アイオワ大学があるアイオワシティには、鉄道の駅はない。そのせいか、町の中心をいつまでもつかめなかった。移動手段は、自動車、それから飛行機になる。隣町のシーダーラピッズの空港まで自動車で三十分と少し。小さな空港に、百席に満たない小さな飛行機が発着する。広いアメリカで日常の移動手段である飛行機は、遅延、それも大幅な遅れもしょっちゅうだ。せっかく朝四時、真っ暗な中ホテルを出てきたのに、遅延のため乗り継ぎできず、振り替えの便も大幅に遅れ、サンフランシスコの空港で五時間待った末に乗り込んだユージーン行きの機内で、さらに二時間近く待たされることになった。
わたしたちの座席は、ビジネスクラスのすぐうしろだった。狭苦しいエコノミーのわたしたちには目もくれず、客室乗務員たちは、ゆったりした革張りシートの客たちの不満に謝罪し、機嫌を取るために、ビールもワインもお持ちします、と銘柄を挙げていた。そして最前列の若い男性客が「Heineken would be great.」と答えたのが、くっきりと耳に入ってきたのだった。
クリエイティブライティングのコースをアメリカで初めて作ったアイオワ大学の、世界各国から作家(小説家、詩人、脚本家、劇作家)が三十数人集まって十週間過ごすインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)に参加していた二〇一六年秋、プログラム外のイベントであるオレゴン大学での授業と朗読に、アイオワ大学で日本文学を教えているケンダルさんと向かう途上のできごとだった。アメリカに来る前には、今までに参加した人ややりとりをしていたスタッフから毎年英語が苦手な人は一人、二人いるからだいじょうぶと言われていたし、IWPでの経験を書いた中上健次や水村美苗のエッセイを読んでも英語がほとんどできない人が参加していたのでなんとかなるかと思っていたが、八月に蝉の鳴くアイオワシティでプログラムが始まって二日目、自分が参加者の中でいちばん英語が話せないと気づいた。参加者は、アメリカ以外の国の人たちで、その半数くらいの人の話す言葉は当初わたしには(自分のことをまったく棚に上げて言いますが)英語には聞こえなかった。プログラム内には日本語を解す人は誰もいない中、他の作家たちの詩や短編をスマートフォンに入れた英和辞書を何十回も引いて読み、文法書をめくって明日はこれを話そうと試しては会話が続かず落ち込む毎日だった。
それが十月に入ったこのときには、音声としてはかなり聞き取れるようになっており、ビジネスクラスに不似合いなTシャツにキャップの若いにいちゃんの一言がとてもクリアに聞こえてきたのだった。わたしはケンダルさんに聞いた。「Heineken would be great. は、ハイネケンがいいね、好き、という感じですか?」。自分はあの人の言ったことがわかった、と伝えるつもりだった。なんといってもgreatなのだ。トランプはMake America great again.と繰り返していたし、毎朝作家たちと交わす挨拶も、How are you? Great! だし、銀行の窓口でサインをするだけでもGreat!と笑顔が返ってくる。しかし、ケンダルさんの答えは違った。挙げた銘柄に好きなものはないから仕方なくハイネケンにしとく、という感じ。
なぜ? isではなくwould という婉曲表現が使われていることがまず理由だが、最終的には、状況や文脈によるのだという。
フライトが遅れに遅れた結果、ユージーンについたのは夜十時前。予定していた授業には出られず、とうもろこし畑が延々と広がる茫漠としたアイオワとは違って森に囲まれた町も、大木の紅葉とレンガ造りの美しいキャンパスもゆっくり見られなかったが、朗読イベントにはたくさんの学生たちが来てくれたし、質疑応答も熱心で、うれしかった。ちょうどこの日の早朝にボブ・ディランのノーベル賞受賞のニュースが入ってきたので、わたしはボブ・ディランのいちばん好きな歌詞「All I really want to do」も朗読した。その夜、オレゴン大学の先生たちと夕食に行ってオーダーを話し合っているとき、ガンダムで卒論を書く予定の大学院生が言った。「It would be great.」。それは「おいしそうですねえ!」という意味だった。
アイオワに戻ってから、わたしの小説を翻訳してくれている大学院生にもIWPの参加者でいちばん話した香港のヴァージニアにも聞いてみたし、日本に帰ってから英語に詳しい人にも尋ねたが、やはり最終的には文脈や表情だという。日本では婉曲表現や本音と建前があり、たとえば「検討します」は断りの意味だなんていうことがよく言われ、それに比べるとアメリカはストレートなもの言いだというイメージがあったので、greatだけどgreatじゃない事例は、小さな驚きだった。
