煉獄 2

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マリア・シンマとのインタビュー
「煉獄にいる霊魂の驚くべき秘訣(シスター・エマヌエル著 いつくしみセンター発行)」 より一部転載




マリア・シンマは、1915年2月2日、貧しい小作農の両親の元、8人兄弟の二番目として、オーストリア・ゾンターク村に生まれました。7歳の頃から、修道生活への招命を感じていましたが、体が弱かったため、その願いは叶えられませんでした。彼女は未婚信徒として、家事や裁縫、農場関連の仕事、近所の子供たちの世話などをして暮らすこととなりました。

1940年に初めて煉極の魂の訪問を受けて以来、たくさんの霊魂が彼女のもとを訪れて、祈りや助けを願いました。世に知られるようになると、世界中から数え切れない霊的助言を求める手紙が届くようになり、毎日何時間も返信をしたためたり、求めに応じて祈りを捧げたりしなければなりませんでした。祈りや犠牲、ミサ依頼を通して煉極の霊魂の願いにこたえ続けるだけでなく、助言を求める世界中の人びとのために生涯を捧げたのです。

生涯ゾンターク村で慎ましく暮らしたマリアは、2004年3月16日、永遠の安息へと入りました。89歳でした。



マリア・シンマとのインタビュー


マリア、初めて煉極の霊魂の訪問を受けた時はどのように感じましたか。話してくださいませんか。

はい。1940年のある夜3時か4時頃でした。わたしの部屋へ誰かが入ってくるような音が聞こえました。いったい誰がわたしの部屋へ忍び込むことができたのかしらと目を凝らしました。


怖くありませんでしたか。

いいえ。わたしはまったくの恐れ知らずです。幼いころからわたしは決して怖がらなかったので、母はわたしのことを変わった子どもだと言いました。


それでその夜のことを続けて話してくださいますか。

そうですね。わたしはまったく見知らぬ人を見たのです。彼はゆっくりと行きつ戻りつしていました。わたしは彼に厳しく言いました。

「どうしてここへ入って来たのか?出ていけ!」

しかし彼はまるで聞こえなかったようなふりをして、いらいらして部屋のまわりを歩きつづけていました。それで彼に尋ねました。

「あなたは何をしているのか」と。

それでも彼は返事をしなかったので、わたしはベッドから飛び起きて彼をひっつかもうとしましたが空気をつかんだだけでした。そこには何もなかったのです。それでベッドに戻りましたが、再び彼がゆっくりと行き来している音が聞こえてきたのです。

わたしは、この人を見ることができたのにどうしてつかむことはできなかったのかしらと思いました。彼をつかまえて歩きまわるのをやめさせようとして再び起きましたが、今度もまた空をつかんだだけでした。

途方に暮れてわたしはベッドに戻りました。彼は戻って来ませんでしたが、わたしは寝つかれませんでした。その翌朝のミサ後、わたしの霊的指導者の神父に会って昨夜の出来事を全部話しました。彼はこう言いました。「もしこんなことがまた起こったとすれば、『あなたは誰ですか』と聞かずに『あなたはわたしに何をしてもらいたいのですか』と聞きなさい」と。

その次の夜、その男に――間違いなく同じ男が戻ってきたのです――、わたしは「わたしに何をしてもらいたいのですか」と尋ねました。

彼は「わたしのために三回ミサを立ててください。そうすればわたしは解放されます」と答えました。
それでわたしは、それは煉極の霊魂であることが分かったのです。わたしの指導司祭はこれを確認しました。彼はわたしに、決して哀れな霊魂たちから顔をそむけないで、彼らが頼むものは何でも寛大に受け入れてあげなさい、と勧めました。


この霊魂たちはあなたに何を頼みますか。

大抵の場合、ミサを挙げてくれるようにと。そしてそのミサに与ってくれるように頼むのです。またロザリオを唱えてくれるようにとか、十字架の道行をしてくれるようにとも頼むのです。


