カルマの法則1――アンマ
人生・魂を救済するガヤトリー・マントラ
世界の困難
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多次元世界である霊界は、地上において矛盾するものが矛盾なく成り立つ、無限と思われるほどの多様で広大な世界であり、とても人間の小さな脳で完全に理解できるものではありません。なので、幻視者たちが語る内容は、ときに、それぞれ相違が見られる場合がありますが、それはそのような理由からであり、全てが真実とは限りませんが、単なるでたらめということではないのでしょう。また、霊界は精神がそのまま現象化する世界なので、キリスト教徒であればイエスが出てきたりと、幻視者が信仰していた宗教が色濃く反映しているように思われます。しかし、どの方もが語る真実の幻視は、基本的なところでは皆共通しています。それは生前の行いがそのまま死後の境遇に反映される点です。
これらの幻視者たちの記録は、私たちがどのように人生を歩むべきなのか、どのように生きることが真の幸せに繋がるのか、この世で真に価値あるものは何か、ということを明確に教えてくれているように思います。
これらの内容を人生においていつも忘れることなく歩んでゆきたい思っています。
(※文中に、一旦地獄に落ちたならば永遠にそこから逃れることはできないと解釈されるような言葉がときどき出てきますが、これは一種の比喩表現なのかもしれません。アラン・カルデックやシルバーバーチ、その他様々な信頼のおける文献を確認するならば、永遠ということは決してなく、神はどんな魂も一人残らず、神に帰融するのを辛抱強く待ち続けてくださっていることを確認することができます。)
「死後の世界(林 陽 著)」より一部抜粋
スンダル・シン(管理人注:サンダー・シング)は1889年に北西インドのランプルに生まれたシーク教徒です。幼少から宗教的天分が認められ、9歳で聖典ギーターをそらんじ、ベーダ、ウパニシャッド、仏典、クラーンを読破、思春期までに2人の先達に付いてヨガと瞑想もマスターしました。彼は非常に愛国心が強く、インドを力で支配するイギリスに激しい憎悪を燃やして、宣教師に投石し、聖書を燃やす運動を率いるほどの過激な民族主義者でもありました。
しかし、13歳で霊的な危機に陥ります。最愛の母と兄に先立たれたことから、死について深刻な疑問を持ち始め、 死後の真実を知りたいと願うようになったのです。学者や僧は彼に納得できる説明を与えられません。死ねば二度と愛する人と再会できないのかという切実な思いは、神から直接答えを得たいという願いに変わります。13歳の冬のある晩に、彼はこの問題に決着をつけることにしました。終夜祈って神と出会えなければ、自殺して自分の目で確かめようと決意するのです。
彼は水をかぶり、インドの神仏に祈り始めました。40分、50分と何事もなく経過し、死を思い始めたときです。突然、部屋が真昼のように明るくなりました。初めは火事かと思いましたが、神々しい姿が室内に立っているのを見て驚きます。インドの神クリシュナかと思い、ひれ伏した刹那、声が聞こえてきました。
「あなたはいつまで私を迫害するのか。私はあなたのために死んだのだ」
目を上げると、金色の光輪の上に浮かぶその人の両手両足には、釘を貫いた傷跡があり、そこから光が放射しています。それは彼が予想していたヒンズー教の神でなく、今まで憎悪してきたキリストでした。
この予想外の出来事を機に、シンの人生は一変します。イエスの教えに、言葉どおり従うことを決めたのです。この13歳の勇敢な少年は、財布を持たず、毛布一枚と聖書一冊だけもって、サドゥー(托鉢僧)の姿で、裸足行脚することを決意しました。
家族は将来を約束されていた息子が発狂したと考え、あらゆる方法で説得しますが、少年の決意は変わりません。彼はついに勘当され、伯母は手作りの毒弁当を渡して、笑顔で送り出しました。インドの高いカーストでは、「宗教的恥よりも死」が伝統だったのです。
スンダル・シンは、毒入り弁当を食べて死にかけますが、奇跡的に復活し、もっとも険しいチベットへの伝導に旅立ちます。その間、生死を分ける多くの危機に遭遇しますが、天の奇跡的な介入によって命を救われました。やがて、彼の活躍は海外にも知れ渡り、世界各国に招かれて講演するようになります。聖書時代から抜け出したような雰囲気と、イエスのような神的権威を持つ説教は、上は王侯貴族まで西洋の宗教者に深い感化を与えました。シンはキリストに倣い、40日の断食をヒマラヤ山中で行ってから、脱魂に入る機会が多くなり、天国と地獄を含む死後世界を見聞した記録を晩年に本にしています。彼の著書 ”Vision of Spiritual World” (霊世界の幻)をご紹介します。
霊世界の幻 ――スンダル・シン――
序文
本書では神から示された幻の一部を書くよう試みた。自分の性格からは生前にこの種の幻を本にはできなかったと思う。だが、霊的な助けになるので、一日も遅らせてはならないというのが愛する友の一致した意見だった。彼らの気持ちを尊び、本書を世に送る。
14年前に、コトガルでひとり祈っていたときに、私は天上の幻に目を開かれた。「死んで霊が天の栄光に移された」と思えるほど、すべてを鮮明に見た。それ以後、幻が私の人生をいっそう豊かにしてくれた。
