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菊地成孔の新刊『菊地成孔の欧米休憩タイム』(購入はこちらから)が、現在発売中だ。同書は、英語圏(欧米国)以外、特にアジア圏の映画を対象としたリアルサウンド映画部の連載レビュー「菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜」の中から記事を厳選し、新たに加筆・修正の上で収録した一冊で、同連載の番外編として掲載され、Yahoo!ニュースなどのネットメディアやSNSで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評などを収録している。
一方、リアルサウンドで執筆中の映画評論家・モルモット吉田は初となる単著『映画評論・入門! 観る、読む、書く』(購入はこちらから)を洋泉社より刊行したばかり。同書では、評論を巡る論争・事件の歴史から、“名作“”の公開当時の批評分析まで、徹底した調査と巧みな整理によって、映画の魅力、映画評論の面白さが紐解かれている。
今回、リアルサウンドでは奇しくも同時期に単著を上梓した二人による対談を行った。SNSが発展し、誰もが映画の感想を発信できるようになった今、プロの“映画評論家”は何をどう書くべきなのか? 鋭い批評眼を持つ二人が語り合った。
菊地「読み手に面白さを感じさせないと意味がない」
吉田:菊地さんのレビューは視点が非常に面白くて、普通の評論家ならこうは書かないだろうという切り口が魅力です。特に今は資料を踏まえた評論が主流になってきている中、人によってはプレス資料とほとんど変わらない評論を見かけることもあります。菊地さんはあえて資料や原作を読まずに書いていますね。こうした書き方は、菊地さんにとっての映画批評のコンセプトになっているのですか?
菊地:そうですね。本業がミュージシャンなので、音楽の本、特に理論書を書くときは資料を使いますけれど、映画に関しては見たまま総合的な知識の記憶と直感で繋げて、読んで面白く書くという感じです。音楽の本を書くときはあっちの大学、こっちの音大の図書館まで行くので、ウエブ連載でそれと同じことをやってたら身が持たないですね。
吉田:そうした書き方をされる中で、『ハッピーアワー』の記事(注:「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析)では、クロード・ガニオンの『Keiko』を引き合いに出して繋げていったところが面白いなと思いました。『Keiko』は直感的に出てきたのですか?
菊地:そうですね、僕はシネフィルと言うほどくまなく見ているわけではありませんから、日本のインディーの船影をくまなくチェックした上で、、、、なんてことはできません。なので音楽のミックスセンスというか、『ハッピーアワー』では、『Keiko』と並べる。という直感が、うまく繋がったっていう感じです。
吉田:最近の紙媒体、特に映画雑誌だと「『ハッピーアワー』は監督のこれまでの作品を踏まえて書いて欲しい」という話になりがちです。僕はちょうど『テラスハウス クロージング・ドア』と同じ年の映画だったので、”リアリティーショー”で繋げて書けないかと話したんですが、「『ハッピーアワー』と『テラスハウス クロージング・ドア』を両方見る人はまず居ない」といわれて終わってしまいました。
菊地:なるほど。でも、それはすごくいいミックスですね。
吉田:そういう意味でも、今の映画評論に対する菊地さんからの意思表示が『菊地成孔の欧米休憩タイム』かと読んでいて思いました。
菊地:そうですね。まあ、勿論、繋ぎだけが手法じゃないですけどね。ただ、単なる思いつきだとしても、それが実際に面白く、つまり読み手に面白さを感じさせないと意味がないです。僕はいま54歳ですが「どこかにちゃんとやってくれる人はいるから、こっちは砂場で好き勝手に遊ぶんだ」といった子どものメンタリティであるとも、一種の隙間産業的とも言えます。1冊目(注:『ユングのサウンドトラック』)に書いたようなゴダール論は、ゴダール学閥のような専門の人達がフランスの哲学や美術を引用して書くので、自分は自分なりに音楽と資本主義と恋愛でゴダール論を統一視しよう、と。基本的に、映画評を書く人は音楽を伴奏だと思っているので、もうちょっと密に音楽との関係を書こうとしたのが1冊目でした。