マリア、煉極に霊魂を送るのは神ですか。それとも自分でそこへ行くことを決断するのですか。今話してくださいますか。

霊魂自身が煉極に行きたいのです。それは天国へ行く前に清いものになるためです。


マリア、死の瞬間に人には神がはっきりと見えますか。それともぼんやりと見えますか。

ぼんやりと見えるのですが、やはりそれは霊魂の中に神に近づきたいという強烈な熱望を起こすほどの明るさです。

それは実際には地上の闇と比べればまぶしいほどです。ですが、霊魂が天国に着く時に見る完全な光と比べれば暗闇に等しいです。ここで「臨死体験」を参考にすることができます。霊魂はこの光に強烈にひきつけられるあまり、その体験の後に再び身体に戻ってくるのは死の苦悶に等しい苦しみです。


マリア、なぜ人は煉極へ行くのですか。煉極へ行く最大の原因となるなはどんな罪ですか。

愛に反する罪です。自分の隣人への愛に反する罪、心のかたくなさ、敵意、悪口、中傷――そのようなものすべて。・・・人について悪いことや本当でないことを言うのは自分をもっとも汚す罪のひとつであり、長期間の清めを必要とします。


ここでマリアが本当に心を打たれたという実例を挙げました。

彼女はある女性とある男性が煉極にいるかどうかを調べるように頼まれました。依頼した人びとの驚いたことには、女性はすでに天国に入っていたのですが男性はまだ煉極にいました。事実、この女性は堕胎の手術中に死んだ一方、男性は常に教会に通っていて正しい信仰生活を営んでいた様子でした。

そこでマリアは勘違いをしたと思っていっそう正確に調べました。しかし間違いではなかったのです。二人はほとんど同じ頃に死んだのですが、女性の方は謙遜に自分の罪を認めて深く回心したのに対して、男性はみなを批判し、いつもぶつぶつと不平や他人の悪口ばかり言っていたのです。そしてこの女性の葬儀の時、「このならず者が教会の墓地に葬られるべきではない」ときつく批判したのです。そのために彼の煉極滞在期間は非常に長かったのです。そこでマリアは、「外見によって判断してはいけない」と結論を引き出しました。

愛に反するほかの罪は、好きではない人びとを拒絶し排斥すること、和睦するのを拒否すること、赦すのを拒否すること、心に抱いている人びとへの恨みです。

マリアはまた強い印象を与える別の例を挙げてくれました。これはマリアがとてもよく知っていた女の人の話です。この婦人は死んで煉極にいました。それもとてもひどい苦しみのあるもっとも恐ろしい煉極に。彼女がマリアに会いにきた時その理由を説明したのです。彼女には女性の友人がいましたが、二人の間に彼女が自ら引き起こした大きな憎しみが生じました。彼女は何年間もこの憎しみを持ち続けていました。彼女の友人が何度も和睦と和解を求めたにもかかわらず、そのたびに彼女は拒否しました。彼女は重病にかかった時も心を閉じ続け、友人が求める和睦を拒否し続けて、とうとう臨終を迎えたのです。

この例には意味深長なものがあります。すなわち、深い恨みを持ち続けることは大変な不幸へ導くのです(管理人注:恨みを持ち続ける場合でも、いろいろなケースがあるかと思います。例えばいじめなど、相手から一方的に酷いことをされて恨んでしまった場合とこの場合とでは全く異なってくるでしょう。神はその原因、動機を考慮してくださることと思います。この場合は彼女が自ら引き起こしたと書かれており、またずっと友人を傷つけ続けたので、罪が重くなったのだと思われます)。その上、わたしたちが口にする言葉もまた有害になり得るのです。批判的な言葉や辛辣な言葉がどんなに人をひどく苦しめるかということを充分に力説することは決してできませんが、これに反してほんのひと言が人の心をどれほど癒すことができることでしょう!


