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関ヶ原の合戦の実像 西軍は開戦当初から総崩れだった

   

関ヶ原の合戦の実像

最近歴史や歴女がブームですね!今年になって「関ヶ原」が映画化されました。司馬遼太郎原作で天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦を描いたものとなっています。石田三成と徳川家康の確執、小山評定、東軍につくか西軍につくかで揺れ動く武将達、小早川秀秋への裏切りなども描かれています。総勢3,000名ものエキストラを使った関ヶ原の大迫力の激突シーンは見物です。

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映画・テレビドラマ・ゲーム・漫画などで「関ヶ原の戦い」は激突であり大迫力の見せ場として描かれています。しかし、関ヶ原に関するエピソードには江戸時代になってから書かれた軍記物による創作が多数混入しています。関ヶ原の合戦の実像はどこまで研究が進んでいるのでしょうか。今日は関ヶ原の史料研究についてご紹介します。

東軍・西軍の呼称

東軍・西軍という呼称が初めて登場する文献は1698年の『石田軍記』です。それ以前の文献では敵と味方という記述になっています。映画「関ヶ原」でも「ずっと西軍のフリをしていればええ」など西軍の呼称が台詞に登場しますが、これは100年後になって成立した呼称と考えて間違いないでしょう。

小山評定はあったのか

石田三成が西で挙兵したのを受け、徳川家康が上杉征伐を中断して下野国小山で急遽開かれたとされる軍議・小山評定。ここで家康は豊臣恩顧の諸候らの前で各自が西軍につくのも自由に決めて良いと話しますが、福島正則が率先して東軍につくことを表明して諸将もそれに呼応、山内一豊らが居城を徳川方に明け渡したと言われています。東軍結集の重大な転機となったエピソードですが、この小山評定は本当にあったのでしょうか。

小山評定の存在を裏付ける一次史料はまだ発見されていません。小山評定の存在を裏付ける家康が福島正則に宛てた書状が唯一の史料的根拠となっていますが、この書状は写しであり1740年に幕臣が編纂した『武徳編年集成』という文献に登場するのが初出です。それ以前の文献では小山評定を裏付ける根拠となる史料は出てきていません。

関ヶ原の合戦という呼称

今年公開された映画でも「決戦の地は関ヶ原!」と家康が叫ぶシーンがありますが、当時の書状には合戦の地名は「山中」(現在の岐阜県関ヶ原町山中)と書かれていました。山中合戦または山中之合戦と記されています。山中は関ヶ原よりも西寄りで石田三成らが布陣した場所です。「関ヶ原」という地名が登場するのは合戦後に出された書状からです。

関ヶ原ではなく三成らが布陣していた山中が主戦場であったということは、西軍は開戦当初から防戦一方であったということになり、従来の関ヶ原のイメージのように開戦当初は東西激突してなかなか決着がつかなかったという解釈に見直しを迫るものとなっています。

石田三成はなぜ山中に布陣したのか

なぜ石田三成らが大垣城に籠城せず、関ヶ原(山中)まで布陣して野戦を行おうとしたのでしょうか。従来の解釈では西軍の戦力が圧倒的であったため関ヶ原に布陣して東軍を挟撃して勝利する考えだったと言われてきました。

しかし当時の「吉川広家自筆書上案」では、小早川秀秋の謀叛の意思が明らかとなったので、石田三成らの軍勢は山中の大谷吉継が危うくなったとして、救援のために大垣城から山中に移動したと記されています。石田三成らは小早川秀秋の謀叛を開戦前にある程度知っており、大谷𠮷継を救援するための布陣であった可能性が指摘されています。

小早川秀秋の陣へ鉄砲は打ち込まれたのか

なかなか態度を決めかねていた小早川秀秋に徳川家康が業を煮やし、東軍が小早川秀秋の陣へ東軍が鉄砲を打ち込んで慌てて小早川秀秋が謀叛を決意したとされる、いわゆる「間鉄砲」。本当にあったのでしょうか。当時の文献には一切記録されていません。間鉄砲の話が登場するのは1688年の『黒田家譜』が初出であり、これも関ヶ原の合戦からだいぶ時代が変わってから登場した話になっています。小早川秀秋が陣を置いていた松尾山は標高293メートルのかなり高い山です。この松尾山の山頂付近に小早川秀秋は陣を構えていたと言われています。この時代の火縄銃の射程距離では陣に威嚇射撃を打ち込むことは不可能です。