私は自由に幻を呼び起こせるわけではない。多くて月に8回から10回、祈りか瞑想のうちに霊眼が開かれ、天の内を見て、一時間から二時間、天の栄光の中をキリストとともに歩き、天使と聖徒と対話する。彼らの答が私の著作の原資料になっている。私はこの霊的交わりのもたらす名状しがたい至福感によってあがなわれた霊と、永久に交われる日を、切に望むようになった。
幻と心霊術を混同する人もいると思うが、そこには根本的な違いがある。心霊術は”闇の霊から情報としるしを得る行為”である。それがかりに詐術でなくても、情報は理解不能なほど断片的であり、人を真理に近づけるより遠ざけるのが普通である。だが、幻においては、霊界の栄光は隅々まで鮮やかに映じ、想像を絶する霊界の美と輝きの中で、聖なるものたちと現に交わる至高体験をする。天使と聖徒から得る情報は、断片的なあいまいなものではなく、積年の問題の多くに合理的説明を施すものだった。
「聖徒の交わり」は、使徒信条にも明記されるほど、初代教会では現実的な経験であった。ある幻において、その聖書的根拠を問うたとき、ゼカリア書(37-8)に明記されているとの答えを得た。「立っている者たち」とは、天使でも血肉の人間でもなく、栄化された聖徒である。「ヨシュアが神の命令を守れば、立っている者たちの間で宮に出入りする」とも約束されている。彼らはヨシュアの「同僚」と書かれている。それは完成された人間の霊なのである。
本書にたびたび登場する霊、聖徒、天使は、次のように区別できる。「霊」は、善いものも悪いものもあり、死後に天と地獄の中間状態に留まる。「聖徒」は、中間状態を超えて霊界の高きに入り、特別な努めを授かった人々。「天使」は、あらゆる努めを授かった、さらに高く輝かしい存在である。彼らは、地球だけでなく、宇宙間の諸世界からも訪れる多くの聖徒とともに、一大家族を営み、愛の中で仕え、神の栄光の中で永遠の至福に浸っている。
また、「霊の世界」は肉体を離れた霊が入る中間状態である。「霊界」は、底なき穴の暗闇と光の中にある神の座との間を進む、霊的存在の全員、全体を意味している。
1926年7月 スバツで スンダル・シン
生と死
唯一の命の源、限りなき全能の命がある。その創造力が万物に命を与えた。万物はそのうちに生き、永久にとどまる。この命の源が、進化の段階を異にする、無数の命を創造した。人は神の聖なる臨在の中でいつまでも幸せを楽しめるように、神自身の姿に創造された(創世記1-26)。
命は変化しても滅ぼせない。死とは存在の形が変わることに過ぎず、命の消滅も、追加も、削除も、意味しない。それは異なる存在の形へ命を移すことに過ぎない。何かが見えなくなっても、それは存在をやめたのではなく、別な形と状態に再現されるのである。
この宇宙で、過去に滅ぼされたものは何一つなく、今後もない。創造主は滅ぼすために創造されないからである。滅ぼす意志があれば初めから創造されなかった。被造物が滅びないとすれば、神の姿に造られた創造の冠たる人間が、なぜ滅びるだろうか。神は神の形を滅ぼせようか。他の被造物に人を滅ぼせようか。否、決して滅ぼせないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次の問いが起きてくる。
「人は死後、どこに行き、どのような状態になるのか」
私は自らの幻視体験から説明を試みよう。とはいえ、幻に見たすべてを書くのは不可能である。世の言語は霊的実在を表現するにはふさわしくない。幻に見た栄光をこの世の言語に表現すれば、誤解を招きかねない。それで、霊的言語でしか説きえない精妙なる霊的事情は省略し、誰にも益する、教訓に富む簡単な出来事だけをとり上げよう。いつか誰もが見えざる霊界に入るので、それについてある程度親しんでおくのは無駄ではないと思う。
死の瞬間
ひとり祈っていたある日、突如、私は霊的存在の群れに囲まれているのを見た。霊眼が開かれるや、天使と聖徒の群れの前にひれ伏す自分を見たと表現してもよい。その栄光に包まれた姿と、不完全な自分とを見比べて、初めは恥ずかしく思い、身動きできずにいた。だが、まことの慈愛に満ちた彼らのやさしさが、私の気持ちをすぐに楽にした。すでに神の臨在から来る、名状しがたい平和は経験していたが、聖徒の交わりにより、大いなる歓喜が新たに起きてきた。
話を交わすうちに、これまで自分を悩まし続けてきた多くの問題への答を得た。私が最初に質問したのは、死の瞬間と死後の霊魂の状態についてである。
「人は誕生から死まではわかっても、死ぬ瞬間とその後のことはわかりません。死んで霊界に入った者にしか真実はわかりません。この問題について教えていただきたいのです」
ある聖徒が答えた。
「死は眠りに似ている。一部の体の病、心の病を除いて、人は苦痛を伴わずに他界する。死と呼ばれる眠りが来るのは、人が疲れて深い眠りに落ちるのにも似ている。多くの人は、不意に死を経験するので、自分が物質界を離れ、霊の世界(中間状態)に入ったことが、なかなかわからない。あまりに新しく、美しいものばかりが見えることに驚き、一度も訪れたことのないこの世のどこかの国か町に来ていると考える。より完全な教えを受け、霊体が肉体とは異なると知ってはじめて、霊の世界に移ったことを知る」
