母を悩ます“3歳児神話”

母を悩ます“3歳児神話”
「かわいそうに、こんな小さい時から保育園に預けて」 働くお母さんがよく言われる言葉です。その背景にあるのは“3歳児神話”。『3歳までは母親が家庭で子育てをした方がよい』という説で、広く言われ続けています。私も泣く子どもを保育園に残して職場に向かう時、これでいいのかと心が痛くなる時があります。そこで調べてみると神話につながるある報告書と、それを検証するいくつもの研究があることがわかりました。3歳児神話にどう向き合えばいいのか、考えてみます。(ネットワーク報道部記者 大窪奈緒子)
3歳の長男と1歳の長女を保育園や実母に預けて体操教室で働いている樋口かおりさん。

「こんなに小さいうちから預けているの?かわいそうに」と近所の人から声をかけられました。よく知っている人だっただけに落ち込みました。

「小さいうちに預けていいいの? と言われると、不安になるんです。子どもが十分に甘えられていないのではないかとか考えてしまって」

不安になる母親たち

3歳の長男と1歳の長女を保育園や実母に預けて体操教室で働いている樋口かおりさん。

「こんなに小さいうちから預けているの?かわいそうに」と近所の人から声をかけられました。よく知っている人だっただけに落ち込みました。

「小さいうちに預けていいいの? と言われると、不安になるんです。子どもが十分に甘えられていないのではないかとか考えてしまって」
同じようなことを周囲に言われ不安になる母親は私の周りにもたくさんいました。

「0歳で人の手に預けるなんて不安じゃないの? 私だったら理解できない」と実母から言われた人。

「しつけや教育のためにも、いつになったら仕事をやめるの?」と義理の母親から言われた人。

そこで3歳児神話がどこから来たのか、調べているとある報告書の存在がわかりました。

昭和26年報告書発表

3歳児神話について研究しているお茶の水女子大学の菅原ますみ教授。
『子どものために小さいころ(特に3歳までは)母親が育児に専念した方がよい』という説が広まるきっかけはイギリスのボウルビィという精神医学者の1951年(昭和26年)の報告書だといいます。
WHO(世界保健機構)からの委託を受け、孤児院などで乳児の心身の発達の遅れが多い要因を検討。『母性的な養育が欠けていることがその原因』と指摘したのです。

「当時の日本は父親が働き、母親が家事育児を担うというスタイル。そのスタイルに報告がなじみやすかった。その結果“3歳までは母親が家庭で”という説が広まっていったのではないか」 菅原さんはそう分析していました。

新しい研究“母親の就労は影響なし”

菅原教授はボウルビィの報告書について「母子の結びつきの大切さを主張していて、母親の就労を否定するものではない。それが母親の不在がよくないという一面のみが強調されてしまった」と指摘しています。

菅原教授は3歳児神話について自らも10年以上の追跡研究を実施していました。「日本で269組の母子を12年間追跡調査した。その結果、3歳未満で母親が働いても、問題行動や母子関係の良好さに関連性は認められなかった」という研究結果をまとめています。
またアメリカでも1万人以上の子どもを調べた調査結果があるそうです。

「結果は2014年に発表されていて、2歳以前で母親が働いていても5歳時点で学習の能力や問題行動などで関連は認められなかった」
「母親の就労は発達へのリスクにも利点にもならなかった」

それならば何が、子どもの発達に影響するのか。菅原教授はすでにわかってきたことがあると言います。

影響があるのはこんなこと

それは「『お母さんの心の健康』、『夫婦仲』、保育園などの『保育の質』で、これらは子どもの発達に影響し問題行動にもつながるとされています」 「大切なのは安全な環境で愛情をもって養育されること。それはお母さんだけでなく、お父さん、祖父母、シッター、保育士などある意味、複数の人からでも大丈夫なのです」

私はもうひとり、会いたい研究者がいました。

“3歳児神話”には真実の一面も

40年以上、母親に関わるさまざまな“神話”を研究している。恵泉女学園大学の大日向雅美学長です。
聞き取り調査をしてきた母親は6000人を超えます。「いまだに3歳児神話が信じられていて、人間の歴史や文化はこんなにも変わるのが遅いのかと思う」 「ただ3歳児神話には崩してはいけない要素もあると思う」。

大日向さんの話ではまず、「“3歳までが非常に大切な時期”というのは真実。この時期に愛され自信を持ち人を信じる心を育むことは崩してはならない」。

ただ「その時期に“母親が育児に専念しなければいけない”は修正が必要。母親だけでなく、父親や祖父母、地域の人などさまざまなところから愛情を受け取れる」。
そして「“育児に専念しないと子どもの発達がゆがむ”は実証データに基づいて慎重に考えなくてはいけない。多くの実証研究では子どもの発達は母親の就労の有無だけでは差がないとしている。ただ、そんな単純なことではなく、子どもの発達には、母親が働いていても母が子に愛情を持ち、家族や会社が母親を理解して支え、日中の保育の質がすぐれていることが大切」。

