今日は病んでます。特に何があったわけでもないけど、たまにこういう回路になる。
風邪みたいなもんです。
えーと、これ言及していいのかわかんないけど、個人的になかなか心にきたので紹介したい。
なんか常体を使う気にならないから丁寧にいこうかな。
文章を読む限り、きっとえす(id:Sakurachannel0530)さんは、不登校であるという事実が、自分の心に重くのしかかっていて、何とかしたいけど何ともならない、そういう現実に直面されているのだと思います。
私、以前、知識量というほぼ唯一の取り柄で以って、学年が一つ下の、不登校の子と保健室で話す、ということをしていました。その子を仮にAさんとしましょう。
先生が話の流れで、「いろんなことにめっちゃ詳しい面白い奴がいる」的な感じで私のことを紹介したのですが、そしたらAさんが「ぜひその人(=私)と話してみたい」と言ったため、保健室で話すことに。
なんか、私の小さい頃を見てるみたいで、懐かしかったですね。その子と性格が似てたので。
Aさんがいつか言ってた、「私は普通の人がやっていることさえ上手くできないのか、と落ち込むことがあります」ということばが、喉の奥の小骨のように、今でも刺さり続けています。
それはまさしく私が、普通の人がやっていることさえうまくできない、と現在完了進行形で悩んでいるからです。「そんな自分に生きる資格はあるのか」と考えることさえあります。
(ちなみにAさんはこの前ちゃんと高校に入れたそうです。良かった)
「普通の生き方」がしたい
かつて親に、普通に生きるってすごくない?と尋ねたことがありました。
それは私の本心で、なんというかうまくことばにできないけど、世の中めぐりめぐっていろんな人が普通に生きてることへの感動でもあり、尊敬でもありました。
親は要領を得たような、得ないような顔で、そうだねとだけ返し、またお菓子を食べ始めました。
それが小学4年ぐらいのことで、今話してもたぶん覚えてないだろうけど、「自分はきっと人と違う、まともな生き方ができない人なんだろうなあ」と直感しました。中二病の芽生えをしっかり意識したのは確かこれが初です。違ったかな。
あとは小学5年のときだったかな。これは後々記事にしますが。
「本のページって読まれてない時はどうしてるんだろう」と考えて、気が狂いそうになったことがあります。
本を読むためには必ずどこかのページを開いてなければならない。
だけど、それは裏返せば、必ずどこかのページが読まれてないことでもある。
それがなぜかめちゃめちゃ怖くて、自分もそうなったら嫌だなと思い、全てのページの合間に指をつっこんで、全部のページを同時に読もうとしていたら、同級生にすごい目で蔑まれました。
他にも、「知らない人がたがいに知らないままに、何の違和感もなく過ごしている」という現実を受け入れるのが怖くなることもあります。それはかつて記事にした気もするなあ。
かつてどこかで会ったことがある人間と顔を合わせても、互いにそれを全く覚えてないまま、人生で数度ただ顔を合わせ、お互い死んでいく。
これも当然ですが、友人には共感してもらえませんでした。
その時、「ああこの世界には、自分の感覚をわかってくれる人間なんていないんだなあ」と、妙に悲しくなったんです。
一方で、「自分みたいなことを考えてしまうまともじゃない人は、この世にはいないんだなあ」とも思いました。
妖怪人間ベムじゃないですが、「早く普通の人になりたい!」ってのは、私が常々悩んでることですね。
そもそも普通の人はそんなこと悩まないから、一生普通になれないんだろうけど。
普通はすごいことだ
私の望む普通というのは、「他人より物事を考えすぎて思考が病まない」という普通です。
特に病むのは夜、しかも日曜や火曜の深夜がヤバいので、基本的にこの時間は早寝を心がけます。
これをわたしは「ドラクエモード」と呼んでいます。基本的にドラクエでは昼より夜のほうが強い魔物が出ますから、みんな夜になる前に宿屋に入って、一泊してまた外に出るんです。これを書いてるのは夜中なんですが。
さて、物事を考えすぎないためにはどうすべきか。