もう一人の聖徒が話し続けた。
「普通は、死ぬ瞬間に、体の感覚が徐々に失われる。苦しまず、ただ眠気に襲われる。体がかなり衰弱しているか、事故の直後に、無意識に霊魂が離脱することもある。霊の世界に入ることを考えず、不用意に生きてきた人は、霊の世界に突如移されると、非常に怯え、自分の運命を深く悩むために、かなりの期間、中間世界の暗い下層に留まらなくてはならなくなる。このような下層の霊がしばしば地上の人間を苦しめる。だが、彼らに傷つけられるのは、進んで心を開け渡す、似たものだけである。神がその民と他の被造物を守るために、無数の天使を各地に配置してくださらなければ、これらの邪悪な霊は、他の霊と一緒になって、物質界に大変な害を及ぼすであろう。神の民は主の守りにあずかっているので、いつも安全である。悪魔は、似たものしか害せないため、行動範囲が自ずと制限される。義者を苦しめることも確かにあるが、神の許しがなければかなわない。神がその民を誘惑し、迫害するよう、悪魔とその使いに許されることもある。だが、それは悪魔が僕(しもべ)ヨブを迫害するのを許されたときと同じく、彼らが試練を通して、より強く、善なる者とされるためである。信仰者は試練を通して損失よりも益を受ける」
傍らにいたもう一人の聖徒が話し続けた。
「神の存在を信じずに生きてきた多くの者は、無意識状態にあるようにも見えるが、群がる悪霊の醜く残忍な顔をみて、恐怖のあまり声も出ず、麻痺しているというのが事実である、信仰者の臨終はしばしば反対の形を取る。彼らは、天使と聖なる霊が迎えにくるのを見るので、非常な幸福感に包まれる。他界した肉親の霊も参列して霊の世界へ導くのが許されている。霊の世界に入ると、彼らはすぐに安心感を覚える。友がいるからだけではない。地上にいる間、神を仰ぎ、神と交わることを通して、故郷(ふるさと)に戻る準備をしてきたからである」
四人目の聖徒が口を開いた。
「物質界から民の霊を導くのが天使の努めである。普通、キリストは、霊の成長の度合いに応じて、栄光の度を変えながら、各自にお現れになる。だが、自ら臨終の床に僕を迎え、彼の涙を愛で乾かし、天に導かれることもある。世に誕生する赤子が必要なものすべてが供えられているのを見るように、霊の世界に入る霊魂も願うものすべてが備えられているのを知る」
霊の世界
ある対話で聖徒からこのような話を聞いた。
「どんな人の霊も、死後にまず霊の世界(中間世界)に入り、闇の中であれ、光の中であれ、その霊的成長に応じて、似た心と性質の霊と共に過ごす。栄光の体へ成長した、キリストと、二、三人を除いては、物質界の肉体のまま霊界に入った者はいない。とはいえ、コリント人への手紙二、第十二章二節にあるように、世にいながら霊の世界と天を見る者も確かにいる。それでも、体においてパラダイスに入ったのか、霊において入ったのか自覚しない」
このように言うと、聖徒らは私を方々に案内し、多くの驚くべき事柄と場所を見せた。
私は数知れぬ霊魂が、あらゆる方向から、絶えず霊の世界に到着するのを見た。誰にも天使が寄り添っている。善人の霊に寄り添っているのは死の床から導いてきた天使と善霊だけである。悪霊は近づくのを許されず遠くから眺めているだけである。根っからの悪人の霊には善霊が一人も寄り添っていなかった。彼らに付いているのは死の床から付いてきた悪霊だけである。だが、悪霊に思う存分苦しめられることがないように、天使も寄り添っている。悪霊は霊の世界に着くと同時に彼らを闇に連れ去った。彼らは地上界で絶えず悪霊に身を任せ、悪へ動かされ、あらゆる悪事にふけっていたからである。天使は誰の自由意志にも決して干渉しない。
私はまた、霊の世界に着いたばかりの霊魂も多く見た。彼らには善霊と悪霊と天使が付いていたが、まもなく、築き上げた人生の違いが自ずと明らかになり、善い性格の者は善、悪い性格の者は悪へ分けられた。
光の子
霊の世界に着くと、善人は直ちに悪人から離れる。世ではすべてが混在しているが霊界では異なる。霊の世界に入ると、善霊すなわち光の子は、まず澄んだ海水にも見える微細な大気に浴し、力強い生き生きとした新生を経験する。この奇跡の水の中で大気中にいるかのように自由に動き回る。彼らは水に沈んでも溺れない。水に濡れることなく、驚くべき仕方で洗われ、一新され、完全に清められる。こうして、彼らは栄光の世界に入り、愛する主の臨在と無数の聖徒と天使の交わりの中に永遠に留まるのである。
闇の子
悪しき生を送った霊のなんと異なることか。彼らは光の子らに不安を覚え、すべてを映し出す栄光に苦しみ、罪深い不潔な性質が見られない場所へと自らを追い立てる。霊界の暗い最下層からは、異臭の漂う黒煙が立ち上っている。光から身を隠そうと闇の子らが飛び込むその場所からは、自責の念と苦しい悲鳴が絶えず立ち昇っている。だが、特別な理由によって、闇の霊の状態を見なければならないとき以外、天の霊には煙も見えず、苦しい叫びも聞こえないようにされている。
子供の死
ある子供が肺炎で死んだとき、天使の群れが来て、子供の霊を霊界に導いた。私はそれが母にも見えればどんなによいかと願わずにいられなかった。そうすれば、嘆く代わりに喜びの声を上げたはずである。天使は、地上のどんな母にも真似できぬ愛と配慮をもって、小さきものを扱うからである。
