山田昌弘先生の本は、いつも興味深くて、『パラサイト・シングルの時代』以来、長く読み続けているのだけれど、団塊ジュニア、俗にロスジェネ世代の悲惨な運命を見るようで、だんだんに辛くなってきたよ。新著の『底辺への競争』は、名目ゼロ成長の20年間に、満足に就職も結婚もできなかった世代が寄る辺なき老後を迎えるという物語だ。山田先生は社会学者で、エコノミストではないので、今回は、なぜこうなったかと、どうすべきかを補ってみたい。
………
端的に言えば、日本は、1997年から摘芽型の緊縮財政を始めたからである。これは、成長より財政再建を優先し、景気が上向いたところで緊縮を始め、本格的な成長に至らせない政策である。そのため、雇用が引き締まらず、賃金上昇は鈍く、消費も停滞して、デフレが続くことになる。残念ながら、それでは設備投資も出ず、成長もしないから、財政再建もできずに、緊縮は半永久的に続く。裏返せば、雇用と十分な賃金を行き渡らせるには、物価が上がるだけの需要の圧力が必要で、そこまで緊縮は待たなければならない。
団塊世代が過ごした高度成長期における政策は、時流に乗っただけのものというのが通説的理解だが、財政を黒字基調にし、インフレを抑制する選択肢も在り得た。そうしていれば、一億総中流の平等社会には至らなかったろう。高度成長だからと言って、必ずしも平等社会にならないのは、物価高による民衆の反発を恐れた中国の例が示すとおりである。「インフレは人間の価値の向上」と言い切り、高圧経済を推し進めた日本は、実は非凡な政策をしていたわけだ。
こうして形成された豊かな団塊世代が親であったことで、そのジュニア世代は、1997年までは、パラサイトを楽しめたし、就職氷河期になっても、引きこもることが可能だった。しかし、失われた20年が経って、老いた親には頼れなくなり、多くが非正規や未婚のまま、独りで生きていかなければならなくなった。また、経済力に乏しい団塊世代が親の年齢になった今、子供の貧困が蔓延するようになったのも当然の流れだ。そして、これからは下流老人の大量発生へ連なっていく。デフレが人間の価値を毀損したのである。
………
もう、どうすべきかは、明らかだろう。足下で景気は上り坂にあるのだから、ここで敢えて緊縮財政なんてしなければ良い。ところが、今度の補正予算で5.4兆円も打たないと、財政中立にならない。この驚くような事実は、日本の財政は何もしないと緊縮になるよう設計されているからである。これが知られないのは、説明がないためで、その理由は「聞かれないから」である。無知で苦しむ責任は本人にあるという論理なのだ。
山田先生は、団塊ジュニアを救うために、「新しい連帯」を訴えるが、これをエコノミスト的に制度を考えると、非正規から正社員へと円滑に労働時間を増やせるよう、社会保険料を軽減して「壁」を無くすのが一番有効だろう。少しでも長く厚生年金に加入できるようにして、下流老人の発生を減らさねばならない。突破口がどこになるかは、「非正規の解放、経済の覚醒」を参照いただきたい。東京都あたりで実験してはどうか。
アベノミクスに対しては、批判を急ぐ余り、全否定する向きも多いが、否定だけでは、自ら進むべき道を失うことになる。アベノミクスは、景気回復のトレンドを維持しただけと揶揄されるが、消費増税の延期という決断がなければ、それすらなかった。この重要性は、政権自身も、あまり分かっておらず、純増税へ路線を切り替えたりしている。モリカケも大事だが、財政の需要管理の監視は、国民生活に直結する課題である。
また、アベノミクスの本質は、緊縮財政、金融緩和、規制改革の新自由主義的なものと思われるが、分配政策にも手をつけている。ライバルのアピールポイントを消そうとするのは、政治的定石であり、脅威感の反映でもある。とは言え、輝く女性とか、待機児童には熱心でも、パート、母子家庭、子供の貧困のような低所得層へは手が薄い。おそらく、そこに注力しないのは、自助を誇りとする保守的な中流下位層の目を気にするからだろう。
………
団塊ジュニアやその子らを救うには、単純に分配する以上の工夫がいる。カギになるのは、「がんばっている者を助ける形」を作ることであり、それが社会全体にとっても「得」であると示すことだ。先の社会保険料の軽減は分配でありつつ、労働力促進でもあり、企業負担軽減でもある。出世払い型の奨学金でも、年金の受給権で相殺する代わり、受給権を増やせるよう、学生パートも厚生年金に軽減された保険料で加入できるようにするといった方法を採れば良い。「新しい連帯」は戦略的に味方を拡げて築くものなのだ。
