十七歳の夏、そんな体験をしました。もちろんこれは私の人生にとって、とてつもなく大きな意味をもつ出来事でした。それまで抱いていた
そうです。同い年である彼女もまた、あの日、〝あれ〟を体験していたのです。
広島市に原子爆弾が投下されたのは、国民学校の一年生、七才のときのことでした。朝の八時十五分。地上600メートル上空で炸裂し、爆心地周辺の温度は一気に3000度まで達したそうです。私はちょうど通学途中で、爆心地から二キロと離れていない場所を歩いていました。石造りの高い壁があり、私はその石垣に沿って歩くのがいつもの癖でした。結果的に、それで熱線の直撃をまぬがれたようなのです。奇跡的なことだそうです。そのときの広島市の惨状といったら、それはもう、地獄です。みなさまも記録映画等でごらんになっているでありましょうから、くどくどと申し上げません。坂本はつみちゃんという八才の女の子が書いた、『げんしばくだん』という詩があります。
げんしばくだんがおちると ひるがよるになって 人はおばけになる
私は、これ以上に胸がえぐられる詩を知りません。この子もあの光景を見たのです。このとおりなのです。まさにこのとおりです。爆風で舞い上がった
私も、両親と兄、妹のすべてを八月六日に失いました。みな心の優しい人たちでした。戦時中でも父と母は明るさを失いませんでした。少なくとも子どもたちの前では暗い顔を見せないように努めていました。高校まで卒業させてくれた
── ずいぶんと長い話になってしまいました。このあたりで終わりたいと思います。── 私の考えを述べます。今夜、みなさまが話されたテーマ、問いかけ、に対する私の答えは、
YES、です。もちろんYESです。YESですとも!
そのとき、彫刻家が畳から立ち上がった。画家のところへ歩みより、両手をさし出し、画家の手をしっかりと握ったのを僕は覚えている。画家もはにかんだような笑みを浮かべてその手を両手で握りかえした。彫刻家は涙をこらえているようにも見えた。四つの手のひらが何度か上下にゆれた。彫刻家は、画家が被爆者であることを知っていたのかもしれない。それを知っていて、その夜のテーマを振ることは彫刻家にとっても勇気のいることだったはずだ。しかし画家は「YES」と答えた。もちろんYESだ、と── 。
画家はそのあとも短く話した。
その後、上京し、貧しいながらもなんとか絵を
「私が描きたいのは、意識がもどり、自転車にまたがっているのに気づくまでの、〈完全な空白〉のほうなのです。川原での体験ではないのです。自我はなくなっているが個々の対象物── 彼女や、花や水や光や── になっている意識はあり、恍惚も感じているあの川原での体験ではなく、対象の意識もなくなり、心の作用もすべてが消失した、何もかもがなく、そして本当の意味で何もかもがあったであろう、あの〈完全な空白〉、あの〈完全な空白〉そのものを私は
彫刻家は、張りつめすぎてきた場の緊張感をゆるめようと思ったのか、笑みを含めた口調で返した。
「しかし、それは不可能というものでしょう。〈完全な空白〉を描く、なんていうことは」
そのとおりです、と画家は真顔でうなずいた。だから私は──
「だから私は、今や絵を描かない画家なのです。絵を描かないことによって、私はやっと本物の画家に近づくことができたのです」
もちろんあの画家がある種の狂人であった可能性は否定できない。川原で精神錯乱を起こし、幻覚を見、それを神秘体験ととらえ、狂ってしまったのだ。あるいはすべてが作り話であった可能性もないことはない。何のためにそんなことをしなければならないのかは分からないけれど。
僕はそののち横浜も離れ、引っ越しを繰り返し(長崎に住む友人と出会ったのは北鎌倉だった)、故郷である宮城県へ戻った。十七年前のことだ。僕は現実的になり、地に足をつけた生活をしようと心を決めた。就職し、事務職に就いた。同僚の女性と結婚し、娘もできた。そして去年──
三月十一日を迎えた。
空襲や原子爆弾の投下というのは胸が潰れるほど辛いことではあったが、僕らの世代にとって(それも広島にも長崎にも生まれなかった人間にとって)、それは歴史のなかの出来事であり、記録フィルムのなかの映像でしかないのも事実だった。
しかし唐突に、地獄は目の前に広がっていた。そこに地獄そのものがあった。〝現実的に〟も〝地に足をつけて〟もなかった。その地面ごと押し流され、燃やし尽くされたのだ。特撮映画のように。完膚なきまでに。
── あれから、二度目の夏が来ようとしている。
妻と娘の一周忌を終えたばかりの僕に、長崎の友人もこの「問いかけ」をすることは勇気のいることだっただろう。かなり奇矯なところもある友人ではあったが、根は思いやり深い、繊細すぎるほど繊細な男であることを知っている。
── この世界は善か?
