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わたしは黒鍵さんの詩が大好きです。題名のことを暴露する第一の理由はそれ。第二とばして第三の理由は、わたしがbungokureviewでお世話になっている花緒さんの文学極道投稿作品のコメント欄に出現した「空転」さんなるレッサーを目撃し、後述のことを思い立ったから。そして第二の理由は、思い出したからです。
にねこさん『むしろ、カマキリの言い訳。』(文学極道2013年1月15日投稿版)
上記の作品からわたしの感受した内容が、わたしの今年文学極道に投稿した5作のうち、3作の趣旨であったこと。そして、その重要な作品に言及した3年半前のヒヒョーを、(黒鍵さんとはなんの関係もない)諸事情で削除したまんまだったことを。
そのヒヒョーを公開しておかないと、拙作へのかとりさんの重要な批評に返信しようにも、わたしのなかで話の筋が通りません。そのためここにそのヒヒョーを再掲し、ついでに、空転さんの中の人を勝手に暴露しておく次第です。
後述の事情からして、ご本人には迷惑な暴露かもしれんのですが、有名人税ですわ。だいたい、
空転 :
あーあーあー。花緒さん『た、ど、る、』コメント欄
(中略)
かつてぶんごくで、すっげー詩を書いてた暴れん坊がゆってた。
「読めない奴は書けない」
賛同できないけど、わっかる。その気持ち。
(後略)
('16/10/18 02:53:38)
こんな花緒さんの知るわけない話を、花緒さんつまりbungokureviewのライターに、けんか腰で振るなんて、あたしへの果たし状としか思えない。(※関係妄想。(※理由とか事情とかは話せません。ので代わりに書くことにした。そう。
わたしは3年半前、文学極道のにねこさんの『むしろ、カマキリの言い訳。』に言及し、その言及について、メビウスリングのプロ詩で空転さんに指摘されたことがあります。
- にねこさんのその詩はその後、わたしが蛾兆ボルカさんとメビウスリング名物「お返詩」で交流するネタとなり、わたしの文学極道4月優良作品の元型となりました。
- ちなみに空転さんのこの詩『あいうえ、』は、わたしの文学極道7月優良作品(その初稿がこちら)『ひふみよ。』への「お返詩」です。
つまりわたしは黒鍵さんの詩が大好きです。
近日、文学極道で、「空転」さんというけっこう熾烈な罵倒をするレス専が活躍していました。そして文学極道では、わたしも親愛なるいすちゃんも天才詩人さんのスレでひどい目に遭いましたが、レス専がレス専だというだけで軽蔑されがちです。
レス専が軽蔑される理由のひとつには、ネット詩人の「詩書きの詩書きによる詩書きのための技術論」に終始したがる悪癖があるかもしれません。その悪癖の大問題については後述します。
もっとも罵倒上等・文学極道に限っては、その大問題をひとまず度外視しなければなりません。下記に引用する、花緒さんの意見のような考えが、もちろん圧倒的多勢でしょうから。
花緒 :
>空転様花緒さん『た、ど、る、』コメント欄
激励の言葉、如何様に受け取らせて頂こうかと、貴兄の作を検索しましたが、貴兄は一作たりとも作品を投稿せず、上級者ぶったレスばかりつけていらっしゃるようですね。斯様な振る舞いは感心しません。拙作に限らず、酷評・罵倒されうる立場に立たない投稿者に許される物の言いようとは思われません。 ('16/10/19 19:42:22 *3)
つまり「人を罵倒するんなら、てめェも罵倒される腹を括りやがれ。」ということ。一般的に考えると、ちょっとおかしな意見です。「人を罵倒してその場で罵倒を返される腹なんて、だれでもふつう括ってるんじゃないの?」と一般的には思いますよね。ところが文学極道には、その一般常識が通用しません。
なにせ文学極道には、ことさらケムリ元代表が熱弁していた「読者優位」の慣例があります。「投稿者を罵倒するのはよいが、レッサーを罵倒してはいけない。」という、圧倒的に不健全な非常識がまかり通っているのです。だから「投稿者とレッサーの立場が平等でない」という、一般的にはあり得ない非常識を前提とした、花緒さんの意見が妥当となるのです。
犯罪でもない詩作をどれほど的はずれに罵倒しても許されるが、批評のほうはどれほど的はずれでも糾弾「してはいけない」のが文学極道。どう贔屓目に見たところで、不健全ですし非常識です。私見に疑いを持てない者に、批評をする資格など、本来あるわけがありません。そもそも文芸批評は、「悪いと思った作品には言及しない」のが常識なのですしね。
その常識のゆえに実際、ツイッターや2ちゃんねるのニュー速やらVIPやら、批評の資格もないバカが言いたい放題言っている場は、世間様から「民度が低い」と激しく糾弾されています。
たとえば、これはbungokureviewにも引用したのですが、下記ツイートのように。
否定的な批評を行うことは容易である。なぜならば、どんなものでも、じっくりとよく見れば欠点を見つけることは常に可能だからである。もっぱら欠点に注意を向け、価値あることを無視することはしごく容易なことである。しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者のほうが偉く見えることである。批評することはきわめて容易なので、それはしばしば、他のいかなる方法によっても人の興味を引くことができない凡庸な輩の避難所となる。