マリア、どうか教えてください。まっすぐに天国へ行く可能性がもっともある人はどういう人ですか。

すべての人に対して良い心のある人です。愛は多くの罪を覆います。


煉極に行くのを避けて天国へ直接に行くためには地上の生活においてどうしたらよいでしょうか。

煉極にいる霊魂を助けるために大いに働かなくてはなりません。その代わりに彼らはわたしたちを助けてくれます。ずいぶん謙遜でへりくだっていなければなりません。これが悪に対する、また悪しき者に対する最大の武器なのです。謙遜は悪魔を退散させます。

ここでベルリユー神父の本当に美しい証しをお話しせずにはいられません。彼は煉極の霊魂についてすばらしい本を書きました。それは祈りと取り成しによって彼らを解放する人びとのために煉極の霊魂が与える援助についてです。

その本の中で彼は、霊魂たちに特に献身的に仕え、その霊魂たちの救いのために一生を捧げたある婦人の話を伝えています。

「彼女は臨終のときに悪魔に激しく攻撃されました。それは、悪魔は彼女が自分の支配を逃れようとしているせとぎわであることを見たからです。まるで地獄の軍勢が彼女に向かって一致団結して、彼女を包囲しているように感じられました。

死に瀕していた彼女はしばらくのあいだ責め苦にかけられるようにもがきました。そのとき突然彼女は、目もくらむような美しいまったく見知らぬ人が大勢彼女のアパートに入ってくるのを見たのです。彼らは悪魔を敗走させ、彼女のベッドに近づくと本当に神々しい激励と慰めの気持ちで彼女に話しかけました。息を引き取る寸前、彼女は大きな喜びに満ちて叫びました。『あなたたたちはどなたですか。どなたですか。教えてください。わたしにこんなに善いことをしてくださるあなたたちは一体どなたですか』と。

情け深い訪問者は答えました。『わたしたちは天国の住民です。あなたの助けがわたしたち至福に導いてくれたのです。だからお返しに、あなたが永遠の世界の門をくぐるように助け、聖都の喜びの中にあなたを連れてくるようにこの激しい苦しみの場所からあなたを救い出すために、わたしたちは感謝の気持ちで来たのです。』

この言葉で、瀕死の女の人の顔にはほほえみが輝き、目は閉じられ、彼女は主の平和のうちに眠りにつきました。鳩のように純潔であった彼女の魂は王の中の王の御前に現れた時、彼女が救った魂と同じくらいたくさんの保護者と弁護者を発見しました。栄光を受けるのにふさわしいものと認められ、彼女が煉極から救ったすべての人の拍手と称賛のうちに意気揚々と天国に入りました。わたしたちもいつの日か同じ幸福が得られますように!」


マリア・シンマが語ったもうひとつの美しい実例は、どのようにひとつの善行が罪に満ちた全人生を埋め合わせられるかを示しています。この話をマリア自身から聞きましょう。


「わたしは近くの村に住む20歳くらいの青年を知っていました。この青年の村は連続的な雪崩で残酷に打ちのめされ、ずいぶん多くの人が死んだのでした。

ある夜のこと、この青年は両親の家にいたのですが、そのとき彼の家のすぐ隣で雪崩の音がしました。耳を刺し貫くような金切り声、胸の張り裂けるような鋭い叫び声が聞こえました。『助けて!助けてくれ!雪崩の下敷きになってしまった!』
彼はベッドから跳ね起きてこの人びとを救うために急いで階下へ降りました。彼の母もこの悲鳴を聞いていたので彼を行かせないようにしました。彼女は通路をふさいでこう言いました。『行っちゃだめ!他の人に行かせれば・・・。いつもわたしたちが行くのじゃなくて!外はあまりに危険だよ。死ぬのはゴメンだよ!』と。しかし彼は叫び声にひどく身をつまされて、どうしてもこの人びとの救助に行きたかったのです。彼は母親をわきに押しのけてこう言いました。『いいえ、僕は行きます。こんなことで彼らを死なせることはできません。』彼は外に出ましたが、路上で自分が雪崩に遭って死んでしまったのです。