二十年前の夜、彫刻家がかかげたテーマと、それはまったく同じものだったのだ。
この世界は善か?
もちろん僕には分からない。分かるわけがない。はい善です、と言えるわけもない。〝夢想〟も〝現実的〟も、すべてが押し流され破壊しつくされた今、いっさいがもう信じられないのだから。
長崎の友人は定期的に手紙をくれる。変わり者の彼は電子メールではなく手紙を書く。「どうしても携帯電話を持たなければならなくなって購入したがたいてい押し入れの奥に突っ込んである」とわけの分からないことを数年前の手紙にも書いていた。僕も手書きでの返事に付き合っていた。
友人は小説家だ。まだ本は出版されていないから小説家志望、というべきか。
いや、俺は小説家だよ、と友人はいつかの手紙に書いていた。この世を去る最期の瞬間までそのとき書いてる作品、文章を推敲しているはずだからな。そんな人間が文筆家じゃなきゃなんなんだよ? と。「ほとんど小説のことしか考えてないし、小説以外のことは考えたくもない。最近では俺が小説なんじゃないかと思うことすらある」── わけが分からない。
だがじっさい、彼は小説家だと思う。僕も鎌倉に住んでいたころ創作の真似事をしていたことはあるが、彼と出会い、彼の書いたものを読み、打ちのめされた。こういった人間を作家と呼ぶのだろうと思った。思考回路がまるでちがっているのだ。それは快感をともなうほどの奇妙な敗北感だった。
「一般的な意味での才能だったら君のほうがあるさ」、同い年の彼はそう言った。「でも才能だけじゃだめだ。才能より大切なものがある。それはほとんど不幸に近いものだ。そしてやっぱり幸福にも近いもの。幸福なほど呪われている、とでも言うかさ。それを持っていることが才能と言えば才能なんだよ。超才能、つうの?」── わけが分からない。
僕は読みかけの手紙の最後の二枚を上着のポケットに突っ込み、仮の住まいの寺を出た。初夏の光が降りそそぐ外を歩いてみた。被害の甚大だった場所からそれほど離れているわけでもないのに、ここにはまだ変わらぬ日常があった。しっかりとした地があった。二本の足を交互に前に出し、その地面を踏みしめながら、俺はなぜまだ生きているのだろうかと考えてみた。そして彼らはなぜ死んでしまったのだろう。死ななければならなかったのだろう。
古くからある民家が建っていた。陽射しが埃っぽい土の道を照らしていた。木々の葉々がその一枚一枚に光をのせ、風にふるえていた。草の香りと乾いた砂の匂いが混じり合って鼻先へ届いた。
見上げると、夏の空があった。
明るく澄んだ空。見たところは震災以前と何ら変わらない空がひろがっていた。子どものころとも、画家が川原で見上げた空とも何ら違わないであろう空があった。原子爆弾が落とされようと、水素爆発が起ころうと、昨日までの日常が破壊しつくされようと、空は空であることをやめようとはしていなかった。
この世界は、まだまだつづいていくのだな、── そう思うと、笑いに似た形に唇がねじ曲がった。
俺はなぜあのとき会社などにいたのか? なぜすぐに帰らなかったのか? なぜ馬鹿みたいな書類をパソコンで打ち直していたのか? 妻と固定電話がつながったのに、「念のため二階にいるんだぞ」くらいでなぜ済ませてしまったのか? なぜ見なれた海があんなに持ち上がったのか? なぜ黒い波となって押し寄せなければならなかったのか? 何のためにあんなことが起こったのか? あれほどの理不尽がなぜ許されたのか? 誰が許したのか? 誰が起こしたのか? いったい誰が許可したんだ?