文学極道の内部からこういう自省が出てこないのは、ダーザイン元代表やケムリ元代表の檄文に酔いしれているから、まさに馴れ合っているからでしょう。罵倒家は称賛を馴れ合いと嘲笑するが、読解に手を尽くすことを旨としているわたしに言わせれば、文学極道という安全圏での無責任な放言こそは、文学極道にしか通用しない馴れ合いです。
そういう意味で、前回述べた百均さんの姿勢にも問題はあると思うのですね。文学極道の非常識を相対化も客観視もできないまま、ただ「ダーザイン元代表やケムリ元代表がかっこいい」というだけの理由で文学極道を称揚しても、「非常識な馴れ合い」「バカの戯言」で話が終わるでしょう。
前回「文極周縁では、賛辞が罵倒の百倍難しい。」と述べましたが、それは「文極を称賛するのは、文極を罵倒するのの百倍難しい。」ということでもあります。わたしはその難しいことに、6年渾身で挑んできたので、そこを百均さんに買っていただけたのならありがたい。────で。
今回の話題「空転」さんは、中の人がリアルの現代詩人ですので、文学極道の非常識がもはや通用しません。「もはや」というのは、かれが、2012年12月に文学極道にデビューするまで、詩を書いたことすらなかったような人なので、「かれが2013年の『詩と思想』新人賞で詩壇デビューする以前については話が別」ということです。
わたしはその「話が別」である期間────2012年12月から2013年11月までの、かれが「ネット詩人」であったごくわずかな期間────に、メビウスリングで「空転」さんと少しばかり交流したことがあります。このことは暴露してはまずい情報なのかもしれませんが、暴露しないとわたしの話が進みません。
そこでさっそく有名人税徴収。「空転」さんが文学極道2013年間新人賞次点の「にねこ」さんで、そのにねこさんが先述の横山黒鍵さんだということの証拠を出します。
空転さん=にねこさん=横山黒鍵さんの証拠
- ひとまず下記の投稿作品群をご比較ください。
- 横山黒鍵さんはリアルの現代詩人です。
- 直近の活動のひとつに、日本現代詩人会詩投稿第1期(2016年4〜6月)の入選があります。ちなみに、かれを落とした唯一の選者である野村喜和夫氏に、かれは師事しているようです。
- ちなみに、その入選作品の題名が『いぶき』ですが、かれが第24回(2013年)『詩と思想』新人賞でデビューした折の筆名は横山「伊吹」でした。
- ちなみに男性です。朗読を聞けばわかります。演劇畑なので美声かつイケメンです。
- 横山黒鍵さんは「二匹の猫が互いに同時に存在する。」
- ツイッターの#pw(ポエティック・ワンダー)連詩組には、上記ツイッターアカウントから参加していました。
- したがって『現代詩手帖』2014年10月号特集「共同詩、詩を開くために。」の「ツイッター連詩【詩のレシピ】pw連詩組&現代詩手帖共同企画 #pwGT組 完全版」には、「二匹の猫は互いに同時に存在する。」の名が載っています。
- そのゆえ横山黒鍵さんは、文学極道では「にねこ」さんです。
- たとえば、にねこさんの文学極道最新投稿『岐路』(2016年5月優良)は、詩歌梁山泊にも「横山黒鍵」の名で載っています。
- ちなみにかれの筆名の由来は、「にねこ」「黒鍵」とも、文学極道デビュー作(2012年12月佳作)の【and she said.】を読むと想像に難くありません。
黒鍵さんと「にねこ」さんが同一人物であることは、上記④の『岐路』で証明できますね。空転さんとにねこさんが同一人物であることも、上記①の現代詩フォーラムとメビウスリング検索結果を比較すれば明白と思います。
が、現フォのアカウントは、いつ消されるかわかりませんからね。念のため、投稿者による修正が不可能であるメビウスリングから、証拠を挙げときますね勝手に。
無許諾:2016年2月メビウスリング詩人板より引用
2016/02/23 澤あづさ▼黒鍵たんへ。
>>1363 (証拠保存コピペ)
NORANEKOさん(※わたしの心の弟)やら、水魚さん(※わたしの大好きな紅月さん)が書いてると、書きたくなるなぁ。。。。
書こうかなぁ、、、、ぼやん
2016/02/25 空転さん名前ださないでよw
びっくりした、笑ったwとある編集の人たちにとってはココはトラウマな場所だから、ココにいるって知られたら印象わるいw
ま、気にしないけどw
2016/02/25 澤あづさ知られてるに決まってるし隠す意味ないと思ってΣ(゚д゚lll)
────ハッ!? よもやそれで作品投稿しない派ッッッ
_| ̄|○ il||li ←反省 < 投稿が来ないかもしれないので落胆
メビウスリング詩人板「チラシの裏のぼやきた」
つまりわたしは、黒鍵さんの詩が大好きです。2012年12月の文学極道デビューから注目しているので思い入れも深いです。先日百均さん宛てに熱弁した大好きな紅月さんの詩と同じくらい。
その紅月さんも十代の文学極道を、評価に恵まれず過ごしましたが、「にねこ」さんも文学極道ではわりと落ちてました。本稿の趣旨である『むしろ、カマキリの言い訳。』も落ちました。この手の筆致は「無条件で好み」と思う人と「とっくに食傷した」と思う人が五分五分だろうと思うので、評価が水物になるのはしかたないのですが。このレベルの書き手でも評価に苦しむ文学極道という実態が、「空転」さんのキャラの背景にあるわけです。
ちなみに「にねこ」さんの『岐路』には、そのときたまたまわたしも投稿してたのでレスしましたが、
すばらしく鑑賞し甲斐のある、個人的に好みど真ん中の大物ですが、いくらなんでも読者に対して挑戦的に過ぎるような気がします。 にねこ『岐路』コメント欄 16/05/15 澤あづさ
