその個人にとっては幸福の一つの指標でもあります。未来の世代のことなど気にする必要もなく、機会が奪われてしまったとしても自分の生活の方が大切だというのは一つの見解ですし、説得力のあるものですし、それに対して批判をすることは容易ではありません。
私はこの対立は乗り越えられるかどうかは正直怪しいと思っています。私個人としては古典は必要だという立場をとっているのですが、今の立場からできることは古典不要論の立場の人があげている理由の②面白くない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛、この二つを授業を通じて改善していくことです。
面白くないものを面白く、授業も古典文法だけに終始して読解をしていくのではなくその苦労の末に味わえるかもしれない何かを授業の中で生徒たちが捉え、「なんかいいかも」と思う体験を積み重ねていくしかないのでは、と思います。このためには、従来の古典の授業は改善されなければなりませんし、その教材の選定も見直されなくてはいけません。「伝統」だからといって、生徒の心に響かないような教材を、シラバスにあるからといってそれを教えていくだけでは、どうしても古典嫌いを生み出していくだけです。すべての人が「古典いいね!」となるのは考えにくく、古典嫌いは生まれ続けることは予測されます。これについては今のところ、授業改善で一人でも多くの生徒を、ということしか言えません。
授業者以外にできることは、漫画やアニメなどの他のメディアを通じて、古典と出会い、面白さを感じることや、研究者が一般的には知られていない、勘違いしていたことなどを専門的な立場からわかりやすく説明することなどがあるでしょう。学校だけではなく、様々な領域で古典と接していき、そこで「いいな」と思えるようなことをちょっとずつ増やしていくことが今のところ有効であるように思います。
また、古典には固有の価値がある、という考えは多少改善されるべきであって、古典の価値はその読者が生み出していくものです。もちろん古典自体にある一定の価値や歴史的な重みはあるでしょうが、最終的にはその人の中で「出来事としての古典」が生じるかどうかではないかと思います。
国民国家論の文脈において、古典は「日本」や「日本人」という意識を高めるために「創造」された、という議論もあります。古典教育論を擁護する側も、それを批判する側も、ともにこの議論とは無関係ではありません。様々なルーツを持つ生徒たちもいる以上、こうした議論を踏まえ、慎重に取り扱っていくことも必要なことでしょう。
「伝統」や「文化」はそれだけで価値があるのではなく、歴史的にはそれを享受した人たちが咀嚼して、そして新しく創造して更新していき、別の人に語り継ぐことによって成り立っているという側面もあります。古典教育の場では、「すでにあるものとしての古典」という点から学ぶこともありますが、それだけではなく生徒個人にとっての古典、その子がどのように受け取り、どのように対話をしていくのか、その点が古典の授業では必要となるでしょう。
もちろん、大学に進む高校生にとっては大学受験という制度があるために負担が増していく、古典文法や暗記は必要であるという現状はあります。しかし、面倒くさい古典文法や暗記をしてもなお、何か面白いものがあるのかもしれない、という気持ちにさせていくこと、そのために授業者は学び、いろいろと工夫をして授業の場を整え、ともに古典の価値について対話をしていくことが大切のように思います。また、大学受験という制度があるために、それにあぐらをかいている国語科の教員が反省することも、自戒の意味をこめて述べたいと思います。少なくとも今の古典不要論、古典が嫌いになった原因の一つには古典の授業がつまらなかったというものがあるのですから、その現実を真摯に受け止めていきたいと思います。ただ問題は授業改善をする余裕が教員にあるかどうか、これはまた教員の労働問題として考えなければなりません。
はじめの話にもどりますが、本当に古典が必要なのかどうか、そして古典教育が必要なのかどうか、そのことは議論されるべきではあると思うのですが、この議論が建設的になるためには「自分には理解できないけど、もしかしたら誰かにとっては、社会にとっては意味があるのかもしれない」とお互いにまた自分には実感できない立場や思想の違いを認め、そしてその上でそれぞれの利点や欠点、問題点などを少しずつ共有していくことが必要だと思います(個人的に嫌な経験や記憶がある方にはありえないとは思うのですが・・・)。結論ありきの議論は、たぶんすれ違い、互いを憎むだけになります。
時間はかかります。そして時間をかけるほど余裕はないという時代でもあります。「だからこそ」という言葉も空疎です。