── この世界は善か?
もちろんNOだ。
善でなどあるわけがない。── それでも、あれからたくさんの人たちの支援によって自分は生き延びてきた。それは事実だ。もう、分からない。何もかもが分からない。正気を失ってしまいそうだった。正気を失ってしまいたかった。あの画家が言っていたことも今となっては
俺はいったい何をすればいい? 大いなる存在とやらがいるのならなぜまだ俺をする? 俺は何を感じればいい? 俺を通して何を感じたい? 成長? 拡大? 罪もない女や子ども、老人や動物までをも水責め火責めで虐殺し、それでいったい何の成長だ? 何の拡大になる? ええ? 誰か教えてくれよ。
ここはいったいなんなんだ!
うつむき、土の路面に目を落とした。黄色いものが視界の隅に入った。そこに陽が当たっていた。見た。路肩に咲いた花だった。二歩、三歩と歩み寄った。細い茎に支えられ、わずかな風に
娘は花が好きな子だった。花が咲いているといつも近づいていった。不思議そうに眺めたあと、顔中を笑顔にしてこちらを見上げた。妻と二人、胸のなかが温かさでいつもいっぱいになったのだ。「このお花の葉っぱはね、夜になると閉じちゃうのよ」、妻の声。そうだ、この花だった。妻は娘にそう説明していた。「ふうん、ねんねするのね」「そう 、ねんねするの。みんな夜はねんねするの。お花さんもいっしょね」。
かがんだまま花を見つづけた。ひらいていた。黄色くひらいていた。雲が太陽を隠したらしく、その黄色が翳った。そして片側から明るさを取り戻していく。花びらの黄色がまぶしいほどに、また照った。
足元に白い物があった。長崎の友人がくれた新しい手紙の最後の二枚だった。上着のポケットから落ちていたらしい。拾いあげていた。読んだ。
「もう何もしたくないだろう?」と書いてあった。「布団をかぶったまま動きたくないだろう? いや、それでも動くんだ。感じるんだよ。感じるために何かをするんだ。喜びでもいい。楽しんでもいい。傷ついてもいい。絶望したっていいんだ。何かを感じるために何かをするんだ。『よかった。身も心もいっさい傷つくことなく棺桶に横たわることができた』が人生の目標じゃないんだ。感じるために生きるんだよ。感じるために生きるんだと知れば不思議な慰めが来るはずだ。活力も湧いてくるだろう。どうしてか? そういうものだからだ。それが生きるということだからだ。さらにもっと、感じるんだよ。残酷だと憤りを覚えるかもしれないな。俺を殴りたいかもしれない」
「俺はこの数日のうちにまた旅に出ることになる」、届いたばかりの手紙はこう結ばれていた。「アジアだけじゃない。こんどのは少し長い。地球を可能なかぎり見てくる。感情を可能なかぎり感じてくる。悲惨なものをまたたくさん見ることになるかもしれない。心の底からの歓喜も味わうだろう。それでいいんだ。そのために金をためてた。三年間帰らない。そのあいだに長編小説を一本仕上げる。小説を書くことが俺の答えかただ。小説のなかに答えを書くんじゃない。小説を書く、という行為そのものが俺の答えかただ。世界への意思表示なんだよ。三年たったら必ず帰ってくる。出来上がった小説を君にいちばんに読んでもらう。いいか、三年後だ。きっかり三年後── 君は生きていて、必ず俺の小説を読むんだ。約束したぞ!」
上体を起こし、立ち上がった。反射的に、チノパンツのポケットから携帯電話を取り出した。長崎の友人にメールを打った。彼は携帯電話を押し入れの奥にいつも突っ込んでいることを思い出した。それでもメールを打ちつづけた。送信した。
── これからそっちへ行ってもいいか。はなむけの言葉の代わりにお前をぶん殴ってやる。これからそっちへ行くぞ!
携帯電話が震えた。ほとんど送信すると同時に震えた。
彼からだった。たたんだケイタイをまた開いた。読んだ。一年ぶりに、小さくだが声を出して笑えた。目に涙がたまっていたらしく、笑った拍子に頬をつたったのが分かった。
彼の返事も短かった。ひとことだけが打たれていた。ただひとことだけ、
── YES、と。