今週、ツイッターはシャーロッツビルにおける白人至上主義者たちの暴力的な集会を主導した人物であるJason Kessler氏のアカウントに、あの青い「認証バッジ」を与え、それが原因で大騒動が巻き起こりました。
このJason Kessler氏の主義や主張はどうあれ、この人物は自分が主催した集会で無実の人が亡くなったことに対して彼女が「太った醜い共産主義者」で、その死は「当然の報いだった」とツイートするタイプの人です。
そうした人物に認証バッジが与えられたことに対して、「ツイッターはプラットフォーム上の暴力を抑制する意志がないのか」と大きな批判が巻き起こり、ツイッターは一時的にこの認証バッジを付与するプログラムの停止を発表しています。
この一行目が大切で、ここでツイッターは「認証は本人を確認するためのものだったが、ツイッターがその人物を支持している、あるいは重要とみなしていると解釈されるようになっていて混乱がある」と説明しています。
ネット上の書き込みをみていても「認証バッジをそういう風に解釈する人があとからでてきて面倒なことになっているのか」というものがいくつかみられました。
しかし、実のところこの混乱は、最初に認証バッジが登場した2009年の頃にすでにその仕組の中に組み込まれていた時限爆弾だったといってもいいのです。
認証バッジは、最初から特別なユーザーを囲い込むためのものだった
認証バッジが登場したのは2009年6月のことです。そのロールアウトは奇妙で、特定の人々がいきなり自分のアカウントにこのボタンが表示されて気づくというものでした。
認証バッジと名前のわりに、実際の認証はツイッターまかせで、その判定基準も、だれがこのバッジがもらえるかも謎だったのです。そしてそれはいまでも謎のままです。
ツイッターはなりすましに困っているセレブや政治家といったアカウントに対して優先的に認証バッジを与えていきましたが、その一方で、インフルエンサーに対して認証バッジを与えることでツイッターに他のユーザーをひきつけようともしていました。
ツイッターが生まれた当初、アクティブなユーザーが「おすすめユーザー」として表示され、そうしたユーザーのフォロワーが急速に伸びたという取り組みがありました。その影響はいまも歪んだ形で残っており、同じ程度の活動をしている同じ分野の人のあいだでフォロワーの数が二桁くらい異なるという形でいまも観測できます。
この哲学が色濃く残った時期に導入された認証ボタンには、インフルエンサーを集めるためにやっている、つまりはユーザーを格付けする意味合いも込められていたです。
このことは、2016年に日本でも募集された認証バッジへの登録フォームでの以下の質問からもみることができます。
こうした情報を揃えたうえで、なぜ自分のアカウントが認証される必要があるのか、個人の場合は自分が活動する分野でのインフルエンスについて、企業の場合はどういったミッションの企業なのかをTwitterに知らせます。
ちなみに、わたしはツイッターのかたのおすすめで2012年頃と、2016年の2回にわけて申請しているのですが、2回とも落ちています。はい、この点については、ちょっとしたうらみがあります(笑)。
認証バッジが剥奪されるケースが示すもの
認証バッジは「その人物の活動をツイッターとして支持するものではない」と主張しておきながら、ツイッターがアクティブにそれと矛盾した行動をしたケースもあります。
たとえば1月にはオルタナ右翼の過激な論客、Milo Yiannopoulos氏の認証バッジが剥奪されるというできごともありました。
ちょうど Milo 氏はいまと似たような炎上の最中でしたので、認証バッジが剥奪されたのは「ツイッターがお墨付きを与えている」と受け取られたくないからだろうというのが、多くの人の見立てでした。
ツイッター自身が認証バッジを「主義や主張とは関係がない本人確認」ではなく、主義主張によっては剥奪するものと捉えている矛盾が表面化したわけです。
そうでなくても認証バッジをもっているユーザーには、一般のユーザーが利用できない追加の統計情報や、認証バッジををもっているアカウント同士しか表示しない特別のリプライ欄や、新機能を先にテストできるなどといった側面もあり、ツイッターがVIPとして扱っていることは明らかだったわけです。
ツイッターがツイッターであることが、そもそも悪用可能であるという悲しさ
こうした矛盾が表面化した結果、認証バッジのプログラムは停止してしまったわけですが、ツイッターが直面しているのはそれどころではない自己矛盾の地獄です。
そもそも、ツイッターは当初「どんな言論も検閲することはしない」ということを標榜してスタートしたサービスです。だからこそ、アラブの春におけるツイッターの役割のように、ただの140文字が政治をも動かす言論プラットフォームとしての性格もしだいに帯びてくるようになったわけです。
しかし、しだいにそれが悪用されるようになった結果、ツイッターはしだいにツイートを検閲し、国別にルールを適用するようにもなっていきました。そのときのブログ記事を、いま問題となっているアカウントの恣意的な凍結問題を背景に読んでみるといろいろと面白いかもしれません。
We try to keep content up wherever and whenever we can, and we will be transparent with users when we can’t. The Tweets must continue to flow.
「どんなときでもツイートが表示されるようにしたいが、そうできないときはユーザーにちゃんと説明を行なう。ツイートは流れ続けなければいけないのだ」
しかし認証バッジは恣意的に与えられ、アカウントは恣意的に凍結され、利用規約に違反したツイートをしている人が大統領で「ニュースの価値がある」という理由で放置する。今回の問題も、そしてここ最近の問題もすべて、ツイッターのプラットフォームとしての矛盾点がいくつも交差して吹き出したものといってもいいわけです。
みえない出口
問題は、ここからどのように進めば、ツイッターは本来それが果たしたいと願っている「地球の鼓動」としての情報プラットフォームになれるのかという点です。
日本でも、最近起こった悲惨な事件のなかでツイッターが果たした役割を、どのように捉えるべきか議論が起こっています。情報を制限あるいは監視することによってリスクが高い状態にある人を守ることは、逆にそうした人々の声を封殺することにもつながりかねません。
言論に制限を加えたくないとはいえ、タイムラインで時折見かけるショッキングなやりとりは子供を持つ親としても心配になってきます。
認証バッジ問題は、ツイッターがどんな言論・人物にプラットフォームを利用してよいか取り締まるつもりなのかどうなのかの分かれ道になっています。
これまでは、なんでもありにしつつ、報告されたツイートを処理して、インフルエンサーをバッジで認定してという簡単な運営でも見逃されていました。しかしプラットフォームを情報戦の場として、武器として他者に害を及ぼすために利用する意志のある人がここまで増えてしまったいま、放置していたらユーザーが離れてしまうのは目に見えています。
こうした事態に対するCEOのJack Dorseyの言葉は、どこまでもむなしく聞こえます。「事態は把握していたけど、直すのに時間がかかっている。これからもっと努力する」。
2014年にも、2015年にも、2016年にも似たような言葉は聞いてきた覚えがある身には、おそらくJackでさえ、どうすればいいのかおそらくわかってはいないのだろうという気がしてきます。
おそらく、認証バッジはもう終わりになるといってもいいでしょう。すくなくとも今のようなバッジの運用はなくなり、より制限された、あまり意味のないものに変わってゆく可能性もあります。
280文字ツイートできるようになっても、ツイッターは元来のツイッターらしさを少しずつ失っていってるのです。