彼が死んで三日たった日の夜、彼はわたしのところへ来てこう言いました。『わたしのために三回ミサを挙げてもらってください。そうすればわたしは煉極から解放されます。』わたしは彼の家族や友人にこのことを知らせに行ったところ、たった三回のミサで煉極を出られると聞いて皆びっくりしました。彼の友人たちはわたしにこう言いました。『ああ、彼が生きているうちにしたすべての悪いことを見ていたならば、死の瞬間に彼の身にはなりたくなかったよ。』と。

しかし、この青年はわたしにこう言ったのです。『わたしは隣家の人たちのために命賭けで純粋な愛の行為をしたのです。神が早速わたしを天国に歓迎してくださったのはこのためです。本当に、愛は多くの罪を覆います。』」


この話は、愛は、それも惜しみなく与えられる単純なひとつの愛の行為は、この青年を放蕩の人生から清めるのに充分なのだとわたしたちに教えてくれます。それで神はこの愛の瞬間を最大限に考慮なさったのです。実際のところマリアは次のように補足しました。この青年はひょっとしたら二度とこのように大いなる愛の行為を捧げる機会がなく、再び悪に向かったかもしれないと。いつくしみの主はまさにこの瞬間に彼を捕らえたのです。彼がこの愛の行為のゆえに神のみ前にもっとも美しく、もっとも純粋に見えたその時に!


死の瞬間に神に身を委ねることは非常に大切なことです。マリアは四人の子を持つ瀕死の母親の実例を話してくれました。ひどく嫌がったり心配したりせずに彼女は主にこう言ったのです。『あなたのみ旨ならばわたしは死を受け入れます。そして御手の中にわたしの命を置きます。息子たちをあなたに委ねます。あなたが彼らの世話をしてくださることが分かっていますから』と。

この女性は神をとても信頼していたのでまっすぐに天国へ行きました。それで煉極を避けられたのだ、とマリアは言いました。

ですから、わたしたちは本当に次のように言うことができるのです。神への愛と謙遜、そして自己放棄(管理人注:自分を押し殺して人のために何かをすることは苦しみをもたらすが、心から相手のために何かをしてあげたいと相手を優先して自分を放棄することは幸せをもたらすのだと思います。自分への労りと自己放棄とのバランスが肝要かと思われます)、直接天国へ入ることができる三つの黄金の鍵であると。


マリア、霊魂を煉極から救い出すのを助ける一番効果的な方法は何ですか。話してくれますか。

もっとも効果的な方法はミサを捧げることです。
(管理人注:この本を発行しているいつくしみセンターに申し込むと、聖母巡礼の世界的中心地であるロレートの大聖堂において、個人、故人4千円、1家族5千円で毎日永遠にミサを捧げてくださいます。いつくしみセンターで本や聖品等を購入すると案内が同封されてきます。またロザリ屋 HOLY WORLDさんの記事がまだ有効であれば、半額以下で登録手続きしてくださるようです。)


なぜミサなのですか。

ミサの中でキリストがわたしたちへの愛ゆえにご自身をお捧げになるからです。そこでキリストがご自身を神にお捧げになるので、それはもっとも完全な奉献です。司祭は神の代理者ですが、わたしたちのためにご自身を捧げてご自分ゆ犠牲にするのは神ご自身です。死者のためのミサの効果は、生存中にミサを大切にしていた人にとってさらに大きなものです。ミサに参加してそこで心から祈った人、時間の許す限り平日のミサに与った人なら、自分たちのために捧げられたミサから大きな助けを受けます。この場合にも人は自分が蒔いたものを刈り取るのです。


煉極にいる霊魂には、自分の葬儀の日に人びとが自分のために実際に祈っているか、ただ参加していることを見せるためだけであるかがはっきり見えます。あわれな霊魂は、涙は自分たちのためにならないと言っています。祈りだけが助けになります。人びとが葬儀に来ても神にひとつも祈らないことを、たびたび嘆いています。彼らは涙を流しますが、それは無駄です。


哀れな霊魂を助けるためにとても力強いもうひとつの方法があります。すなわち自ら捧げる断食、苦行、節制等のようなわたしたちの苦しみ、またもちろん病気や哀悼のような望まなかった苦しみも含めて。