吉田:映画と音楽について書かれた評論を読むなら、評論家よりも、佐藤勝さんや武満徹さんのような実際に映画音楽を手がける方が書かれた映画本(『300/400 その画・音・人』(キネマ旬報社)、『夢の引用 映画随想』(岩波書店))のほうが、読むべき点があるのではないかと思うことがありますが。
菊地:そうですね、あります。特に武満さんはそうですね。鋭いですよね。
吉田:『ユングのサウンドトラック』は、蓮實(重彦)さんとの対談が非常に面白かったです。蓮實さんに「『大日本人』を観ましたか?」と聞いた方は他にいないのではないかと。
菊地:音楽家として、ショービズをやっている人間としてのサービス精神というか、勿論ガチで対談するんですが、相手が誰であろうと、ところどころパンチラインを残さなければ、というのはありますね(笑)。
吉田:どうも他のインタビューなどは、蓮實さんの好みに沿うものが多いですね。
菊地:そうですね。どうしてもご機嫌とり、茶坊主になりますね。僕は先日亡くなった重臣くん(蓮實重彦氏の子息、今年6月に病で死去)と高校生の頃からの友達で、蓮實先生は重臣くんのパパだから、”あの大蓮實”という、余分な畏怖や崇拝があんまりないんですよ。とはいえ、「先生、『大日本人』見ました?」というのは、ネタなんかじゃなくて、マジで知りたかっただけですよ。っていうのは、北野映画の賞賛者ですし。
吉田:蓮實さんが松本人志監督作を見ていてもおかしくないですからね。
菊地:まあ、結果はかわされちゃうんですが(笑)。ただ、はっきりと、自分は音楽に100%興味がないんだと明言されること。あそこも蓮實流ですが。何の批評をするにしても、ある程度、音楽も好きだし、わかるよ、って顔してたほうがいいじゃないですか。でもそういうハードコアな態度によって、論客としての音楽家との完全な断絶が生まれるので、かえって話しやすいです。
吉田:そこで蓮實さんの方から「逆に聞きたいのですが」という形で話が進むのが面白かったですね。蓮實さんの書くものは、昔からお読みになっていましたか。
菊地:読んでいましたよ。伝説の『POPEYE』の連載や、『表層批評宣言』(筑摩書房)も。この前、廣瀬純氏と対談したんですけど、氏はとにかく「いろんなことに間に合わなかった」っていうオブセッション(強迫観念)じみたものがあって、そこから様々な論を派生させて行くんだけど、中でも「現代思想に間に合わなかった」「蓮實に間に合わなかった」って言っていて、一方の僕は間に合った世代です。わからないながらも、間に合いましたので、もちろん読んでいました。
吉田:影響を受けるものはありましたか?
菊地:そうですね、一種のダンディズムなので、かっこいいなと。あの時代に合っていたんでしょうね、オルグする力も。ただし、自分が映画を見て「この映画は面白いな」「つまんねぇな」と思うこととは無関係というか、あれは一つの批評芸、美学芸なので。そういう意味では影響は受けているかもしれません。よしんばその作品を観てなかったとしても、話は面白いな、という着地点を大切にするという意味では、同時代の近田春夫さんの音楽批評にも似たところがあり、これはモロに影響を受けていますね。
吉田:確かに、蓮實さんのトークイベントに行くと、2時間まったく退屈させずに爆笑させながら会場全体を惹き込ませるのに驚きます。
菊地:ただ、カリスマですから、蓮實以前/以降っていうのが政治的な対立項として、戦闘を生むのは不可避的ですから、蓮實先生の旗色が悪くなったり、良かったりという戦況の推移を見るのも楽しかったですね。DVDが出たときに、誰もが映画を1回観た記憶では喋れなくなって、検証された時には「蓮實の記憶が曖昧だ」とか言われて(笑)。それに蓮實先生が反撃するときには「動体視力だ」とか、ああいえばこういうって感じが楽しかったです。とまれ、自分が書くようになると、SNS時代という、想像もしてなかった世界がやってきて、書くととてつもないところからいきなり弾が飛んでくるっていうことを知りました。『セッション』を酷評した時、町山(智浩)さんからいきなりバーンって撃たれたので(笑)、こういうこともあるんだなと。