ある天使がもう一人に話しかけた。
「ごらん。この子の母は一時の別れを悲しんでいる。二、三年でまた幸せに過ごせるのに」
そして、子供たちのために用意されている美しい光に満ちた天の一角へと、子の霊を導いた。ここで、天使に似た者とされるまで、知恵を尽くして子供の世話と教育に当たるのである。
やがて、母が死ぬと、天使と似た者になっていた子は、天使を連れて母を迎えに来た。「お母さん、私がわかりますか。息子のテオドールです」と子が声をかけると、母は喜びに胸を震わせた。ふたりが抱擁し合うと、喜びの涙が花のようにこぼれ落ちた。それは胸を打たずにはおかぬ光景だった。子は周りの景色を指差し、説明しながら共に歩き、中間状態で彼女の教科に定められたときが満ちるまで共にいた。時が満ちると、自分の住む高い天へと母を導いた。
そこは、見渡す限りすばらしい、楽しい場所で、無数の霊魂が住んでいた。彼らは地上であらゆる苦難を耐え忍び、ついにこの輝かしく、誉れ高い場所へ上げられたのである。他に類を見ない麗しい山々、泉、景観がどこまでも広がり、園はあらゆる種類の芳しい果物と美しい花にあふれていた。心の願うすべてがそこにあった。
子は言った。
「現世はこの真実の世界をかすかに映すに過ぎません。私たちを嘆き悲しむ人がそこにいます。でも、これが死ですか、誰もが憧れる真実の生ですか」
母は答えた。
「これこそ真実の生です。私が天国について真実を知っていれば、あなたの死を嘆かなかったでしょう。地上の人々があまりに知らないのが悲しくなります。主は、この栄光の世界についてあれほどはっきり説かれ、福音書にも、とこしえの神の国について繰り返し書かれているのに、多くの光を与えられた信徒さえその栄光に気づかないのです。この世界の永遠の喜びに誰もが浸れるよう、神がお許しになりますように」
ある哲学者の死
ドイツの哲学者が霊の世界に入り、例えようのない栄光と、霊たちの終わりなき歓びを遠くから眺めた。彼はこの光景を楽しんだが、頑固な知識主義が、そこに入って楽しむのを妨げた。彼はそれを現実と認めずに、自問自答し始めた。
「この光景を見ているのは本当だ。だが、それが客観的事実で、自分の妄想でないという証拠はどこにもない。倫理学と哲学と科学で一つ残らず解釈してみよう。幻ではなく現実だと確信するのはそれからだ」
天使が答えた。
「知識主義があなたの性格全体を歪めています。それは今の言葉からも明らかです。霊界を見るには肉眼ならぬ霊眼が必要なように、霊界の実在を理解するにも、倫理哲学のような初歩の知識作業ではなく、霊的理解が必要なのです。あなたは物質的なことがらを扱う科学を脳と頭蓋骨ともども現世に置いてきた。ここでは、神を畏れ愛することからくる、霊的知恵しか役に立ちません」
もう一人の天使が他の天使に言った。
「悔い改めて子供のようにならない限り、誰も天に入れないという主の言葉が忘れられているのは、何と嘆かわしいことでしょう」
彼の運命をたずねると、天使は答えた。
「彼の人生がすべて悪いものだったら、すぐにも闇の霊と一緒になっている。だが、彼には倫理観がなかったわけではない。それで、非常に長い期間、中間状態下層の薄暗がりをさまよい、あの哲学の頭をぶつけ続け、愚かさに疲れていつか悔い改めるときがくる。こうして、教える役目を授かった天使から、必要な教えを受ける用意が整う。教えを受ければ、より高い層の”神の光”に入れるようになるであろう」
ある意味で、霊なる神の臨在にあふれる無限宇宙空間全体が霊界である。地上の民は人体を着た霊であるから、その意味では、現世も霊界である。
だが、霊界には別の領域もある。それは死んで体を離れた霊が一時留まる中間状態、最高天の栄光と最下層の地獄の闇との中間に位置する状態である。そこには無数の存在の階層があり、霊魂は現世での成長にかなった層へ導かれる。ここにおいて、似た性質と心の霊――大きな光の中にいる善霊か大きな闇の中にいる悪霊――の社会に加わる前に、特別な役割の天使たちから、しばらく――長くも短くもある――教えを受ける。
天の助け
私たちを助け守るために、肉親、親友、ときに聖徒も、見えざる世界から訪れるが、常に訪れるのは天使である。だが、特別な場合を除いて、目に見える姿を取るのは許されていない。彼らは、それと知られずに聖なる思いを刺激し、神へ、善行へと人を誘い、精霊は、私たちの胸に宿って、独力では為しえなかった霊の命を全うする仕事を助ける。
人の真価は知識や地位によるのではない。それだけでは無価値である。人は他に役立つときこそ真に価値がある。人生が他に役立つかどうかは他への奉仕にかかっている。無条件の愛の中で、他に仕えれば仕えるほど、ますます人は優れた者となる。
「尊ばれたい者はすべてに仕える者となれ」(マタイによる福音書20-26)と主も言われた。愛において仕え合うことこそ天の住民の歓びである。こうして、彼らは人生の目標を全うし、永遠に神の臨在に留まる。
人は、神に一致した人生を送ろうと切に願うときに、考えを改め、生き方を一新し始め、神の聖霊から直接教えを受けるだけでなく、心の密室に開かれる諸聖徒との交わりに助けられる。諸聖徒は、目に見えずとも、善へ向かう手助けをしようと、常にそばにいてくださる。