わたしの脳内において黒鍵さんの詩は、わたしの大好きな紅月さんの詩とは(後述の通り筆致には共通項があるものの)ぜんぜん違って、しかし難点は似たような感じです。とにかく、飛躍が派手すぎる。紅月さんは飛躍より「文章をかっこよくするための割愛の多さ」が難点なんだが、黒鍵さんは飛躍そのものが天然すぎる。
もちろん天然は「余人をもって代えがたい価値」に相違ありません。そのうえわたしの鑑賞のほうが非常識である蓋然性も高いので、是非も当否も問えませんが。『岐路』は初見で、ほんとスノッリの『詩語法』みたいに見えましたね。つまり「日本の現代詩に古ノルドの修辞法を持ち込むとは、さすが黒鍵さん…………!と。もちろん徹底して好意ですよ。
文学極道デビューのころは、【and she said.】に顕著な「構造の実直な重視」ばかり目につき、選語については「むしろ陳腐」と思っていたのですけど。その「わたしには陳腐に見えた選語」の用途すら、わたしには想像の及ばないような天然であったことが、のちに判明したのでした。ああ。
そういやこんな罵倒もしたのだった。
「ろくな描写もなく抽象的な比喩を放り出す」ことと飛躍や凝縮を混同なさっているんだとしたら、それは勘違いだと思う、とものすごく大きなお世話を付言しておきます。 空転さん『ジュシンマエ、雨。』コメント欄 2013/03/24 澤あづさというご指摘。
実は以前も誰かに、別の作品を「構造に拘泥している故に描写不足」「心理描写と会話しかない幼稚なラノベ的感覚」「語彙が現代詩の手垢にまみれて陳腐」と同じようなご指摘を頂いたんですよね…。
同上 空転さんの返信
そしてそのだれかの罵倒を、空転さんとはまったく関係ない事情で隠蔽したのだったぜ。2013年前期のメビで、あのいろいろさんざんだったころに、そういろいろあったのだったなあ。
※いろいろさんざんだった経緯については、諸事情あってとても語りにくいので、北さんとのツイッターでのお話をご参照ください。
なにはともあれ上記の罵倒は、わたしがHHMにA4用紙64枚分の愛読記録を垂れ流した3ヶ月後のできごとです。当時の空転さんは、まだ文学極道にデビューしたての詩自体ビギナーさんだったからか、わたしの偏愛に恐れをなしてくださっていたようでした。
まあ、前回のブログにもbungokureviewに書きましたが、あのヒヒョーはだめなんですけどね。
わたしが標榜している「ヒヒョー」というのは、三年前に現フォで催されたHHMというイベントの用語です。文学極道の自称批評とは真逆の、「賞賛と表敬と読解」のイベントでしたが、文学極道フォーラムの「こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど」というトピックの影響で開催されたものです。
▶「こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど」
▶ちなみにこちらが、わたしのHHM参加作品のログ。文学極道の詩1本への賛意を表明するため、46000字(A4用紙64枚)を費やしましたが、われながらこんな駄評では、この詩のすばらしさを百分の一も表現できていないと思いますね。書いてたときは夢中だったし評価も高かったが、いま読み返すと恥ずかしいです。
bungokureview「澤あづさ ft. 天才詩人『Avenida 68 (藝術としての詩・続)』」コメント欄 2016年9月16日
ちなみに書いた当時も「これではだめだ。」と思ってはいました。そのだめなことをあえて「愛読の示しとして」やるという挑戦だったので、当時空転さんからいただいたご注目が、とてもありがたかったことを記憶しています。
6年もネット詩評をやっていると、思うところが山積みですのでね。
文学極道もメビウスリング詩カテゴリも「詩書きしか集まらない場」ですから、レスがどうしても技術論に終始するわけですよ。文学極道のケムリ元代表など、技術論以外の批評はしないと公言していたくらいです、ちなみに規範はイーグルトンだったそうですが。
その「技術論」こそは、前回引用したYahoo!知恵袋の正体なのですよ。いいですか再掲しますよ。
質問「現代詩はどうして何をいっているのかわからないのですか? 詩の批評もそうです。別に難しいことを語っているわけではないのに、意味がまったくわからないです。」ベストアンサー「他の人に批評されたくないので、わざと仲間内だけで使う暗号で語り合っているのです。完全な自己満足です。相手にしないのが一番です。」 Yahoo!知恵袋
詩書き以外の人間に、詩を書く技術など必要ない。必要のないことに関心を持つ人間はふつういない。だから詩書き以外の人間には、技術論とかおれさまの感性とかに終始する現代詩評が「仲間内だけで使う暗号」に見える。簡単な話ですよね。
ところが現代詩も文学極道も、そういう根本を自省しません。目を背けているのかもしれません。技術しか語らない詩評など「詩には内容が一切ない。」と公言するも同然です。先述した日本現代詩人会の選評に「何をどう書いてもいい。そんな詩作の喜び」という文言がありましたが、そんなのは、「わたしらが喜んで書いただけの、有用な情報の一切ない文章を、あなたも一緒に喜んでください。」と言っているのと同じなのです。
批評がそのざまで、批評対象が読まれる道理はありません、現代詩も文学極道も同じです。「読書家の需要」に沿って「有用な情報」を提供しない限り、現代詩や文学極道が「詩書き以外」の読書家に読まれる未来など永遠に来ますまい。下記のご大層な技術論(ええこの拙劣なおしゃべりこそは技術論の究極です!)は、その暗澹たる未来の象徴です。