でも、私たちの社会にとって何が必要なのか、そのために何ができるのか、古典に関わる人、古典に関わっていない人が少しでも寄り添って考えることは無意味ではないと信じたい。今の社会ではすぐにかき消されてしまうような淡い願望です。
昨日は古典教育の意義として以下の4点について述べました。
①伝統文化を継承して未来の世代に託す
②古典と関わる職業へのきっかけ作り
③古典世界のものの見方・考え方を知ることで自己の世界を広げていく
④教材の一つとして
①②については、社会にとって古典、③④は生徒にとっての古典という意味でまとめました。
前者については、今引き継いで学んでおかないと後世の人が古典を学ぶ機会がないかもしれないこと、そして古典の授業がなければそもそも古典関係に進むかもしれない職業選択の選択肢が生まれないかもしれないことについて述べました。
多くのコメントにもあるのですが、これは別段古典に限った話ではなく、音楽や芸術、芸能についても言えることです(英語や数学、理科についても言えるかもしれません)。社会が何を残そうとするか、これは議論されるべきことです。本当にそれは必要なことなのか、必要だとすればどのくらいの時間が必要なのか、そして必要とはどのような意味で必要と言えるのか、短期的なのか中期的なのか長期的なのか、そのような議論は必要だと思います。
初等中等教育においては、時間数は限られています。古典よりも、生活に根付いた、それこそ中学校を卒業してから働く人も一定数いる以上、そのような人たちが社会で生きていくための力を育成するために、たとえばリテラシー、プログラミングの知識、礼儀作法、法律、税制等、多くのことがあります。欲張りたい気持ちはあるものの、時間数だけではなく様々な困難を抱えている生徒たちに一律に教えるべきことなのかどうか、一律に教えないとすれば何をどのようなレベルに設定していき、その量をどのように設定するのか、それに関わる教科書や教材は誰が用意するのか、そしてそれを教える教員の授業力はどのようにして育成していけばいいのか、多くの課題が出てきます。
古典を現状維持で残すとすれば、古典との出会いによっていろんな道が拓ける生徒が出てくる一方で、古典の時間があるために学ぶことができなかったことと出会えずにその子が出会っていたら進んだであろう道を閉ざす危険性はあると思います。
何を残し、何を削り、何を増やしていくか、この問題を抜きには語ることができません。ただ学習指導要領では古典はなくすことはないと思います。「伝統・文化」は固有の価値があり、それは疑うこともなく「学ぶものである」というわけです。これについては、繰り返しになりますが、本当にそうなのかと問うことは必要だと思います(でも、誰が?)。
古典教育擁護、古典教育不要、いずれでもない、それぞれの立場があります。
擁護する人は、①実際に読んで面白かった、②現代語の成り立ちがわかる、③昔の人々の考え方がわかる、④古典を学ぶことが歴史等に関連するから必要(歴史学以外にも明治時代あたりの文章を読む力)、⑤リベラルアーツとして、⑥「日本人」としての民族性と継続性等々あるわけですが、擁護する側は生徒だった時か卒業してからある程度年齢を重ねて改めて古典に触れることでその人にとっての古典の意味が生み出されていくことがあるように思います。
逆に古典教育不要の立場の人は、前述のように①もっと教えるべきことがある、②面白くない、③進路に関係がない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛等々、その人にとって全く意味がないどころか害悪ですらある、そのような経験や記憶がある人が多いように思います。
いずれでもない人は、①義務教育課程ではなく高校になってから選択して学べばよい、②古典教育は不要だが古典自体は必要、③自分は面白かったが全体が学ぶ意味はないかもしれない、④社会全体として学んだ方がいいと思うけど自分はいやだ等々、一定の擁護と不要の考えがあるように思います。
擁護している人は、私のような職業にとってはありがたい存在ですが、その立場から古典不要論をいたずらに批判することはあまり建設的ではないように思います。古典不要論にも一定の理由がありますし、共有すべき問題もあります。排除する、議論の余地なし、となってしまい、そこで対話は閉ざされてしまいます。
とはいえ、すべての人が納得できる問題ではありません。
古典が本当に必要なのか、それに替わるものを教えた方がいいのではないか、こうした問いは役に立つ、実益に関わる問いであり、役に立つこと、実益はその個人にとっては幸福の一つの指標でもあります。未来の世代のことなど気にする必要もなく、機会が奪われてしまったとしても自分の生活の方が大切だというのは一つの見解ですし、説得力のあるものですし、それに対して批判をすることは容易ではありません。