だが、キリスト教の真理探究者で、真理についての誤った部分的な思いを抱いたまま、死ぬ者が少なくない。おのれの見解、自我に固執せず、すすんで学び、上を目指す気持ちさえあれば、彼らの考え方は霊界において正される。この世でも、かの世でも、神もいかなる天使も、人の意思に反してまで、信じさせようとはなさらないからである。
神の出現
ある幻において、偶像教徒の霊魂が霊界に入り、神を探し始めるのを私は見た。聖徒たちは「まことの神とその顕現なるキリスト以外神はおられません」と彼に言った(管理人注:これはこの偶像教徒に特化した言葉であり、もちろんブッダやクリシュナなどを信じてもいいと思います)。男は非常に驚いたが、生来まじめな求道者(ぐどうしゃ)だったので、自分の誤りを率直に認め、正しい真理の見方を知りたいと切に求め、キリストに会えるかどうか質問した。
まもなく、キリストは、薄い光の中で、霊界に着いたばかりの霊たちに御姿を示された。この段階では、彼らは主の完全なる光に耐えられない。光はあまりに強いため、天使でさえ主を仰ぐに難を覚え、翼で顔を隠す(イザヤ書6-2)ほどである。主は霊魂の成長段階を配慮し、うっすらと、あるいはやや光度を強めて、耐えられる程度の光の中で御姿をお示しなる。
霊たちは、弱くとも魅力的な光の中にキリストを見て、言いようのない歓喜と平和に満たされた。主から絶えず流れ出ては降り注ぐ、命を与える光と愛の波に浴し、すべての誤りから清められた。そして、心から主を真理と認め、主に癒しを見出し、ひれ伏して感謝と賛美を捧げた。教育係の聖徒もそれを見て喜んだ。
労働者と懐疑主義者
ある幻の中で労働者が霊の世界に辿り着くのを見た。彼は、着いたとたん、大きな苦悩を覚えた。地上にいたとき、毎日の食費を稼ぐこと以外、何も考えなかったからである。あまりに忙しく、神についても、霊的なことについても、思う暇がもてなかった。彼とほぼ同時刻に、頑固な思想を持つ懐疑主義者が死んだ。二人は霊界のはるか下方、闇の場所に長期間留まるよう命じられた。
二人は苦悩のあまり助けを叫び求めた。憐れみを覚えた聖徒と天使は、栄光に満ちた天に加わる方法を理解できるよう、教えるために出ていった。だが、二人は多くの霊魂と同じく、苦悩しながらも、暗黒の場所に留まるのを好んだ。罪によって性質がすっかり歪み、すべてを疑い、助けに来た天使さえ疑った。私はそれを見て、二人の運命を心配したが、聖徒は「神が憐れみをおかけになるかもしれません」としか言わなかった。
歪みきった性質の醜さがここからもわかる。罪のために歪んだ見方しかできなくなった者は、たとえ嘘でも他の悪評を真実と受け止める。逆に、真実の良き便り、何者かが神の栄光と同胞の善のために最善を尽くしているという報告を受ければ、「すべて間違っている。善行と言いつつ自分のためにしているに違いない」と言う。前者が真実で後者が誤りであるとなぜわかるのか。だが、彼らにたずねても、僅かな証拠さえ示せない。このような心の態度から読み取れるのは、心が悪に染まっているために、悪い性質になじむ悪評は信じ、心になじまぬ良き知らせは信じないということである。善人は正反対の態度をとる。彼らは悪評を疑い、良き知らせを信じる傾向がある。そのような態度が心の善性にかなっているからである。
現世で神の御心に逆らって生きた人は、この世においても、かの世においても、安らぎを得ない。彼らは、霊の世界に入ると、うろたえ、苦しみ始める。一方、この世で神の御心に生きている人は、かの世に入って平和を覚え、言い知れぬ歓喜に包まれる。そここそが、彼らの永遠の家、彼らの父の国である。
天界に入ることを許された悪人の霊
あるとき、悪しき人生を送った男が死に、私の前で霊界に入ってきた。彼は、助けに来た天使と聖徒を罵倒し始めた。
「神はまったく不公平だ。おまえらみたいなご機嫌とりの奴隷のために天を造り、残りはすべて地獄に落とすのか。それでも神を愛と呼ぶのか!」
天使は答えた。
「いかにも神は愛である。神は、いつまでも神との幸せな交わりに生きられるようにと、人を造られた。頑なさと自由意志の乱用により、神から顔を背け、自ら地獄を造り出したのは、人である。神は人を地獄に落とされたことはない。これからもない。人が自ら罪にふけり、地獄をつくるのである。神はいかなる地獄もつくられてはいない」
そのとき、高位の天使の、この上もなく美しい声が上から響いてきた。
「神がその人が天に入ることをお許しになった」
男は二人の天使に伴われ、胸を弾ませて出て行ったが、天の門に至り、聖なる光に包まれた場所と、祝福された神々しい民を見るや否や、居心地が悪くなりだした。
天使は言った。
「この美しい世界をよくご覧なさい。少し前に出て、御座におられる愛すべき主をご覧なさい」
門から中を覗くと、義の御子の光が彼を貫き、罪深い生涯のすべてを明らかにした。とたんに、彼は自己嫌悪に苦しみ始め、中間状態にとどまりもせずに、大急ぎでそこを突き抜け、底なし穴に身を投げた。そのとき、甘美なる主の御声が聞こえてきた。
「愛する子らよ、見なさい。誰もここへ来るのを禁じられていない。彼を禁じ、立ち退くよう命じた者もいない。自らの不潔な生が、この聖なる場所から、無理やり彼を去らせたのである。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない(ヨハネによる福音書3-3)」