破片 :とりあえず、雛鳥むくさんか、紅月さんの作品を読んだらいいと思います。
同様のモチーフや小道具を彼の方が上手く使います。作風が違うとか、人の真似をしたくないとか、そういうのもあるかもわかりませんが。 ('13/01/15 21:17:05)にねこ :破片さんにねこさん『むしろ、カマキリの言い訳。』コメント欄
ありがとうございます。真似をしたくないとか、そういう思いはありません。ただ良くしたいです、自分の作文を。雛鳥むくさん、紅月さん(同じ方ですよね?)の詩を、これから読んでみます。ありがとうございます。 ('13/01/15 23:02:30)
もちろん雛鳥むくさんと紅月さんは同じしりかげるさんの亡骸ですが、そんな話はまさに「意味がまったくわからない」「仲間内で使う暗号」でしょう? にねこさんの詩が紅月さんの詩と技術的に似ておりその巧拙がどうこうなんて、詩書き以外の人間にとってどうでもよすぎる話にばかりたわけているから、現代詩も文学極道も、詩書き以外の人間に嘲笑されるのです。わかりやすい事例だったでしょう?
ですからわたしは、この大口を自省するためにそう、
実は以前も誰かに、別の作品を「構造に拘泥している故に描写不足」「心理描写と会話しかない幼稚なラノベ的感覚」「語彙が現代詩の手垢にまみれて陳腐」と同じようなご指摘を頂いたんですよね…。
同上 空転さんの返信
空転さんとは関係ない諸事情で隠蔽したその「だれかの罵倒」を、下記に再掲するのでした。
2013年2月 HHM始末書/【ヒヒョー】にねこ『むしろ、カマキリの言い訳。』 再掲
2013年2月17日「HHM始末書」再掲
先日のHHM講評にぶつくさ言ったら、caseさんが裏講評をくれましたよ。
さすがcaseさん。みごとに読解家。
賛辞も批判も、びっちりクリティカル。
そのうえ物言いが癒し系すぎる。
わたしの持論は、出身がいかいか道場ですのでもちろん、
「読めないやつは書けないし、書けないやつは読めない。」
「独創的な読み手は、独創的な書き手でもある。」
です。
先日のHHM参加作品では、その持論を貫くつもりで、いかいか道場名物・書き換えを応用し「詩の読解を小説ふうの散文で表現する」ということをやりました。そして主宰のcaseさんに、「ピンチョンごっこ」という寝首掻きの褒め殺しをいただいたのでした。
ヒカ碁を目指したはずのヒヒョーが
ピンチョンごっこでどうする。
自分では「表現の内容を大衆的に集約」したつもりだったんですが。しかもその大衆性がまずい、葉月二兎さんを大衆詩人など誤解されては大ごとだから、むしろ注解で批評すべきだとか、ひとりで深刻に煩悶していたんですが。
先日、別口から「きみの注解はうけませんよ」ともツッコまれ、いよいよ自覚したのでした。わたしのヒヒョーはどうやら、マラルメふうの詩をピンチョンのふうの掌編に書き換えたような、単に難文を別の難文へ置き換えただけの代物に過ぎなかったと。
caseさんはこのように好意的でしたがわたしの場合、そもそも大衆性の認識が、たとえば「パムクはミュラーに比べれば大衆的」とか。たぶん根本的になにかしら大間違いなのでしょう。そんなやつの書く、ただでさえピンチョンごっこな内容を、文脈すらあきらかにしない注釈という形式で表現したら、もはや注解とか評論とかいう以前に「原著を上回る難文」になりかねません。
それではだめだ。作品としてはありでも、ヒヒョーとしてはやる意味がない。
批評対象を読者に訴求できなければ、ヒヒョーはまったく無価値だとわたしは思っています。
反面、「自分のやりたい表現をやらないのなら、そもそも執筆する意味がない。」とも思います。
ぐぬうううううどうしたもんだろうなあああああ。
2013年2月24日【ヒヒョー】にねこ『むしろ、カマキリの言い訳。』再掲
ところでわたしは最近、文学極道の新星・にねこさんが大変気になっています。
きわめて濃密な詩の書き手で、意匠の多義や含意を巧みに利用した、奥行きの深い修辞を駆使します。そしてその多読性が、ただ読者を「テクストの快楽」に酔わせるような、文脈を無視した野蛮な解釈を募るような代物ではありません。多義も含意もぜんぶ文脈に回収し、ひとつの題に収束させて、強靭な詩情を練り上げます。わたし自身が理想としている表現の実践者なので、まったく大いに気になっています。
わたしの現在イチオシは【and she said.】の、「鮮やかに白黒つかない感じ」なのですが。こちらもずいぶん人気ですね。
不和をごまかすようにして催される情事や語りが、「生きるために食うこと」に重ねられています。そして「食ったもの(発した言葉)に食われている(自分の言葉にみずから騙されている)自分」を描出しています。修辞も飛躍も緻密で巧みです……とあとから思ったものの、初見ではどうも、「陳腐で軽薄」という悪印象を払拭できませんでした。
まずもって【おかあさん/からの/断絶】が、発達心理学でいう愛着と分離個体化とかの理屈そのまんまですよね。わたしは心理学部卒なので、母子一体化という話材には(批判的な意味合いも含めて)関心があります、そのゆえその手の現代詩に食傷もしています。現代詩には「母」という「記号」がやたら頻出しますが、「母という記号」に拘泥するあまりその大前提である「父という記号」をすっかり失念するような、まったく「陳腐で軽薄」としか言いようのない代物が多くありませんか?