マリア、あなたは哀れな霊魂を救い出すために彼らのために苦しみを受け入れることを何回も頼まれたのですね。その時あなたは何を体験し何を耐え忍んだかを話してくださいませんか。

初めての時、ある霊魂はわたしが肉体的に彼女のために三時間苦しむように頼み、その後は仕事を続けることができると約束しました。わたしは「もし三時間で終われば受け入れてもよい」と考えて受け入れました。その三時間はあまりにも苦しかったので、三日は続いたと思っていました。しかし、終わってから時計を見ると三時間たっていただけでした。

その霊魂は、わたしが彼女のために愛をもって三時間苦しむことによって彼女の煉極の二十年間の苦しみが免除された、と言いました。


分かりました。でもどうして三時間だけ苦しむことによって煉極の二十年間の苦しみの免除を得させることができたのですか。あなたの苦しみにはどのような特別な価値があったのでしょうか。

地上の苦しみには違う価値があるからです。地上において苦しむ時、わたしたちは愛において成長でき、功徳を得ることができます。しかし煉極の苦しみの場合はそうではありません。煉極での苦しみは霊魂を罪の結果から清めるためだけなのです。地上ではすべての恵みが与えられています。それは選択の自由が与えられているからです。


これはとても勇気づけられることです。というのは、苦しみには特別の意味があるからです。自発的に捧げる苦しみ、仕方なく耐え忍びながら捧げる苦しみ、もっとも小さな犠牲、病気、悲嘆、失敗などを忍耐をもって耐え忍び、謙遜をもってそれを歓迎するならば、その苦しみは霊魂を助けるのに並外れた力を持つのです。

マリアはこう語ります。成すべき最善のことは、聖母マリアの御手の中に苦しみを置くことでイエス様の苦しみにわたしたちの苦しみを結びつけることだと。聖母マリアは苦しみをどのように利用するかをもっともよく知っている方です。しばしばわたしたち自身は自分の周りで誰が何をもっとも緊急に必要としているのかを知らないのです。

もちろん、これを全部聖母マリアは臨終の時わたしたちに返してくださるのです。

もうお分かりでしょうが、捧げられたこれらの苦しみは来世でわたしたちのもっとも貴重な宝物になるのです。わたしたちはめいめい互いにこのことを思い出させなければなりませんし、また苦しむ時には互いに励まし合わなければなりません。

とても効果的なもうひとつの方法は「十字架の道行」であるとマリアは言っています。なぜなら、主の苦しみを熟考することによってわたしたちは少しずつ罪を憎み始め、すべての人びとのための救いを渇望し始めるからです。そしてこのような気配りは煉極の霊魂の苦しみを大いに和らげるのです。十字架の道行はわたしたちの中に回心する心を起こすのです。わたしたちは罪に直面させられたとき回心し始めます。


マリア、地上で功徳を得ることができるのに、煉極ではどうして功徳を得ることができないのですか。

死の瞬間に、功徳を得る時が過ぎてしまうからです。地上に生きている間はわたしたちが犯した罪を正すことができます。煉極にいる霊魂はわたしたちに与えられているこの可能性を羨むのです。天使さえわたしたちを羨みます。なぜなら、わたしたちは地上で生きているあいだは、成長することができるからです。


死の時点で痛悔または回心の役割は何ですか。

痛悔は非常に大事です。痛悔によって罪は必ず赦されますが、罪の結果は残ります。死ぬ時に全免償を受けたいならば――それはまっすぐ天国へ行けるという意味です――心はあらゆる執着から解放されていなければなりません。

ここでわたしはマリアが話してくれた非常に重大な証しを分かち合いたいと思います。親戚の人たちがきっと永遠に滅びただろうと信じていた女性の様子を聞くように、マリアは頼まれました。なぜなら彼女は凄まじい生活をしていたからです。彼女は事故に遭い、列車から落ちて死んだのです。ある霊魂がマリアに、この女性は救われた、地獄から救われた、と言いました。なぜなら、死ぬ時に彼女は神にこう言ったのです。「あなたがわたしの命を取られるのは正しいことです。わたしはもうこれ以上あなたに背くことはできなくなりますから」と。この言葉が彼女のすべての罪を消してしまったのです。