殺人者の霊
数年前に、宣教師を殺害した男が、密林の奥で毒蛇に噛まれて死んだ。彼が霊界に入ると、善霊と悪霊を周りに見たが、どこから見ても彼の霊魂は闇の子を示していたので、すぐに悪霊が彼を捕えて、闇へと引き立てた。
そのとき聖徒の一人が言った。
「彼は、怒りの毒をもって神の人を殺し、蛇の毒に殺された。悪魔なる古き蛇は、彼を用いて罪なき者を殺し、己に似た別の蛇を使い、彼も殺した。初めから殺人者だったからである(ヨハネによる福音書8-44)」
今にも連れ去られようとしたとき、彼を助けに来た善霊たちの中から、「私は心からあなたを許している。今、私にできることはないか」と声をかける者がいた。殺人者は数年前に殺した宣教師であるとすぐに知った。彼が恥辱と恐怖の中で相手の前に倒れるや、悪霊どもが大声で罵倒し始めたが、離れて立っていた天使たちが叱責して、黙らせた。殺人者は宣教師の霊に言った。
「ああ、このような無私の愛に満ちたあなたを現世でも見られたら、どんなに良かったことか。愚かだった。あなたの霊体が体に隠れていたから、あなたの生の美しさがわからなかった。あなたを殺したばかりに、私は他への多くの祝福と善徳を、奪ってしまった。私は神の御前において永遠の罪人だ。たっぷり罰せられて当然だ。暗い穴に隠れる以外ない。この光にはとても耐えられない。ここにいれば、自分が惨めになるばかりか、罪深い生活が皆に見られてしまう」
殉教者は答えた。
「心から悔い改め、神に立ち返るがよい。神の仔羊は、尊い血をもってあなたを清め、地獄の苦しみから解かれて共に天国で過ごせるよう、新しい命を与えてくださる」
殺人者は答えた。
「すべて知られているというのに、今さら罪を告白する必要がどこにありますか。現世では罪を隠せてもここでは隠せない。あなたのような聖徒と共に過ごしたいのは山々だが、自分が知られてしまう霊界の光に、わずかでも耐えられないのに、あんな貫き通す栄光に満ちた場所の、どこにいればよいというのですか。罪によって私の良心はすっかり麻痺し、硬くなり、神にも悔い改めにも向かわなくなっている。もはや、悔い改める力さえない。ここから永久に追われる以外、なすすべがいのだ。何とつらいことよ!」
彼は、そう言うと、恐怖に凍り付いて倒れ、悪霊によって闇の中へ引き摺られていった。
そのとき、天使の一人が言った。
「見よ。ここでは、刑の宣告をする必要がない。罪に定めるのはほかならぬ罪人の生である。宣告の必要も証人を立てる必要もない。処罰は、ある程度まで、現世にいる罪人の心に始まる。だが、ここではその完全な結果を見る。ここでは、羊と山羊、義人と罪人が自然に分かれるよう神は定めておられる。神は光の中に生きるよう人を創造された。人の霊的健康と歓びは光の中でこそ不滅とされる。地獄の闇の中で幸せになれる者はいない。罪に覆われたまま光の中で幸せになれる者もいない。罪人はどこに行っても地獄を見る。逆に、罪から解放された義人は、どこにおいても天国を見る」
続きます
嘘つきの霊
嘘が第二の天性になるほどの大嘘つきがいた。死んで霊界に入り、ふたたび嘘をつこうとしたが、話す前から思いを知られて大恥をかいた。霊界ではすべての思いが明るみに出るので、偽れる者は一人もいない。霊体は体を離れても罪の記録を持ち運ぶ。天の光の中に丸裸で立てば、すべての者に罪を見られるばかりか、仲間も罪を証しする。罪の汚れを消せるのはキリストの血だけである。
男は、真を偽とし偽を真とするを常としていたが、肉体を失ってからは決して真理を偽れないと知った。欺く者はほかならぬ自分を欺き、傷つける。彼は、嘘により、一度は持っていた真理の内的知覚を殺したのである。私は彼が自らの虚偽に呪縛され、降り注ぐ天の光に顔をそむけ、似た性格の霊にしかおのれの偽りの愛を見られない、暗闇の底へと、大急ぎで転落するのを見た。
真理は永久不変である。真理だけが彼の偽りを判し、嘘吐きと宣告したのである。
泥棒の霊
ある泥棒が死んで霊の世界に入った。初めは、自分の有様にも、周囲の霊にも興味を示さなかったが、前の習慣に従って、大切なものを盗もうとした。だが、霊の世界では、物さえ言葉を発して恥ずべき行為を責めるように思えて、非常に驚いた。彼は性格が非常に歪みすぎていて、物の善用を知らず、善用する資格がなかった。欲望を制することができず、ささいなことに怒り、不愉快な者を次々に殺傷した。そして、霊の世界に入った今も、同じ行為に出ようとして、狂犬が主人に襲いかかるように、教えるためにきた霊を引き裂こうと身構えた。
それを見ていた天使が言った。
「この種の霊は、底なき穴の闇に繋いでおかないと、方々に災いを呼ぶ。良心はすっかり死に、霊の世界に入っても、自分が殺人や盗みによって霊的な富を浪費し、霊の識別と命を殺したことさえ知らずにいる。彼は他人を滅ぼしたが、実は自分を滅ぼした。彼と仲間の受ける責めが幾時代もかかるか、永遠にわたる(管理人注:記事トップ※参照)かは、神のみぞ知る」