そのうえこういうなんつうか、いかにもpoeniqueとか女性の身体性特集(※そんなのを現代詩手帖が組んだことがあるのかどうかは知らない)とかに転がってそうな筆致にも、やはり食傷しているのです。たとえばコメ欄でも指摘されている通り、語彙が紅月さんのに激似ですから、こんなの紅月さんひとりで充分だとか。圧倒的な偏見でもって。
紅月さんの詩は総じて、まあ習作だからなんでしょうけど、語彙がおっそろしく偏狭なんですよね。その偏狭な語彙でもって緻密な幻想を描き出し、舞台とその暗示を「体感」させてくれるから、かれの詩には説得力があるのであって、「語彙をうまくつかっているからうまい」わけではないと思っています。
対してにねこさんの詩は、構造への拘泥に妨げられているのか、総じて情景を描写しきれていない印象。特に『むしろ、カマキリの言い訳。』は心理描写一辺倒で、詩に「舞台」がありません。たとえば【うすごおりの張る/小さな水面に/爪先立ちで】。「薄氷を踏む」と破瓜を掛けているんでしょうが、叙景になっていません。単に比喩ですし単に飛躍ですし単に心理描写です。
心理描写と会話しかない幼稚なラノベがつまらないのと似たような感覚で、わたしの初見においてこの詩は「つまらなかった」。だから初見では内容まで読む気にならなかったのですが……この機会に、比較的まじめに読んでみようと思います。
まじめに見てみますと、この詩の意匠はどうやら創世記のエヴァ(イヴ)ですね。【なつかしむ名前】はおそらく、エデンにあったころのアダムおよび「女」を指しているのでしょう。
それというのも創世記3章20節によれば、「アダム」(土くれの意)に対する「エヴァ」(命の意)の名は、失楽園ののちアダムによって命名されたものです。それ以前、エデンにいたころのかの女は、単に「女」(男から取られたもの)と呼ばれていました。このことは、「人(男)の助け手」として創造された「女」が、「命」の名とともに「男に支配(所有)」される【僕(しもべ)】の身分を得たことを示唆しないでしょうか────大胆に言うなら、「命とは奴隷の別名である」と。
キリスト教の通念によれば、(※ちなみにユダヤとイスラームは解釈が異なります。)「女」は蛇に誑かされてアダムに知恵の実(リンゴ)を食べさせたので、その咎のため「出産の苦しみ」を負わされ(創世記3章16節)「命」となったのでした。すなわち失楽園まえの「原初の女」には、「出産の苦しみ」がなかったわけですが、それが「出産しない」ことと「出産するが苦しまない」ことのどちらを指すのかは、創世記の記述そのものからは判断できません。創世記のそうした「解釈の幅」が、3連にみごとに集約されているように読まれます。
わたしたちを零れさせる
沈黙の破れた皮袋は
それはかつて宝石が入っていたそうで
今は擦り切れて
ただの姦しい死体の一部になった
『むしろ、カマキリの言い訳。』3連)
かつてエデンで知恵も意志も持たず【宝石】のように神に所有されていた原初の人も、知恵の実を食ったためにエデンを追われた【姦しい死体】も、どちらにせよ「生きてなどいない」。人の生くるはパンのみに由るにあらねど、神だか愛だかなんだかを貪ったところで「生き」られるわけではない、では「生きている」とはなにか。というような。
わたしの悪い頭では抉りきれそうにないけれど、そこはかとなくドゥルーズの『差異と反復』が匂うような。
他者との関係が他者を食う行為に等しく、自分が他者を食っているんだとしたら、他者も自分を食っていることになる。わたしは食った他者に食われ自己を喪失しているのだ、という「自意識」に結局帰着するんだったら単に差異を反復横跳びの永劫回帰じゃねえか、さあ失楽園まで巻き戻し、的な?