この実例は非常に重大です。それは、死ぬ時のほんのわずかな謙遜と回心の瞬間がわたしたちを救うことができるということを示しているからです。これは彼女が煉極へ行かなかったという意味ではありません。ですが、地獄は避けられたのです。彼女は自分の不信仰のゆえにたぶん地獄へ行くべきだったでしょうから。


マリア、死の時点で人が永遠の世界に入る前に、まだ神に立ち戻る機会が与えられますか。――死んだと思える時と実際に死んだ時との間の一瞬――たとえその人が罪の人生を送ったとしても。

はい、はい。主は一人ひとりに数分間を与えます。霊魂たちはそれを証しします。それは罪を後悔するためと、主と顔を合わせたいか否かを決断するためです。その時、自分の生涯が映画のように目に映ります。


マリア、死の時に神は同じような明確さですべての霊魂にご自分を現されますか。

一人ひとりは自分の生涯のことを示され、また今から受けるべき苦しみも示されます。しかし皆が同じではありません。神が見える明るさは各自の人生によります。


地上で聖人になりたい人に何を勧めますか。

極めて謙遜であること。自分のことに気を取られてはなりません。プライドは悪魔の最大の落とし穴です。


マリア、煉極には異なった段階があるのですか。

はい。精神的な苦しみの中に度合の大きな違いがあります。各々の霊魂には独自の苦しみがあって、多くの段階があるのです。


マリア、煉極の苦しみは地上のもっとも辛い苦しみよりもさらに厳しいですか。

はい。肉体の苦しみとは違い、霊魂の苦しみのほうがずっと厳しいです。


自殺した人にはどういうことが起こりますか。こういう人たちの訪問を受けたことがありますか。

今までのところ、自殺した人で永遠に滅びた人の例に遭ったことは一度もありません(管理人注:日本ではどうかわかりませんが、キリスト教では一般的に、一度地獄に落ちたならば永遠に出てこれないと教えられているため、マリア・シンマもこれに基づいて話されているように思われます)。それはもちろん、そういうケースが存在しないという意味ではありません。ですが、たびたび怠慢であったり中傷を広げたりする周りの人びとの罪のほうが大きい、と霊魂たちはわたしに言うのです。


この人たちは自殺したことを後悔していますか。

はい。しばしば自殺は病気の結果です。この霊魂たちは自分たちの行為を後悔するのです。彼らは神の光の中で物事が見えるのですから。彼らは、彼らがまだずっと生きるために残してあったこの時間に彼らのために用意されていたすべての恵みを即座に理解するのです――彼らのために残してあったこの時間を、時には何ヵ月もあるいは何年も、しかと見るのです――。また彼らには、神に命の残りを捧げることによって助けてあげることができた霊魂たちすべてが見えるのです。ついに彼らの心にもっとも堪(こた)えるものは、彼らが自分の命を短くしたために、できたはずだったのにしなかった善業を見ることです。

しかしその原因が病気の時は、主は当然これを考慮に入れてくださいます。
(管理人注:一般に自殺は人生の課題からの逃避とみなされ、何年何十年と暗く厳しい世界に長く留まることになり、またときに何度も死の瞬間を繰り返すこともあるとも言われています。なので、身内等に自殺した方のいらっしゃる方は、たとえばこのブログのセッション記録で書かせて頂いたヒーラーさんなど、確実に救ってくださると思われる方のセッションを受けるなどして救済をお願いされることをお勧めいたします。創造主の光や高次の天使が介入するなどして救済してくださいます。)


イエス様は金持ちが天国に入るのは難しいと言われました。あなたはそのような実例を見たことがありますか。

はい。でも彼らが善い業つまり愛の行為を、慈善の業をしていたり、愛を実践したりしているならば、貧しい人たちと同じように天国へ行くことができます。


マリア、あなたは今、あなたの話とあなたの本のおかげで、特にドイツとオーストリアだけではなくヨーロッパ全体にとてもよく知られています。しかし初めはあなたは目立たない存在でした。あなたの並外れた体験が本物であるとたちまち人びとが認めるようになったのはどういうわけですか。