すると、その役の天使が彼を捕えて、出てこれない闇の中に閉じ込めた。闇の霊の状態は非常に恐ろしい。責め苦は言葉に表せず、見るだけでも震えが起きる。この世の言葉には限りがあるので、罪びとの霊魂はどこにあっても、どんな方法をとろうとも、絶えず苦しみ続けるとしか表現できない。彼らは光なき火のようなものにいつまでも焼かれ苦しむ。それでも、焼き尽くされず、火も消えない。「これがいつか清めの火になるのだろうか」とこの出来事を見ていた霊が言った。
地獄と呼ばれる霊世界の暗部にも多くの層があり、罪の性質により霊が苦しむ場所も異なる。神はすべての者を見えざる神の形、御子にかたどられたが、人は罪と結びつき、この姿を醜悪なものに変えた。霊体のようなものがあるとはいえ、吐き気を催すほど恐ろしい姿である。悔い改めと神の恵みによって回復されなければ、この姿の中で永遠に苦しむほかない。
義人の行末
天すなわち神の国は、この世での信仰者の生き方に始まる。迫害や苦難を受けようと、平和と命の源なる神が内におられるので、彼らは常に平和と歓びに満ちている。死は死ではなく永遠の家への入口である。神の国への新生を経験しているので、体を離れる日は死の日ではなく、霊界への誕生日になると言ってもよい。その無上の喜びは次の例が物語る。
ある天使が三十年間心から主に仕えたまことのキリスト者の死に様を話してくれた。主は、死ぬ二、三分前に、彼の霊眼を開き、体を離れる前に霊界を一瞥して、周りの者に話せるようにしてくれた。天の門が開かれ、天使と聖徒の群れが迎え出て、入り口では、主が両手を大きく開いてお待ちになっていた。彼はそれを見て、付き添いが驚くほどの歓声を上げた。
「嬉しい!主に会える日を待ち焦がれていた。見よ、愛に照り輝く主の御顔を、出迎える天使の群れを。何と神々しい場所。真のふるさとに旅立つのです。悲しまずに喜びなさい」
「意識が朦朧としているようです」と付き人の一人が小声で話した。それを聴いて彼は言った。
「いいえ。意識ははっきりしている。この素晴らしい光景が見えませんか。あなたの目が覆われているのは残念です。これでお別れです。次の世で再会しましょう」
彼は両まぶたを閉じて、「主よ、魂を御手に委ねます」の言葉とともに永眠した。
さて、体を離れ、天使に抱かれて天に向かおうとすると、少し待ってくれるように彼は願い出た。動かなくなった遺体と肉親らを見て、彼は天使に言った。
「自分の体と人々をこうして見られるとは知りませんでした。彼らにも私を見せてあげたい。そうすれば、私が死んでいないことがわかり、あんなに泣かずに済むでしょう」
彼は自分の霊体が実に微細で、荒い肉体とはまったく異なるのを知った。次に、冷たくなった遺骸に泣きつき、接吻し続ける妻子の行為を止めさせようとした。微細な霊の手を広げ、説明しながら、遺体から優しく遠ざけようとした。だが、妻子には彼が見えず、声も聞こえない。子供を押そうとすると、手が空気のように体をすり抜けたが、子供は気づかなかった。
天使の一人が言った。
「来なさい。永遠の住まいに参りましょう。彼らの姿に悲しんではなりません。主ご自身と私たちもまた彼らを慰めましょう。たった二、三日の別れです」
彼らは天使と共に旅立った。少し行くと他の天使の群れが大歓声の中で加わり、他界した友人、身内も会いにきた。歓びはますます募った。天の門にくると、天使と聖徒は無言で脇に寄った。入口でキリストに出会い、すぐにひれ伏すと、主は彼を抱き起こし、「よい忠実なしもべよ、神の歓びに入りなさい」と祝福の声をかけられた。その喜びはとうてい言葉に表せるものではない。
主は、とめどもなく流れる彼の涙を優しく拭い、「はじから彼に用意されていた、あの一番輝く住まいに連れていきなさい」と天使に命じた。彼は、主に背を向けるのを無礼に思い、なかなか離れなかったが、家を見て、どこででも主の御姿を拝せることを知って驚いた。主はどこにでもおられ、天使と聖徒はどこにいても御姿を仰ぐ。どこを見ても喜びを満たすものがある。低い者はうらやまずに高い者に会い、高い者は低い兄弟姉妹に喜び仕えている。これこそ神の国、愛の国である。
天はあらゆる甘い果実と芳しい花が枯れずに育つ麗しい園に満ちている。そこではすべての生き物と美しい色の鳥が神を讃えている。天使と聖徒は聞くだけで恍惚となる甘美な歌声を上げている。どこを見ても尽くしがたい喜びに満ちている。神を愛する者たちに備えられた楽園がここにある。死の影も、誤りも、罪も、苦しみもなく、永遠の平和と喜びだけがそこにある。
神の人がはるか遠くから住まいを観察するのを私は見た。天ではすべてが霊的である。霊眼は間にあるものを貫き遠大な距離を見通せる。無限空間のすべてに神の愛が表現され、万物は終わりなき喜びの中で、神への賛美と感謝の声を上げている。天使に伴われ、割り当ての住まいに着くと、「歓迎」という言葉が光る文字で刻まれているのを見た。文字からも「歓迎」の言葉が何度も聞こえてくる。彼は、家に入ると、キリストの面前にいるのを知って感極まった。
「主にお別れをして、命じられるままにここに来たのに、共に住んでくださるのですか!」
家には想像できる限りのものがあり、誰もがすすんで彼に仕えた。近くの家では、似た心の聖徒たちが、幸せな交わりの中で共に過ごしていた。この天の家こそ、世のはじめから聖徒のために備えられてきた王国(マタイによる福音書25-34)、キリストに真に従った人を待つ、輝きしき未来である。
天の生活
