ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ。口癖は「えー、そんなの別にどっちでも良いんじゃないの?」老害発言の説明文多し。

ギャランティ

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まず仕事の話。「私が関わるか関わらないか」で初動が決まる。関わりたくない案件は話もしないし見に行かない。関わる案件は「助けてあげたいなぁ」「見に行った方が良さそうだなぁ」と思えばお金が発生しないレベルで助ける。ここはいつも「無償」で動く。話をする、見に行く、ここで初めて「これを直すにはこれだけお金が掛かるよ」という旨の説明をして見積書を出す。これは所謂「単発」の話である。それ以上となると年間の予算を決めてその機械全体を私が見るという「契約」の流れだ。この「契約」に関しては、それだけの予算が割けるのかどうか、お客さん「が」私を信用しているかどうかが胆である。勿論私も単発であればその機械周辺の保証は必ずするし、「契約」をすればその決めた金額で赤字だろうが何だろうが責任を持ってその機械がちゃんと動くように仕事を全うする。「赤字だろうが何だろうが」である。当たり前の話だが赤字にならないような見積りをするのが前提の話ではあるが。男女関係も私は似たような感覚を持っている。ギャランティの大小が異なる。「知っている人」と「付き合っている人」と「結婚している人」ではギャランティが全く違う。綺麗事でも何でもなく、奥さんと子供に何かがあれば私は死んでも構わないと本気で思っている。「付き合っている人」の為に私は死ねない。私は「結婚 = 契約」をそう理解している。「好き」だとかはただの調味料に過ぎない。そもそも私は適当に恋愛している人には適当な人しか寄ってこないと思っていて、その想いは相手に伝染すると思っている。自分が浮気してしまうかもしれないからあなたもしょうがないよね、と思っていれば相手は必ずそれを感じ取る。思考は現実化するのだ。カーネギーをパクッてナポレオンヒルの言葉を引用しようと著書を開いたが面倒なのでやめておく。私が独立した時、適当な人間の人脈を絶つのに本当に苦労したし損もした。適当な人間は甘い話が多い。男女関係でも「君を守ってみせるキリッ」などというセリフをよく聞くが、貴様は本当にその「ギャランティ」を守れるのか、それはどのレベルのギャランティなんだといつも思う。コロコロと出会いや別れを繰り返してそれで良いんだ楽しいんだと言うのであれば、関係のない私はそれで良いと思う。ちゃんと真面目に動いていると、暑苦しいしカッコ悪いし、いちいち痛い。しかしそうやって行く事で、自分の環境は変わり、自分を幸せにしてくれる人間が周りに増えていくのだ。「甘い話」の方が儲かるしモテる。で、実際今でも儲かっててモテてるの?と私の周囲を見回すと、儲かっててモテてた人達が皆、茶色い真顔になっている。真面目の道は棘だらけで痛い。しかし慣れれば傷の治りも早い。私は痛い痛いと鼻水と涎を垂らしながらカッコ悪く泣き叫びながら生きるのだ。そして、自分が出来る範囲の中で助けることが出来るのであれば、私に関わった人たちを助けていきたい。カッコ悪くてもイイ。最後に、チルド氏へ「ネタ記事にマジレススマン」と詫びる事、ナポレオンヒルの言葉で最後を〆ようと思ったがめんどくさいのでやめた事を記しておく。