2013年12月21日

 

「ゴ ジラ論」は映画評論、思想史、歴史学、社会学、カルチャラルスタディースとボーダーなく各研究者から論じられている。日本の研究者はもちろん、海外ではア メリカでポップカルチャー論として繁盛に論じられてきた。欧州においては「ゴジラ論」の展開は私の知る限りでは殆どなく、目立ったものではドイツの映画監 督で日本怪獣フリークのJoeg Buttgereutの"Monster aus Japan"(1998年)位しか思いつかない。

 

日 本におけるゴジラ論は思想史や社会学の立場から論じられたものがいくつもあるが、研究者による論で最も代表的なものが「ゴジラ戦没者説」である。今回、師 から勧められた一冊、笠井潔の『8・15と3・15 戦後史の死角』の序章と第一章に「ゴジラ論」を引いて戦後史の論証が展開されているのだが、著者が用 いた「ゴジラ論」が「ゴジラ戦没者説」であり、それに沿って論が展開して行く構成になっていた。

 

「ゴジラ戦没者説」に私が最初に触れたのは1992年のことである。

宝 島社が刊行した『映画宝島 怪獣学・入門!』(宝島社1992年)で、その中に掲載された赤坂憲雄の評論『ゴジラはなぜ皇居を踏めないか』であった。赤坂は評論家、川本三郎の「ゴジ ラ戦死者説」を引用して、ゴジラと三島由紀夫の『英霊の聲』とパラレルに置き、川本三郎がエッセイ『ゴジラはなぜ『暗い』のか』による「ゴジラ戦死者説」 と同じ思想を三島由紀夫が有していたことを指摘した。私はこの「ゴジラ論」に当時は納得が行かず、川本三郎の「ゴジラ英霊説」にも興味は抱かなかったので ある。

 

川本三郎はゴジラは太平洋戦争で死んだ、とりわけ海で死んだ兵士の魂ではないかと考えた。太平洋戦争で死没した兵士 の霊は怨念となって海から日本へ上陸し、日本を蹂躙する。しかし、兵士の魂は天皇制に支配されていて皇居を踏むことは出来ない。皇居に背を向けたゴジラは やがて海へ沈めさられる。

川本の説では兵士だけとは特定しておらず戦没者としている。

 

2010年に加藤典洋 によって、この説はさらに進められて『さようなら、ゴジラたち──戦後から遠く離れて 』(2001年岩波書店)では「ゴジラ英霊説」へと発展する。

2001年には金子修介監督による東宝映画『ゴ ジラ・モスラ・ギドラ 大怪獣総攻撃』が公開され、この映画の設定ではゴジラは太平洋戦争で戦死した英霊の怨念の集合体で、日本に復讐するために上陸してくるという川本三郎の 「ゴジラ戦没者説」をそのまま取り入れたものだった。川本説はついにゴジラ映画そのものも認めた格好となったのである。

 

私自身は『ゴジラ・モスラ・ギドラ 大怪獣総攻撃』を鑑賞したとき、それが川本三郎の説を引いたものであったことを感じたが、1992年に赤坂憲雄の評論『ゴジラはなぜ皇居を踏めないか』を読んだ時の違和感と同じものを感じてこの映画を評価しなかった。

私の違和感とは何か。それについては未だに回答を得られていない。しかし、川本三郎や加藤典洋のゴジラを戦没者(英霊とは限らず)の魂だという考えを冷静に考察してみると、これに対しては整合性がうまく取られていると思わずにはいられない。

ゴジラは戦死して海に沈んだが、日本への郷愁と憎悪を持って再び故郷へ帰ってくるが、戦時を生き残った日本人によって再び日本から排除され、また海に沈没してゆくのである。人々はゴジラに同情の念を禁じえない。なるほど、これは実に説得力がある考えである。

 

笠 井潔が2011年の時点でゴジラを戦争犠牲者の呪縛として捉えているところから考えても川本三郎から端を発した「ゴジラ戦没者説」は「ゴジラ論」としては 最も中心的な柱となるものなのかもしれない。ゴジラが皇居を踏むことができない事を戦没者が天皇制の呪縛から解き放たれないままでいるという考え方もなる ほどと思わされる。