霊魂たちが家族に、不正に手に入れた物を持ち主に返すように伝えてくれ、とわたしに頼んだ時です。彼らはわたしが言ったことが本当だと分かったのです。

この時点で、ここで引用するのは長すぎるのですが、マリアはいくつかの証しを話してくれました。数回霊魂たちはマリアに会いに来て言いました。「これこれこういう村――マリアが知らない村です――のわたしの家族のところへ行ってください」と。「そしてわたしの父、息子、兄弟に、わたしが不正に手に入れた一定の財産とか金額を返すように言ってください。それらの物が返されたときわたしは煉極から救われるのです」と。その地所のすべての詳細や、正確な金額、関係する財産などをマリアは知っていました。霊魂たちの家族は、マリアがこうしたすべての詳細を知っていることに気がついて愕然としたのでした。なぜなら、時々彼らでさえこれらの物が自分の親戚によって不正に取得されていたことを知らなかったのです。このためにマリアはよく知られるようになりました。


さて皆さんの一人ひとりに提案することがあります。すなわち、わたしたちの誰もが煉極には行かないと決意をしましょう!

これは本当に可能なことです。それを実現するためのすべてはわたしたちの手中にあるのです。わたしは十字架の聖ヨハネ(管理人注:魂が神と一致する手前において、ほんのわずかな神との隔たりさえも暗黒と絶望に思われてしまう「魂の暗夜」を説き、リジューの聖テレーズを導いた聖人)の言葉を思い起こします。彼は言います。「神の摂理は、死の時点でわたしたちが直接天国に行くことを可能にする必要な浄化を、生涯のうちに必ず用意してくださる」と。

神はわたしたちの生涯の中に試練、病気、苦難等の困難に充分遭わせられます。――これらの浄化はすべて、もし受け入れるならば、わたしたちをまっすぐに天国へ入らせるのに充分です。

なぜたびたびそうならないのでしょうか。それは、わたしたちが反抗するからです。わたしたちの生活において愛と感謝の気持ちでこれらの試練の賜物を歓迎しないからです。わたしたちは反抗によって、すなわち不従順によって罪を犯すのです。

ですから、わたしたちの死ぬ日にわたしたちが純粋さと美しさで輝いているのを主がご覧になれるように、あらゆる機会をしっかりとつかむ恵みを主に願いましょう。

当然のことですが、もしこのことを決心すれば、わたしたちの人生の道は楽であると言っているのではありません。――次のことを思い出しましょう――主は安楽を約束なさいませんでした。しかしわたしたちの道は平和のうちにあるでしょう、またそれは幸福の小道でもあるでしょう。主はわたしたちと共におられるでしょう。

何よりもまず――ここで強調したいのですが――地上でわたしたちに残されている時間を最大限に利用しましょう。非常に貴重なこの時を、わたしたちが愛のうちに成長すべきチャンスをまだ与えられている間に。来るべき栄光とわたしたちのために前もって定められている美しさに向かって。各瞬間にわたしたちは愛のうちに成長することができるのですが、煉極の霊魂たちはもう成長することができません。天使たちでさえ、地上にいる間は愛のうちに絶え間なく成長できる力のあるわたしたちを羨むのです。

主に捧げるそれぞれの小さな愛の行い、それぞれの小さな犠牲や断食、それぞれの小さな欠乏、自分の悪い傾向や欠点との闘い、敵に対するそれぞれの小さな赦し等、この種のものでわたしたちが捧げられるすべてのものは、後に、わたしたちにとって永遠の飾り、宝石、真の宝物となるのです。

ですから、神がご自分の前でわたしたちに早速そうなって欲しいと熱望しておられるほど美しくなるように、あらゆる機会をとらえましょう。もしわたしたちが純粋な霊魂、清められた霊魂の輝きを神の光の中に見たならば、その時は、その美しさのゆえに喜びと驚きのあまり泣き叫んでしまうでしょう。

