ジョルジュ・スーラ 「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
Nov.12.2017
なんで子どもは
あんなにくったくなく楽しめるのか?
ある時, 集中してこのことを考えた経験があります
悩みがないから?
義務がないから?
守られてるから?
でも, どれも「これ!」といってしっくりくる答えには
なかなか行きつけませんでした
当時, 暇すぎて
東京都心の名高い公園という公園を自転車で巡り
ベンチでランチ&読書
というゆるすぎる日常を過ごしていました
公園で遊んでいる子どもを見ると
とりわけ, 追いかけっこなどの場合には
とても集中して, 笑い続け, 走り回っています
永遠の歓喜
まさに
何かに集中できて
無心でいられる時には
子どものみならず誰しも歓喜に包まれます
中国古典の『荘子』の中に
お伺いをたてます
孔子:徳とは一体何でしょうか?
老子:帰れ!
徳のある人間は「徳」のことなど気にせん!
この逸話から,
ウィットゲンシュタインの言語論を想いました
「赤」という色があるのは,
「赤以外」の色があるからで,
「赤以外」がなければ, 「赤」は存在しない
たしかに
これは色だけでなく
ありとあらゆることばに当てはめられます
「机」は
「机以外」があるから「机」である
「りんご」は
「みかんとか」があるから「りんご」である
「わたし」は
「わたし以外の人」がいるから「わたし」である
つまり,
「徳」は「徳以外」があるから「徳」である...
言語を使う限り,
こうした背景は必ずつきまといます
こう考えてくると
子どもが「永遠の歓喜」に包まれてる時
老子の境地に到っているのかも知れません
ことばによるものごとの「区別」から解放され
ただ無目的に,
あそぶためにあそぶ
その時子どもは「わたし」などなく
全宇宙と一体化している
龍安寺 石庭
現在, 日本では禅として伝承されています
修行僧は自分の頭の中の言語を雲の流れの如く見なし
宇宙との一体感を「考えるのではなく, 見る」よう
促されます
片手で拍手したらどんな音がするか?
とか…
今で言う「無茶ぶり」をされる中
ひたすらそのことだけに集中します
そうして, 自らのアイデンティティを
身体感覚も超え, 環境と合ーし,
それをどこまでもどこまでも広げていく
この言語を離れよというミームは
同じく禅系列の茶道にも伝承されています
タイトルに致しました
幸福とは幸福を問題にしない時をいう
は, 芥川龍之介の名言です
仏教に精通していた方ですので, 当然,
公案禅についても御存知だった筈,
つまり
「幸福」を口にしているうちは幸福ではない
「呼吸」が気になる時は不健康であるように
ということで, 秋晴れの今日は
「幸福」のことなどどこかに忘れて
ゆるゆる散歩でも致しましょう
Ask yourself whether you are happy,
and you cease to be so.
幸せかどうかと自分自身に聞いてみなさい,
すると, 幸せでなくなってしまう
John Stuart Mill
それでは, このへんで