解決策がわからないんです。
小学生の時からそんな感じだったから、これ以外の生き方ができない。
ですから、本物の普通というものがあれば、「普通に失恋したり、普通に怒ったり、普通に凹んだり、普通に喜んだり」そういう人生があれば、私はきっと一生を代償にしてでもそれを手に入れようとするでしょう。
普通というのは、きっと皆さんが思う以上に、すごいことなのです。
ですがじゃあ、普通って一体何なのか。具体的に誰なのか、と聞かれると、答えられない。
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普通とはいったい何なのか
こういうことばがありますよね。
「あらゆる面で平均的な人間がいたとしたら、それはもう普通ではない」と。
これは、「身長も体重も好みも、何もかも平均的な人間なんていない。みんな何かしら他人と違うところがあって、その寄せ集めが平均をなしている。平均というのはマボロシにすぎないんだ」と。
いわば統計が作り出す幻像、まやかしが「平均的な人間」であろうというのです。
これは言語の問題やイデア論と似ています。「靴」と聞くとみんなが靴を想像しますが、どんな靴だったかというのは人それぞれ。でも、靴ということばの辞書的な意味による共通認識が根底にあれば、どんな靴なのかというのは問題ではない。ちゃんと会話が成立します。
しかし、私における普通の問題は、それらの事柄とは違っている気もするのです。
私が普通を解釈すれば、それは「物事を考えすぎない人間」であり、そんな人間がこの世にちゃんといるのかどうかというのはわかりませんが、「みんなが考えないことを、お前は考えているのだ」という(多くの人からの)ことばに当てはめて考えると、きっとみんなは物事を考えすぎずに生きているのでしょう。
私が思う普通が周りにあふれている気がするので、「普通なんてどこにもないんだ」と言われても、いまいち納得がいかない。
普通と特殊の話を悩みとして他人に持ち掛けると、たいていそういう返答が帰ってきますが、私にしてみれば、どうも普通というのは、やはりあるんじゃないのか、と。
でも普通とは何なのか、普通になるにはどうしたらよいかなんてのは、誰も教えてくれないし、答えも見つからない。
ですから私にとって結局普通というのは、遠くからだとよく見えるのに、近づくほど見えない。そんな奇妙なヴェールに覆い隠された、不可思議な存在なのです。統計における平均とも似ていますが、その過程は全く異なります。
普通にまつわる問題は、私の周りのあらゆる面に立ちふさがってます。
「普通」に関する最近の悩み
私は結婚をしたいし、子どもも欲しいと考えています。
結婚できるかについての不安はまた別にあるとして……。
生まれてもない子どもに対する心配や申し訳なさが頭をもたげるのです。
「生まれてくる子どもはきっと自分たちよりも苦しい世代だ。子どもをもったばかりに、その子どもが苦しむなら、彼または彼女が生まれてきた意味は何だったのか」と。
「普通の人」はそんなこと考えないのでしょう。
ですからみんな、何事もなかったかのように親になっている。生まれた子どもが人生で受けるであろう苦しみとか、そんなことはみんな、考えないのか?自分のことだけなのか?
最も自分のことを理解してくれてるであろう肉親さえ、「は?」って顔だったので。
いわば親がとんでもないエゴイストのように見えてきてしまい、その嫌悪感が催されるとともに、やはりあの「フツウ」という概念が脳裏をちらつく。「そんなことを考えるのはお前だけだぞ」と自らに対しての罪悪感が湧出してきて、ヴェールを纏ったまま、私を背中からブスと刺すのです。
事実、そのことを知り合いに相談したところ、「そんなことを考えながら子どもを育てる人はいない」と、事実上の「お前は普通じゃない」宣言をされてしまいました。
どうすればこの禅問答から脱することができるのか。
そろそろ夜も深くなってきたので、いよいよ瘴気に包まれないうちにここらへんで切り上げます。
……これって精神科なんですかね、師匠。この記事をプリントアウトして持っていくべきですか?