関ヶ原の戦いは開戦と同時に西軍が総崩れとなった

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今まで書いてきたように史料研究の点からは関ヶ原の戦いは両軍激突の戦いではなく、当初から西軍は総崩れ状態で防戦一方であり、6時間も掛からないような短期間で決着がついたのではないかと考えられています。この『関ヶ原合戦屏風』も後世になって描かれたものです。

イエズス会の宣教使がまとめた「1600年度日本年報」でも関ヶ原の合戦が次のように報告されています。

多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人を集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が、短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし、 奉行たちの相互間の意見の一致はいとも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。…内府様は時間が無駄に過ぎぬよう、尾張へ到着したその日に、美濃にいた軍勢と合流し、そのうえ五万の軍勢を擁するようにした。

翌日彼は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた中納言がいた。同様にたいして勢力ある者ではなかったが、他の三名の諸侯が奉行たちの軍勢に対して武器を向けた。 奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。 同じく毛利殿の軍勢は、 合戦場から戦うことなしに退却した。

こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた。

「始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」とあるように戦闘が始まってすぐに奉行(石田三成)の味方が何人かが内府(徳川家康)方についたと書かれています。

石川道康と彦坂元正が松平家乗に出した連署状でも、小早川秀秋・坂脇安吾・小川祐忠・祐滋父子の4人が戦いを交えたときにすぐ徳川方に味方して西軍は総崩れであったと記されています。また、複数の資料から当時の関ヶ原には霧が立ちこめていたことが明らかになっており、このような視界不明瞭な状態も西軍の混乱に拍車を掛けたものと思われます。

戦後処理はどのようであったのでしょうか。イエズス会の「1600年度日本年報」では次のように報告されています。

内府様は軍勢を率いて大坂城へ進軍した。城には毛利殿が住んでいた。この当時毛利殿は…太閤様の財宝と息子をも己が権限の下に置き、そしてすべての諸侯の人質、内府様に味方していた人々の人質に対してさえも権限をもっていたが、このほかに己が諸領国から四万の軍勢をも召集していた。

最後に彼は幾年にも及ぶ戦争に必要な食糧その他の必要物質を豊富に蓄積してあったにも拘わらず、味方の軍勢が内府様によって打ち破られたと知るやいなや、非常な驚怖に呆然となり、そしてまったく恐れおののいてしまい、戦さと戦闘を交 えることも、また敵の勢力を撃退することさえ考えなかった。また驚くべきことは、彼は自国へ帰ることが容易にできたのにそれもせず、また敵方に対して和平の諸条件を一つも提示 せず、…すべての側近者といっしょに大坂城を出て城外にある荘麗に建てられた自らの別荘に身を隠し、そこで敵の思うとおりに降伏することを考えた。 こうして内府様は失っていた大坂城をやすやすと掌中に取り戻し、それから日ならずして、ほとんど日本国全土の支配権を得た。

震え怯える毛利輝元の様子が報告されています。歴史は決して美しい物語ではなく、東軍も西軍も数多くのしょうもない判断ミスをしていますし、転機というのが大仰しいものではなく意外とあっさりしたものです。小説ももちろん大事ですが、実際には何が起きたのかを史料から積み上げていく努力も必要でしょう。

参考文献 + α

新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い

新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い

ちなみに「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」では慶長5年8月10日の佐竹義宣宛石田三成書状も掲載されています。この書状には次のように書かれています。

会津より茂、 度々到来、伊達・最上・相馬何茂入魂衆申候由候、其国之義勿論、会津可有御入眼候旨被仰談、家康可被討果御行、此時候事。

石田三成が佐竹義宣に対し、佐竹・伊達・最上・相馬の4家で徳川軍と戦って関東まで進軍するよう要請している書状です。この書状の通り上杉と佐竹・伊達・最上・相馬の連合軍が東軍を挟撃していたらあるいは…と思ってしまいます。

映画「関ヶ原」

史料研究の観点で映画「関ヶ原」を観ると楽しめるかもしれませんね。司馬史観の醍醐味。

www.youtube.com