まじぜんぜん抉り出せんが、模索してみます。
────まあこんな半端な思索などしなくても、この詩にはそもそも、「けんかのあと気まずさをごまかすためにセックスしたって、ふたりの関係の問題はなにも解決しない。」といった、それなりに恋愛経験のある人ならだれでも痛感しているような虚脱感があり、その感慨にひたるだけでも楽しめるわけですよ。
ありふれた経験を踏まえて、極端な論理へ飛躍する、日常のふとした気づきから、深い思索へ読者を導く。そういう激しいギャップが、この詩の最大の見どころなのでしょう。詩を「感じたい」人にも「考えたい」人にも、単に表現のうまさに「感心したい」人にも楽しめる。現代詩のビギナーにもマニアにも、まだビギナーだがいずれマニアになりたい人にも向いている。貴重な作品です。たぶん。
いま気づきたてのことだから、「たぶん」以外なにも言えませんけど。
- comments9 comments
記事ではさんざ批判したものの結局、文学極道の激萌えな美点は、まさに花緒さんのような投稿者の自発的行動、「罵倒されたので、むしろそいつの詩を読むことにした。」といったふつうあり得ない向上心なのですよね……!
・:(〃Д〃人):・
いや感動してる場合じゃない。
無許諾でネタにしてしまいすいません!
※ちなみに当然、黒鍵さんにも無許諾ですので、なんら客観性ないけどご安心ください。
***
とにかく、あの人の詩はすばらしく、わたしは大好きなんですよ!
好みは分かれると思いますが、少なくとも読んで損はしないとわたくしめが(一切の権威もなく)確約します。ぜひぜひぜひぜひ文極の「にねこ」さんの選出作品集からご参照ください!
***
それにしても、「食らった罵倒の意味を熟考するために、その本人の詩まで読む必要がある。」ということは、「本来なら批評対象を精密に読解すべき評者が、逆に、自分の批評に対する精密な読解を、批評対象著作者に要求している。」ということに等しいと思います。わたし個人はそのような、「わたし自身の目的に好適でない手段」を、あたう限り忌避したいですね。
しかし花緒さんのような投稿者に恵まれている限り、文学極道のあの流儀は確実に成立するのです。わたしの信条など関係なく、ぜひ隆盛してほしいと改めて思いました。
・:(〃Д〃人):・
いすちゃん
No title
にねこさんの作品はセクシーなるお
(=^~^=
いすちゃん
ところで・・
文極の、仲間内技術に偏った批評というのは、その通りで…一般の人からもプロの評論家からも
隔離された「出来事」だものね
個人的な趣味でやる分にはオッケーなんだろうけど、それでは詩は読まれない
なので、あづにゃんの普及活動には頭が下がるのだ
バックグランドもパースペクティブズもなき技術論では、新しい局面に対応できないものね
それと案外、みんなからの感想って奥が深いと思うことがよくあるよ。
ところで、
葵さんの『アジテーション』に批評を入れたんだけど、あづにゃんの視点を知りたいお
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=9149#20161001_836_9149p
おおいすちゃんようこそ! 黒鍵さんの詩はたしかに(文体が耽美的という意味で)官能的だ。4年近く前『むしろ、カマキリの言い訳。』に限って「語彙がわたしの大好きな紅月さん(の偏狭な)のに酷似している点」に過剰注目したのも、紅月さんと同じほど耽美的だったからにほかならない。
ただ「語彙が似てる」ことと「選語が似てる」ことは違うのよね。少なくともわたしにとって、紅月さんの選語と黒鍵さんの選語は、同じ単語であっても「用途」が異なるわけなのね。そのへんのこともいつか書けたらいいな。
いま、きのうコメントをいただいたねむのきさんがツイッターで発表なさってた英詩翻訳の感想文に感化され唐突にE.E.カミングスの詩を試訳とか書いてて、それどころじゃないんだけど。
***
われながら、いすちゃんがせっかく教えてくれたかとりさんのすてきな批評への返信は、いったいいつ公開するんだ、
(以下全面的に割愛し、次のレスで葵さんの詩の話をする。)
これね。
http://bungoku.jp/ebbs/20161001_836_9149p
切り口をつかみやすい作品なので言及は簡単だが、お相手がいすちゃんでは、単なる好悪の自意識過剰な露出などしても恥をさらすだけだからな。メビでよくやってた「内容の鑑賞&技術の批評」の二段階で述べてみるね。
▼以下、内容の鑑賞
ひとまず7連【あの詩人が云うには/街に出なきゃならない/だけどあいつはタダの/いじめられっ子に過ぎない】が目につく。寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』(まさにアジテーション)へのアンチみたいな印象。つまりこの『アジテーション』は、むしろ「反アジテーション」という印象。
たとえば終盤に出てくる【空が落ちてくるなら/ちょっと薬が必要】。「空が落ちてくる」というのは、悲観主義者を指す慣用表現だから、「メンヘラなんて向精神薬一錠で(一時的には)治っ(ったような感じになっ)ちまうもんだ。」といった、なかばやけっぱちな感慨が匂う。つまり、弱者にとって都合のいい甘言は、およそ向精神薬と同レベルの洗脳に過ぎないみたいな。
「空が落ちてくる」という慣用表現は、映画『スタンド・バイ・ミー』の主題歌にも、007『スカイフォール』の主題歌にも、エディット・ピアフの『愛の賛歌』にも出てくる。葵さんの詩の【声かけな アタシはいつでもアンタの居場所さ】というリフが、『スタンド・バイ・ミー』(ベン・E・キング)のリフに似ている気がする。
▼引用開始-------------------------------
If the sky that we look upon
Should tumble and fall
Or the mountains should crumble to the sea