IWPの期間中は、朗読やパネルディスカッション、高校でのレクチャー、演劇やダンスとのコラボレーションなど様々なイベントがあるが、大学院生との翻訳のワークショップも毎週あった。授業の数日前にその週に使う作品の翻訳がメールで送られてくる。わたしの短編を取り上げる日の前日、ヴァージニアに尋ねられた。「冒頭だけ読んだんだけど、語り手は男性? 女性?」。ああそうか、とわたしは気づいた。元の短編は高校生で「わたし」だから、日本では最初の二行でたいていは女子を思い浮かべるが、英語だとIだから読み進めなければわからない。
ヴァージニアには、わたしの別の短編についても質問をされていた。母親が娘に「洗濯物干しといて」と言う場面があって、他の日本の小説でも似た場面を読んだが、日本ではよくあることなのか? わたしは聞き返した。香港では言わないの? 香港では、子供は受験勉強で忙しく、家事を手伝わせることはない、とヴァージニアは答えた。
参加者の中でヴァージニアといちばん話すようになったのは、彼女の英語がとても正確かつ聞き取りやすかったのに加え、香港と日本では互いの生活や文化・歴史的背景を想像しやすかったのも大きい。ヴァージニアは日本の小説や映画をよく知っていたし、アイオワにいるあいだ中、わたしたちはとにかく熱いお茶が飲みたいと言っていたし(アメリカのホテルの部屋にはカプセル式のコーヒーマシンしかない)、漢字で会話することもできた。ヴァージニアの短編やスピーチから、彼女と同世代のウォン・カーワイの映画について背景や意味がわかって、それを話し合うのも楽しかった。だからときどき、自分では当たり前だと思っていたことが通じないと、とりわけ印象に残った。
英語では複雑な会話ができないわたしにとって、小説や映画のタイトル、作家の名前は重要なコミュニケーションツールだった。共通するなにかが見つかれば、なにに興味があるのか、どんなものが好きなのか、確認し合える。南アフリカのプリヤが、「ツイン・ピークス」が好きだと知ったときも、すぐにSNSでメッセージを送った。その後、彼女が一歳違いだとわかって、遠く離れた大阪とダーバンで、高校生だったわたしとプリヤがあの奇妙なドラマに夢中になっていたのだと思うと妙に感動した。
それを知っているというだけで、なにかが通じたように感じる。共通の背景を確認できれば、わかることがふえる。それはコミュニケーションの重要な要素だと思うと同時に、それはコミュニケーションなのだろうか、とも思っていた。共通項を探すだけなら、単なる答え合わせに過ぎず、自他の違いを超えて対話するのとはちがうのではないか。それは、自分に似た人や言いたいことを代わりに言ってくれる人を集めがちなSNSを使っていて感じていることでもあった。
高校生のころ、授業中はいつも小説を書く用のノートを教科書の下で広げていて、そこに「共感する」と百回くらい書いたことがあった。その時考えていたのは、人の気持ちがわかることは、自分以外の誰かになることは絶対に、絶望的に絶対にないのだから、できることはただ共感することだけだというようなことだった。共通点やすでに知っている感情にわかるわかる、「いいね」のアイコンをクリックするような感覚ではなかった。
今でも、そう思っている。わからないから、そこに共感があるのだと。
わたしと誰かの、そのあいだにある言葉はなんなのだろう。ここにいるあいだは、日本語は通じない。英語が公用語の国の作家もいたが、多くは程度の差はあれ不自由さのある英語で話す。自分の国では、朝から「great!」なんてポジティブ過ぎる挨拶はしないのに、ここでは英語だからコミュニケーションの形もそれに従う。わからないことのあいだに、わかろうとして使う言葉があり、わかったりわからなかったりする。
最終週のパネルディスカッションの日、アメリカの印象について自由に話し合うと書いてあったので、わたしはいくつかポイントをまとめていった。教室に着くと、一人また一人と前に出て立派なスピーチを始めた。作った詩を朗読している作家もいる。誰かの話が終わりそうになると、次の作家がさっと立つ。
わたしは混乱した。この順番はどうやって決まってるの? わたしが連絡を見逃したのか、英語が読めなかった? わたしの順番はいつ? 半分くらいの作家が登壇したあと、唐突にクラスは終わった。何人かの作家に尋ねた末、夜になってやっと、なにも決まっていなかった、しゃべりたい人がしゃべっていただけ、とわかった。日本では、こういうときたいてい進行は事前に決まっている。もし、自由に、と言われたら、遠慮して(または遠慮するそぶりを見せて)お先にどうぞ、そうですか、では、などと言っている場面が思い浮かぶ。英語がわからなかったせいではなく、行動のあり方が違いすぎて、状況が理解できなかったのだ。そして発表の場で遠慮するなんて想像もしない作家たちには、わたしの質問の意味がわからなかった。わかってみれば、動揺した自分のことを笑いたくなった。
実をいうと、日本で日本語を使って暮らしていても、わたしはそんなふうに状況をわかっていないことがたびたびある。「would be great」の意味は、そのうちわかるようになるだろうか。
PR誌「ちくま」2月号