カメキチの目
きょうは禅語です。
雨 奇 晴 好
ーう・き・せい・こうー
若いときは、『青春の蹉跌』(石川達三の小説)の「蹉跌」という言葉に酔い、自分を悲劇のヒーローにした夢をみる「甘ちゃん」の一面もありました。
歳とってから思うとアホみたい(みたいでなく、アホそのもの)ですが、人生の甘いも酸いも舐め、少しは経験・体験から学んだこともあります。
(ここまで生きられてきたことがフシギ、奇跡的なことに思える)
雨もよし、晴れもまたよし。もちろん曇りもよし!
このまえ旅した「立山」。
晴れてほんとによかったのですが、雨で絶景がみられなかったら《それはそれでしかたないこと》楽しみがひとつ増えてよかった、と負け惜しみでなく思おうと思いました。
しかし、雨降りでも雲っていても、そういうときしかみられない風景を存分に楽しめる、懐の広く深い人間になりたい。
私たちが生きているということも、今、ここの目の前も、ただ一回かぎりのもの。その一回かぎり、刻々と変化する自分と周りのコトとモノ(環境)を、あるがままにみれば、新たな発見や気づきがある。
「奇」というのは普通とは違うこと、また思いがけないことと辞書にある。だから、「雨奇」とは、晴れは普通でいいものだけど、雨降り、そういう「奇」もまた好いということか。
おもえば「奇」は、さっき書いた「奇跡」の「奇」でもあります。
何をもって「普通」、「常態」、…とするかは曖昧で、相対的なことだが、どんなコトとやモノにも、初めからバカにしたり好き嫌いすることの否を説いている。
私はいつも安倍首相に罵詈雑言を投げかけていますが、そんな自分を彼の上をいくバカ、大バカだと自覚しています。
が、初めから安倍をバカにしたり嫌っていたのでは決してありません。どころか真反対でした(かつては、「安倍さん」と呼んでいた)。
私は日本社会を今日のような住みにくい、働きにくい世の中にしたのは元総理小泉だと信じています。ですから、安倍の誠実で真面目そうな姿は小泉の「パフォーマンス」にない好印象をおぼえたものです。
(つまらない横道に入りゴメンなさい)
明日は今日と同じように訪れる、この人とはまた明日会えると当然のように思い込んでいるが、そんな「妄想」を持たず、「一日一生」「毎日正月」の心で生きたいと思う。
「雨奇晴好」は禅語ですが教えが似たような格言・金言はたくさんあります。それだけ、「今」「この瞬間」をだいじに生きなければならないということですね。
「最後に姿を見たのは…」とか「声を聞いたのは…」とよくドラマの一シーンに出てきます(ウチで、半分はジョーダン、半分は本気で、ゴミ出しなどに5分間くらい出ていくときに「今生の別れとなるやもしれず…」と笑いながら言うことがあります)。