I won't cry, I won't cry, no I won't shed a tear
Just as long as you stand, stand by me
And darlin', darlin', stand by me, oh stand by me
Oh stand now by me, stand by me, stand by me-e, yeah
http://www.metrolyrics.com/stand-by-me-lyrics-ben-e-king.html
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ところで「空が落ちてくる」を悲観主義の代名詞にした元ネタは、少なくともアメリカでは「チキン・リトル」(ヘニーー・ペニー)だ。パラノイアと集団ヒステリーを説明するのに有用な寓話の類型で、1943年にディズニーが映画化したストーリーがその典型例だ。下記に、ウィキ「チキン・リトル」より、そのあらすじを引用する。
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柵に囲まれた農場でニワトリやアヒルたちが平和に暮らしていた。しかし、そこへ腹を空かせたキツネのフォクシー・ロクシーがやってきた。柵を越えられない上に農場主の銃を恐れたフォクシーは、心理学の本を参考にニワトリたちを騙すことにする。ターゲットをチキン・リトルにしたフォクシーは神の名を騙り「空が落ちてくるから全速力で逃げるのだ」と告げる。
すっかり騙されたチキン・リトルは農場の中を駆け回り「空が落ちてくる」と大騒ぎする。しかし、ニワトリたちのリーダーである冷静なコッキー・ロッキーが現れ、「空は落ちてこない」と断言し全員を落ち着かせてしまう。作戦が失敗したフォクシーはまた心理学の本を参考にしてコッキー・ロッキーに関する嘘の噂を流す。噂が広がる内にどんどん尾ひれがつき、コッキー・ロッキーはニワトリたちからの信頼を一気に失ってしまった。そして、フォクシーはチキン・リトルを「お前がリーダーになってみんなを救うのだ」と唆す。
ニワトリたちはコッキー・ロッキーではなくチキン・リトルを信じることにした。どう対処したらいいのかわからないチキン・リトルにフォクシーは「洞穴へ行け」と言う。それを聞いたチキン・リトルが「洞穴へ行くんだ!」と叫ぶと、ニワトリたちは大慌てで柵を突き破って洞穴へ向かう。洞穴に駆け込んだニワトリたちは待ち構えていたフォクシーに食べられてしまった。この展開にナレーターも驚いて「これでおしまいかい?」と言うと、フォクシーはふてぶてしく言い放つ、「たまにはこういう終わりがあってもいいだろう?」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB
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上記の1943年版と、2005年版の『チキン・リトル』を比べると、「弱者に都合のよすぎるファンタジー」の構図と需要が見えてくると思う。葵さんの『アジテーション』は、それを揶揄して【空が落ちてくるなら/ちょっと薬が必要】と、簡潔にアジっているように読まれる。
つまり、チキン・リトル(悲観主義)がパラノイア(被害妄想)の域に達しているような【タダのいじめられっ子】が、エディット・ピアフ『愛の賛歌』みたいに、ほとんどヒステリックに「悲劇的な自分に酔いしれる」のは滑稽だし、(自分にばかり都合のいい夢想は、もちろん他人と共有できないという意味で)一層孤独を深めるだけだ。と。
そういうことを踏まえて、聞き手がその「自分にばかり都合がよすぎて一層孤独を深める夢想」に陥らないように、【声かけな アタシはいつでもアンタの居場所さ】と謳ってるんじゃないのかな。【アタシ】の捉え方によっては、果てしなく救いようのない皮肉にも読めるが、わたしはふつーに応援だろうと思った。厚みのある多角的な表現で、内容は充実してると思う。
▼以下、技術への批評
わたしの知人で「バンドやっててかつ詩を読んでたやつ」は、なぜか全員寺山修司読んでたし、半分くらいは感動もしてたから、この詩の材にはおそらく普遍性がある。飛躍が無秩序でないのでわかりやすいし、うまく行けば多くの読者に「寺山修司やチキン・リトルなみに深く鑑賞される」かもしれない。個人的に大変好ましい芸風だ。
しかしやはり文学極道では、発想を陳腐で終えないための飛躍が期待されるはずだ。たとえば、わたしが食らった落選評を見てちょうだい。
▼引用開始-------------------------------
(-)作品自体は読めますし、考えさせられるものもあります。ロールパンナちゃんは相当な題材です。90年代に綾波レイに次いで研究され論じられたキャラクターのため、さまざまな学術性は出尽くした感があります。それよりも更に新たな視点というものは無かったように思えます。ロールパンナちゃんに挑むのはさすがに難しかったのでは。
http://bungoku.jp/blog/20160813-513.html
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言うまでもなく、わたしは当該作品で「ロールパンナちゃんに関する新たな視点」など書く気は一切なかった。ロールパンナちゃんに関する新学説なんて大層なものを、ネット・匿名・無料なんて不利益な条件で発表する学者がいるとは思えないし、自明として判断される範疇の事柄だと思う。
にもかかわらず「学術的に新たな視点がない」という学者なみの要求水準で、事実わたしが落ちたんだとしたら、葵さんの『アジテーション』も落ちなきゃおかしいな。「寺山修司やチキン・リトルに関する新たな視点」が特にないからだ。……わたしが落ちた逆恨みを葵さんにぶつけてるわけじゃないよ! 文学極道にはこういう選者もいるって実例を挙げただけよ!