(今日までの日経)
老いる企業設備、90年度比2倍。崩れる株高=円安の構図。
………
端的に言えば、日本は、1997年から摘芽型の緊縮財政を始めたからである。これは、成長より財政再建を優先し、景気が上向いたところで緊縮を始め、本格的な成長に至らせない政策である。そのため、雇用が引き締まらず、賃金上昇は鈍く、消費も停滞して、デフレが続くことになる。残念ながら、それでは設備投資も出ず、成長もしないから、財政再建もできずに、緊縮は半永久的に続く。裏返せば、雇用と十分な賃金を行き渡らせるには、物価が上がるだけの需要の圧力が必要で、そこまで緊縮は待たなければならない。
団塊世代が過ごした高度成長期における政策は、時流に乗っただけのものというのが通説的理解だが、財政を黒字基調にし、インフレを抑制する選択肢も在り得た。そうしていれば、一億総中流の平等社会には至らなかったろう。高度成長だからと言って、必ずしも平等社会にならないのは、物価高による民衆の反発を恐れた中国の例が示すとおりである。「インフレは人間の価値の向上」と言い切り、高圧経済を推し進めた日本は、実は非凡な政策をしていたわけだ。
こうして形成された豊かな団塊世代が親であったことで、そのジュニア世代は、1997年までは、パラサイトを楽しめたし、就職氷河期になっても、引きこもることが可能だった。しかし、失われた20年が経って、老いた親には頼れなくなり、多くが非正規や未婚のまま、独りで生きていかなければならなくなった。また、経済力に乏しい団塊世代が親の年齢になった今、子供の貧困が蔓延するようになったのも当然の流れだ。そして、これからは下流老人の大量発生へ連なっていく。デフレが人間の価値を毀損したのである。
………
もう、どうすべきかは、明らかだろう。足下で景気は上り坂にあるのだから、ここで敢えて緊縮財政なんてしなければ良い。ところが、今度の補正予算で5.4兆円も打たないと、財政中立にならない。この驚くような事実は、日本の財政は何もしないと緊縮になるよう設計されているからである。これが知られないのは、説明がないためで、その理由は「聞かれないから」である。無知で苦しむ責任は本人にあるという論理なのだ。
山田先生は、団塊ジュニアを救うために、「新しい連帯」を訴えるが、これをエコノミスト的に制度を考えると、非正規から正社員へと円滑に労働時間を増やせるよう、社会保険料を軽減して「壁」を無くすのが一番有効だろう。少しでも長く厚生年金に加入できるようにして、下流老人の発生を減らさねばならない。突破口がどこになるかは、「非正規の解放、経済の覚醒」を参照いただきたい。東京都あたりで実験してはどうか。
アベノミクスに対しては、批判を急ぐ余り、全否定する向きも多いが、否定だけでは、自ら進むべき道を失うことになる。アベノミクスは、景気回復のトレンドを維持しただけと揶揄されるが、消費増税の延期という決断がなければ、それすらなかった。この重要性は、政権自身も、あまり分かっておらず、純増税へ路線を切り替えたりしている。モリカケも大事だが、財政の需要管理の監視は、国民生活に直結する課題である。
また、アベノミクスの本質は、緊縮財政、金融緩和、規制改革の新自由主義的なものと思われるが、分配政策にも手をつけている。ライバルのアピールポイントを消そうとするのは、政治的定石であり、脅威感の反映でもある。とは言え、輝く女性とか、待機児童には熱心でも、パート、母子家庭、子供の貧困のような低所得層へは手が薄い。おそらく、そこに注力しないのは、自助を誇りとする保守的な中流下位層の目を気にするからだろう。
………
団塊ジュニアやその子らを救うには、単純に分配する以上の工夫がいる。カギになるのは、「がんばっている者を助ける形」を作ることであり、それが社会全体にとっても「得」であると示すことだ。先の社会保険料の軽減は分配でありつつ、労働力促進でもあり、企業負担軽減でもある。出世払い型の奨学金でも、年金の受給権で相殺する代わり、受給権を増やせるよう、学生パートも厚生年金に軽減された保険料で加入できるようにするといった方法を採れば良い。「新しい連帯」は戦略的に味方を拡げて築くものなのだ。
(今日までの日経)
老いる企業設備、90年度比2倍。崩れる株高=円安の構図。