誰もが他の生をありのままに見るので、天に住める偽善者はいない。キリストから来るすべてを照らす栄光により、悪者は自責の念に駆られて逃げ出し、義人は栄光の父の国に住まう至福に浸る。彼らの善は誰の前にも明らかでやむことがない。成長を阻むものはなく、支え促すものだけがある。義人の浸った善の度は全身から放たれる輝きからわかる。虹のように輝きを変える栄光がその性質を物語る。天には嫉妬は存在しない。誰もが他の霊的高さと栄光を喜び、おのれにかまけることなく、常に他に仕えることを喜びとする。無数の賜物と祝福は天の万人が等しく使うためにある。所有を願う者は一人もいない。誰にとっても十分なものがそこにある。
神の愛は最高天で座につく主の人性にも認められる。義の太陽、世の光なる方から、癒しと命の光、愛と光の波が、宇宙の果てまで押し寄せ、すべての聖徒と天使を貫き、触れるすべてに新鮮な命を与えている。天には東西南北はなく、すべての者が主の御座を万物の中心に見る。
あらゆる甘美なる果実と霊の糧がそこにある。食べれば、えもいわれぬ香りと喜びを経験し、消化すれば全身から芳香が立ち昇り、あたりを香らせる。すべての民の心と願いが神において満たされている。すべての生き物に神の御心が実現されている。誰もが、どんな状態のもとでも、無上の喜びを経験する。このように、永遠の歓びと祝福が義人の結末である。
神を仰ぎ見る
私はたずねた。
「最高天に住まう聖徒と御使いは絶えず神の御顔を拝しているのですか。とすれば、神はどんなお姿をしていますか」
天使の一人が答えた。
「海が水に溢れているように、全天は神に溢れているため、天の万民はどこにいても神の臨在を感じる。大海に飛び込めば周りがすべて水であるように、天における神の臨在もそうである。大海に無数の生物が住むように、限りなき神の臨在の中にすべてのものが生きている。神は無限者にましますため、神の子らはキリストの形でしか神を見られない。『私を見る者は父を見る』(ヨハネによる福音書14-9)と主自ら言われてる。霊世界では個人の霊的成長が神を知覚する目安になる。主は各自の霊的光と理解に応じて神々しい姿を示される。高き世界の住民に向かうのと同じ威光をもって霊界の闇の住民に臨めば、彼らは耐えられない。それで、主は、各自の霊的成長と理解に応じて、その栄光を加減される」
他の聖徒が付け足した。
「天では確かに神の臨在を感じ、楽しめるとはいえ、それは言葉で表せるものではありません。砂糖の甘みが舌で味わえても言葉に尽くせぬように、天の誰もが神の臨在を喜び、霊界の誰もが神体験の現実を知っているため、言葉で補う必要がないのです」
人の運命
また、私はたずねた。
「神が万物を完全無欠な状態に造ってくだされば、人は罪を犯さず、世界にこれほどの悲劇も起こらなかったのではないでしょうか。しかし、今や、被造物は儚(はかな)いものになり果て、私たちはあらゆる苦しみを受けています」
最高天から降りてきた高い地位の天使が答えた。
「神は人を自動機械に造られず、軌道を動かぬ星のように運命を定めてもおられない。神は人をその御姿にかたどり、理解と決断と独自の行動力を持つ、自由行為者に造られた。どんな被造物より優る理由がそこにある。自由行為者に造られなければ、神の臨在を楽しみ、天の喜びを共にできず、無自覚に動く機械、無限空間を漂う星のようになってしまう。自由行為者としての人は、このような魂なき完全さとはそぐわない。それこそ不完全の極みではないか。決められた行為を無理強いされる完全なる奴隷と変わらない。自ら選ばぬところに何の喜びがあろうか。彼らにとっては神も石も変わりない」
人と被造物は虚無に服しているとはいえ、それがいつまでも続くわけではない。人は従順を捨てて被造物全体を災いに満ちた虚無に追い込んだ。だが、このような霊の戦場においてしか、人はその霊力を完全に発揮できず、完成に要する教化(きょうけ)も学び取れないのである。それゆえ、天における完成状態に至った暁には、この世の苦しみと戦いを神に感謝することであろう。神を愛する者にとって、すべてが良かったことが、そのときはっきりわかる(ローマ信徒への手紙8-28)。
アラン・カルデックによるカルマの法則「天国と地獄」
J・S・Mワードによる「陸軍士官の地獄めぐり」
エドガー・ケイシーによるカルマの法則「転生の秘密」 (一例〇)
カルマの法則――サティヤ・サイババ
カルマの法則1――アンマ
カルマの法則2――アンマ
カルマを軽減させるガヤトリー・マントラ
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Re:無題
ちょっと留守にしていたのでコメントが遅くなりすみませんでした。
うる覚えですが、以前黒魔術をして他人を苦しめていた人が、同じようにイエスの声を聞き、その後改心して神の道を歩もうとするのを脅迫して妨害してくる悪霊に立ち向かい、イエスの名において退散させたりした動画を思い出しました。
最初それかな?と思ったのですが、こちらは無神論者だった大学教授なのですね。
ゆっくり観てみたいと思います。
教えていただき、どうも有難うございましたm(_ _)m
クルト
2016-04-18 01:02:03
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