大事なのは3歳までにしっかり愛情を受けられるような環境を作ること、そして働くとしても寝かしつける際に絵本を1冊読んであげられるくらいのゆとりある働き方を社会が若い世代にさせなきゃいけないと話すなど話題は今の働き方にもおよびました。

さまざまな意見の中で

3歳児神話というか、母親が子育てに専念するどうかについてはさまざま意見があります。

大日向さんの授業でも「私は母親が家にいなくてさびしかった。家にいて欲しかった」と言う学生がいる一方、「働きに出ていきいきとして帰ってくる母親が好きだった」と言った学生もいたそうです。考え方は多様で、それぞれの正解があっていいように感じました。

ただ“母親が3歳まで子育てに専念するかどうか”それだけで子どもの発育が決まることは決してなく、母親の心の健康や子どもにとっていい環境をどう整えるのかなどが大切なことは間違いないようです。

そして3歳児神話を考えることは“いつまで子どもと一緒にいるのがいいのか”という単純な問題ではなく、働いている働いていないに関わらず、1人で育児を抱え込み苦しんでいるお母さんたちを家族や会社、そして社会がどう支えていくのか大きい枠の中で考える問題でした。

悩みながら揺れながら

私も、3人の子どもをいずれも小さいうちから保育園に預けて働いています。週明けの月曜日など、離れるのが嫌だと泣く子どもの顔を見ると、胸が痛く、このまま働いていていいのか、これでいいのかと、そのたびに泣きたい気持ちで自問自答します。

思えば、私自身も生後2か月から保育園に通い始めました。この記事をきっかけに、当時の保育園との連絡帳を送ってもらいました。そこには、成長を喜んだり、体調を心配したりする若かりし母の字がびっしりと並んでいました。
いつの時代も、母親たちは日々悩み、精いっぱいの心をかけて子育てしているのでしょう。そうした母親たちのまわりには、子育てに関わる神話のようなものやマニュアル本もあり、いつも惑わされ、不安になり、何が真実なのか正直わからないことだらけです。

ただ社会の風潮や神話が母親たちを不要にしばることなく、笑顔で子育てできる社会になっていってほしい。

「どういう子育てや人生にするのがいいか、正解はない。ただ悩みながらも凛として生きるお母さんの姿ほど子どもにいい影響を与えるものはないと思う」

大日向さんのこの言葉を胸に、きょうも眠い目をこすりながら私も連絡帳を書こうと思います。
母を悩ます“3歳児神話”

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「かわいそうに、こんな小さい時から保育園に預けて」 働くお母さんがよく言われる言葉です。その背景にあるのは“3歳児神話”。『3歳までは母親が家庭で子育てをした方がよい』という説で、広く言われ続けています。私も泣く子どもを保育園に残して職場に向かう時、これでいいのかと心が痛くなる時があります。そこで調べてみると神話につながるある報告書と、それを検証するいくつもの研究があることがわかりました。3歳児神話にどう向き合えばいいのか、考えてみます。(ネットワーク報道部記者 大窪奈緒子)

不安になる母親たち

3歳の長男と1歳の長女を保育園や実母に預けて体操教室で働いている樋口かおりさん。

「こんなに小さいうちから預けているの?かわいそうに」と近所の人から声をかけられました。よく知っている人だっただけに落ち込みました。

「小さいうちに預けていいいの? と言われると、不安になるんです。子どもが十分に甘えられていないのではないかとか考えてしまって」
不安になる母親たち
同じようなことを周囲に言われ不安になる母親は私の周りにもたくさんいました。

「0歳で人の手に預けるなんて不安じゃないの? 私だったら理解できない」と実母から言われた人。

「しつけや教育のためにも、いつになったら仕事をやめるの?」と義理の母親から言われた人。

そこで3歳児神話がどこから来たのか、調べているとある報告書の存在がわかりました。

昭和26年報告書発表

3歳児神話について研究しているお茶の水女子大学の菅原ますみ教授。
昭和26年報告書発表
『子どものために小さいころ(特に3歳までは)母親が育児に専念した方がよい』という説が広まるきっかけはイギリスのボウルビィという精神医学者の1951年(昭和26年)の報告書だといいます。
WHO(世界保健機構)からの委託を受け、孤児院などで乳児の心身の発達の遅れが多い要因を検討。『母性的な養育が欠けていることがその原因』と指摘したのです。

「当時の日本は父親が働き、母親が家事育児を担うというスタイル。そのスタイルに報告がなじみやすかった。その結果“3歳までは母親が家庭で”という説が広まっていったのではないか」 菅原さんはそう分析していました。

新しい研究“母親の就労は影響なし”