私はこの対立は乗り越えられるかどうかは正直怪しいと思っています。私個人としては古典は必要だという立場をとっているのですが、今の立場からできることは古典不要論の立場の人があげている理由の②面白くない、④古典は好きだが授業(テスト・入試)は苦痛、この二つを授業を通じて改善していくことです。
面白くないものを面白く、授業も古典文法だけに終始して読解をしていくのではなくその苦労の末に味わえるかもしれない何かを授業の中で生徒たちが捉え、「なんかいいかも」と思う体験を積み重ねていくしかないのでは、と思います。このためには、従来の古典の授業は改善されなければなりませんし、その教材の選定も見直されなくてはいけません。「伝統」だからといって、生徒の心に響かないような教材を、シラバスにあるからといってそれを教えていくだけでは、どうしても古典嫌いを生み出していくだけです。すべての人が「古典いいね!」となるのは考えにくく、古典嫌いは生まれ続けることは予測されます。これについては今のところ、授業改善で一人でも多くの生徒を、ということしか言えません。
授業者以外にできることは、漫画やアニメなどの他のメディアを通じて、古典と出会い、面白さを感じることや、研究者が一般的には知られていない、勘違いしていたことなどを専門的な立場からわかりやすく説明することなどがあるでしょう。学校だけではなく、様々な領域で古典と接していき、そこで「いいな」と思えるようなことをちょっとずつ増やしていくことが今のところ有効であるように思います。
また、古典には固有の価値がある、という考えは多少改善されるべきであって、古典の価値はその読者が生み出していくものです。もちろん古典自体にある一定の価値や歴史的な重みはあるでしょうが、最終的にはその人の中で「出来事としての古典」が生じるかどうかではないかと思います。
国民国家論の文脈において、古典は「日本」や「日本人」という意識を高めるために「創造」された、という議論もあります。古典教育論を擁護する側も、それを批判する側も、ともにこの議論とは無関係ではありません。様々なルーツを持つ生徒たちもいる以上、こうした議論を踏まえ、慎重に取り扱っていくことも必要なことでしょう。
「伝統」や「文化」はそれだけで価値があるのではなく、歴史的にはそれを享受した人たちが咀嚼して、そして新しく創造して更新していき、別の人に語り継ぐことによって成り立っているという側面もあります。古典教育の場では、「すでにあるものとしての古典」という点から学ぶこともありますが、それだけではなく生徒個人にとっての古典、その子がどのように受け取り、どのように対話をしていくのか、その点が古典の授業では必要となるでしょう。
もちろん、大学に進む高校生にとっては大学受験という制度があるために負担が増していく、古典文法や暗記は必要であるという現状はあります。しかし、面倒くさい古典文法や暗記をしてもなお、何か面白いものがあるのかもしれない、という気持ちにさせていくこと、そのために授業者は学び、いろいろと工夫をして授業の場を整え、ともに古典の価値について対話をしていくことが大切のように思います。また、大学受験という制度があるために、それにあぐらをかいている国語科の教員が反省することも、自戒の意味をこめて述べたいと思います。少なくとも今の古典不要論、古典が嫌いになった原因の一つには古典の授業がつまらなかったというものがあるのですから、その現実を真摯に受け止めていきたいと思います。ただ問題は授業改善をする余裕が教員にあるかどうか、これはまた教員の労働問題として考えなければなりません。
はじめの話にもどりますが、本当に古典が必要なのかどうか、そして古典教育が必要なのかどうか、そのことは議論されるべきではあると思うのですが、この議論が建設的になるためには「自分には理解できないけど、もしかしたら誰かにとっては、社会にとっては意味があるのかもしれない」とお互いにまた自分には実感できない立場や思想の違いを認め、そしてその上でそれぞれの利点や欠点、問題点などを少しずつ共有していくことが必要だと思います(個人的に嫌な経験や記憶がある方にはありえないとは思うのですが・・・)。結論ありきの議論は、たぶんすれ違い、互いを憎むだけになります。
時間はかかります。そして時間をかけるほど余裕はないという時代でもあります。「だからこそ」という言葉も空疎です。
でも、私たちの社会にとって何が必要なのか、そのために何ができるのか、古典に関わる人、古典に関わっていない人が少しでも寄り添って考えることは無意味ではないと信じたい。今の社会ではすぐにかき消されてしまうような淡い願望です。