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技術も(これは断じて「一般的には」悪いことでないが、)陳腐の域を出ていない。構成がまるっきり歌詞であるのに、その「歌詞としての構成」がぬるい。いすちゃんもコメ欄で指摘してる通り、歌詞でアジならもっとリフを工夫したらどうなのかとか、いろいろつっこみたいところがある。
なにせこないだ、ボブ・ディランがノーベル賞とったとこだしね。リリック系への要求水準が、今月から急上昇する可能性もある。文学極道では当然、不利だろう。
個人的な感想としては、昭和っぽい一種ステレオタイプに凝り固まった文体が好みでない。もちろん批評に当たっては、わたしの好みなど関係なく、この文体が作品内容に及ぼす「効果」を検討する必要があるわけだが、その検討を含めてすら「有意義」とは思えなかった。もっとほかの効果的な文体があると思う。
いすちゃんとも葵さんとも関係ないんだけど、「歌謡曲における女性の口調」はわたしの重大な関心事なので、備忘録として資料のリンクを貼っておく。
▼女性歌手の流行歌にみる「キミ(君)」の変遷
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3737/JNK001602.pdf
▼女性アニソン歌詞における二人称「君(きみ)」について思うこと
http://d.hatena.ne.jp/spring-ephemeral/20100903/1283521243
▼女性が使う「君(きみ)」
http://www.geocities.jp/katsumieko1/kimi.html
▼「あなた」は失礼なことばなのだろうか?
http://www.geocities.jp/katsumieko1/anal.html
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あと、葵さんのことはbungokureviewでも話題になったので、記念にそのリンクを貼っておく。
▶https://bungokureview.wordpress.com/2016/09/13/%E6%BE%A4%E3%81%82%E3%81%A5%E3%81%95-ft-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%80%8Eavenida-68-%EF%BC%88%E8%97%9D%E8%A1%93%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A9%A9%E3%83%BB%E7%B6%9A%EF%BC%89/#comment-49
▶https://bungokureview.wordpress.com/2016/09/13/%E6%BE%A4%E3%81%82%E3%81%A5%E3%81%95-ft-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%80%8Eavenida-68-%EF%BC%88%E8%97%9D%E8%A1%93%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A9%A9%E3%83%BB%E7%B6%9A%EF%BC%89/#comment-51
bungokureviewのURL、長すぎてほんと不便だな('A`)
いすちゃん
澤あづささんへ
お返事ありがとお!
ボブ・ディランのことがあるから、この作品は(技術は拙いところもあるけど)文極評としては押さえてもらいたいなぁと思ったの。
文体のイマイチ感は随所にリフレイン技術を使えば消えるかな。確かに既視感のあるフレーズは意図が見える感じ。
文極の技術重視からすると、危いだろうね
でも、thoughts の意味とリズムをライン×ブロックの「場」に(形成ではなく)【翻訳】してるのは、日本語文の詩だなぁとおもうし。あとね、(根治法ではなく)対処法を打ち出してることが【詩】だなとおもう。そこは評価されていいんじゃないかな?
絵は見てないから何も言えないお
女性の歌詞っていうとらえかた、おもしろいね
たのしみにしてる
絵の評価はわたしもできんししてないが、詩についてもわたしは「文学極道の入選条件を満たしているかどうか」を推測することしかできない。「批評対象に優劣や序列をつける」という意味での評価を、わたしはしない主義だ。評者を貫くため選者にはならない的なこだわり。この説明は複雑になるので難しい。
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歌謡曲における女性の口調ことに「きみ」という対称の話題は奥が深いよ。っつうのも話が歌謡曲にも女性にも日本にすらも留まってられないからね。わたし自身にも、大学のころ浜崎あゆみ等の歌う「きみ」が、「女性歌手が男性を装っている」ようにしか聞こえず気になった背景があるのだが。
その所感をまとめないと、例の『ロールメロンパンナ複合』にかとりさんがくださった、
「なぜ原作レイプがされなければならなかったか」
http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=483;uniqid=20160606_224_8869p#20160819_488_8869r
という(作者のわたしにとっても)疑問の説明がつかないんだ、
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「もし世界にきみとぼくしかいないなら、ぼくらに名は必要ない。アダムがイヴを名づけたのは、ふたりではないと知っていたからだ。ジャムおじさんと愛の花の蜜のように、君と僕だよ。きみ。イヴが得られなかった対称を。ぼくが君ではないあかしに。」
http://bungoku.jp/ebbs/20160606_224_8869p
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その記事公開したらいすちゃんも来てね( ・∀・)ノ
そのまえにわたしの「英検三級の実力」を書くから、添削しにも来てほしい(・∀・;)
花緒
拝読致しました。
大変、面白く拝読させていただきました。小生を登場させてくださり、感謝。自分が登場していると、読みにも熱が入ります。今度、時間をとって、にねこさんの作品を読み、空転氏からの激励を噛みしめることと致します。