菅原教授はボウルビィの報告書について「母子の結びつきの大切さを主張していて、母親の就労を否定するものではない。それが母親の不在がよくないという一面のみが強調されてしまった」と指摘しています。

菅原教授は3歳児神話について自らも10年以上の追跡研究を実施していました。「日本で269組の母子を12年間追跡調査した。その結果、3歳未満で母親が働いても、問題行動や母子関係の良好さに関連性は認められなかった」という研究結果をまとめています。
新しい研究“母親の就労は影響なし”
またアメリカでも1万人以上の子どもを調べた調査結果があるそうです。

「結果は2014年に発表されていて、2歳以前で母親が働いていても5歳時点で学習の能力や問題行動などで関連は認められなかった」
「母親の就労は発達へのリスクにも利点にもならなかった」

それならば何が、子どもの発達に影響するのか。菅原教授はすでにわかってきたことがあると言います。

影響があるのはこんなこと

それは「『お母さんの心の健康』、『夫婦仲』、保育園などの『保育の質』で、これらは子どもの発達に影響し問題行動にもつながるとされています」 「大切なのは安全な環境で愛情をもって養育されること。それはお母さんだけでなく、お父さん、祖父母、シッター、保育士などある意味、複数の人からでも大丈夫なのです」

私はもうひとり、会いたい研究者がいました。

“3歳児神話”には真実の一面も

40年以上、母親に関わるさまざまな“神話”を研究している。恵泉女学園大学の大日向雅美学長です。
“3歳児神話”には真実の一面も
聞き取り調査をしてきた母親は6000人を超えます。「いまだに3歳児神話が信じられていて、人間の歴史や文化はこんなにも変わるのが遅いのかと思う」 「ただ3歳児神話には崩してはいけない要素もあると思う」。

大日向さんの話ではまず、「“3歳までが非常に大切な時期”というのは真実。この時期に愛され自信を持ち人を信じる心を育むことは崩してはならない」。

ただ「その時期に“母親が育児に専念しなければいけない”は修正が必要。母親だけでなく、父親や祖父母、地域の人などさまざまなところから愛情を受け取れる」。
そして「“育児に専念しないと子どもの発達がゆがむ”は実証データに基づいて慎重に考えなくてはいけない。多くの実証研究では子どもの発達は母親の就労の有無だけでは差がないとしている。ただ、そんな単純なことではなく、子どもの発達には、母親が働いていても母が子に愛情を持ち、家族や会社が母親を理解して支え、日中の保育の質がすぐれていることが大切」。

大事なのは3歳までにしっかり愛情を受けられるような環境を作ること、そして働くとしても寝かしつける際に絵本を1冊読んであげられるくらいのゆとりある働き方を社会が若い世代にさせなきゃいけないと話すなど話題は今の働き方にもおよびました。

さまざまな意見の中で

3歳児神話というか、母親が子育てに専念するどうかについてはさまざま意見があります。

大日向さんの授業でも「私は母親が家にいなくてさびしかった。家にいて欲しかった」と言う学生がいる一方、「働きに出ていきいきとして帰ってくる母親が好きだった」と言った学生もいたそうです。考え方は多様で、それぞれの正解があっていいように感じました。

ただ“母親が3歳まで子育てに専念するかどうか”それだけで子どもの発育が決まることは決してなく、母親の心の健康や子どもにとっていい環境をどう整えるのかなどが大切なことは間違いないようです。

そして3歳児神話を考えることは“いつまで子どもと一緒にいるのがいいのか”という単純な問題ではなく、働いている働いていないに関わらず、1人で育児を抱え込み苦しんでいるお母さんたちを家族や会社、そして社会がどう支えていくのか大きい枠の中で考える問題でした。

悩みながら揺れながら

私も、3人の子どもをいずれも小さいうちから保育園に預けて働いています。週明けの月曜日など、離れるのが嫌だと泣く子どもの顔を見ると、胸が痛く、このまま働いていていいのか、これでいいのかと、そのたびに泣きたい気持ちで自問自答します。

思えば、私自身も生後2か月から保育園に通い始めました。この記事をきっかけに、当時の保育園との連絡帳を送ってもらいました。そこには、成長を喜んだり、体調を心配したりする若かりし母の字がびっしりと並んでいました。
悩みながら揺れながら
いつの時代も、母親たちは日々悩み、精いっぱいの心をかけて子育てしているのでしょう。そうした母親たちのまわりには、子育てに関わる神話のようなものやマニュアル本もあり、いつも惑わされ、不安になり、何が真実なのか正直わからないことだらけです。

ただ社会の風潮や神話が母親たちを不要にしばることなく、笑顔で子育てできる社会になっていってほしい。

「どういう子育てや人生にするのがいいか、正解はない。ただ悩みながらも凛として生きるお母さんの姿ほど子どもにいい影響を与えるものはないと思う」

大日向さんのこの言葉を胸に、きょうも眠い目をこすりながら私も連絡帳を書こうと思います。