実のところは映画会社でもとりわけ保守傾向の強い東宝という会社が皇居を襲うなどという不敬行為を許さないというのが実 情ではある。『独立機関銃隊未だ射撃中』(谷口千吉監督)の脚本を担当した猪俣勝人は満州の日本軍トーチカ陣地が完全に破壊され、日本兵の主人公たちが全 員戦死した後、ソ連軍が一斉に行軍してゆくところでエンドマークとなるシナリオを書いたが、東宝はこの映像化を許さなかった。その東宝がまさかゴジラに皇 居を襲わせるなんてことは考えられないことである。

 

しかし、こうした東宝の天皇制によって呪縛されている姿をゴジラが象徴 しているのだとすれば川本三郎の説は荒唐無稽だとは思えない。そもそも東宝はゴジラで用いた特殊技術課でもって、戦時中『ハワイ・マレー沖海戦』を始めと する国策戦争映画をずっと制作し続けてきたある意味、戦時から天皇制の呪縛を受けた映画会社であるからだ。

 

川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は実のところは川本三郎が最初に唱えたものではないようだ。

1995年に刊行された『戦後史開封』(産経新聞社)の中で映画『ゴジラ』(1954年)の音楽を担当した伊福部明はインタビューで次の様に述べている。

 

  ゴ ジラは海で死んだ英霊のような存在ではないか。そんなことも考えるような時代だったのです。徴兵検査で はギリギリ合格の第二乙種だった僕も、召集令状が今 日来るか明日来るかという不安の中で何年も過ごした ものです。ところが戦争に負けると、民衆はアメリカから持ち込まれた自由を謳歌するのに懸命でした。あ のこ ろ熱海や箱根に傷病兵の療養所があり、その横を人々が楽しそうに歩いていく。それを見て、われわれは苦し んでいるのに、という気持ちもあったでしょ う。ゴジラが国会議事堂などをつぶすのは、その象徴のような気も します。(『戦後史開封』173ページ)

 

 

川本三郎の「ゴジラ戦没者説」は川本自身の独自のものであったであろうが、1954年のゴジラ出現の時点で、誰とは知れず「ゴジラ戦没者説」は語られていたことになる。伊福部昭もその一人なのだ。

一方、「ゴジラ論」に中にはゴジラを核被害者とするものがある。これはもっぱら一般的なものであり、それは映画『ゴジラ』(1954年)と『ゴジラの逆襲』(1955年)の中で水爆実験のために呼び起こされた悲劇の怪獣として描かれているのである。

 

映 画『ゴジラ』に出演した宝田明は著書やインタビューで水爆実験の被害者であるゴジラがなにゆえに虐められ殺されなくてはならないのかと試写会では涙を止め ることができなかったと語っている。それ故に我々はゴジラに深い同情の念を抱き、感情移入するのである。このことはアメリカの歴史学者ウイリアム・ツツイ も著書『ゴジラとアメリカの半世紀』に著している。

 

形は違えど我々がゴジラに哀れみを感じるのは戦没者であるか核被害者で あるかの違いはあってもゴジラが「抑圧された被害者」であることでは一致している。研究者による核被害者としての「ゴジラ論」は社会学者の好井火裕明が 『特撮映画の社会学・ゴジラ・モスラ・原水爆』(2007年せりか書房)で詳しく説いている。私の考えも好井のものとほぼ同じではあるが、好井裕明はその 著書で核被害者であるゴジラがなぜ核そのものとなって日本を襲うのかについては十全に説明することができなかった。

私が先日書いた「ゴジラ 論」ではゴジラを映画『ゴジラ』が制作され、公開された年にリアルタイムで進行中だった「第五福竜丸事件」の被爆者とパラレルな被爆者として捉えたもの だった。ゴジラと第五福竜丸の被爆者と同様に捉えるのは少々乱暴な気もするが、好井裕明が説明しきれなかった核被害者が核加害者になぜなるのかという問題 はこの考え方なら成立させることが出来るからだ。

 

しかしながら、川本三郎から加藤典洋を経て、笠井潔によってより深く戦後史として考察された「ゴジラ戦没説」は先に述べた様に1954年の『ゴジラ』公開当初から存在した解釈であるだけに、これを日本における代表的な「ゴジラ論」として捉えてまず間違いないだろう。

この解釈を凌ぐ解釈を展開することは現時点はなかなか困難であると思われる。

 

もっとも、この「ゴジラ戦没者説」は日本独自の定着した考え方であって、アメリカの「ゴジラ論」には見られないものだ。

次回はアメリカの歴史学者ウイリアム・ツツイと同じくアメリカの日本文化研究者ピーター・ミュソップの「ゴジラ論」を検証してみたいと思う。


筆者:永田喜嗣






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