人間の霊魂は神の前で偉大な輝きを放つものです。こういうわけで神はわたしたちに完全に純粋であって欲しいと切望されるのです。純粋になるということは、過失がないということによるのではありません。まったく別個なことです!純粋になるとは、犯した罪の改悛と、謙遜を通してです。聖人たちは「過失のない」霊魂ではなく、倒れるたびに何度も起き上がって赦しを願う人たちです。

ですから、まだ神を所有することを待っている霊魂たちを助けるために神がわたしたちの手中に注ぎ込んでくださるすばらしい手段を利用しましょう。彼らがすでにぼんやりと見ていて全力をもって求めているこのすばらしい神のゆえに、永遠の抱擁の遅れのゆえに神を切望している霊魂たちを助けるために。

また、子どもたちの祈りが神の心に対して偉大な力を持っていることを忘れてはなりません。ですから、子どもたちに祈ることを教えましょう。哀れな霊魂たちについてわたしはある小さな女の子に話したことを覚えています。わたしは彼女に言いました。「さあ、あなたは、すでに死んでしまった家族や友達みんなの霊魂のために今から祈るのですね。イエス様の前に行って彼らのためにお願いしてくれますか」と。

彼女はイエス様の前に行って五分間経ってから戻って来たので、わたしは「主に何を頼んだのですか」と尋ねました。彼女は答えました。「主に、煉極の霊魂をみんな救ってくださいと頼みました」と。

この返答に非常に感銘を受けました。そしてわたしの願いはケチであったことを悟りました。しかし彼女は何を願うべきかを即座に理解していたのです。子どもは非常に敏感です。彼らは神の懐から非常に多くのものを頂くことができるのです。

なおここで、引退した人たちと自由時間があるすべての人たちのことに言及しましょう。彼らが毎日、またはしばしばミサに行くとしたら、彼ら自身のためだけではなく、彼らに関わりのある亡くなった人びとと何千という霊魂のために、どれほどの恵みの宝物を蓄えることでしょう。

ただ一回のミサの価値でさえ計り知れないものです。もしわたしたちが理解できるとすれば・・・わたしたちの無知、無関心、あるいは単なる怠慢がどれほど豊かなものを無駄にしてしまうことでしょう。

ところが、わたしたちの救い主、あかない主であるイエスと共にわたしたち自ら共同のあがない主(共贖者)になることによって、わたしたちの手中には兄弟を救う力があるのです!

(管理人注:ミサに与るほかにも、司祭の祝福を受けた十字架やロザリオ、スカプラリオ、メダイなどの聖具――購入したい方はイエスの受難 アンナ・カタリナ・エンメリックの最後をご参考ください――を用いる方法など、自らや煉極の魂を救う免償の方法が以下に列挙されていますが、教会における専門的なやり方なので、ここでは省略したいと思います。またその他の詳しい内容にも興味のある方は「煉極にいる霊魂の驚くべき秘訣」をお読みください。)






以上で、今回の地獄に関する連載は終了となります。これらの記述を見て感じることは、前にも書きましたが一つには、もし誰かから何か酷いことをされたとしても、復讐心に駆られて自らの手を汚すことはないということです。
自らの行為が自らを裁くのですから、イエスも言われたように、全ては天の父におまかせしておけばよいのでしょう。とは言っても、なかなかそうは割り切れず、もっと具体的なことが知りたいと思われる方もきっといらっしゃると思ったので、記事としてとり上げさせて頂きました。

全ての人を許し、愛することができれば、それは理想でしょう。その道を歩まれることが最善だと私も思うし、そう歩むことのできている方には、このような知識は全く必要ないものかもしれないとも思います。

ただこの世界には、法律で問われないものも含めて、あまりに残虐な犯罪行為が多数存在します。そんな犯罪の被害者たちは、決してそんな容易には、その行為を許し、傷ついた心の闇を打ち払うことはできないでしょう。そんなときに、唯一の救いが霊的世界の真実であったり、カルマの法則だったりすることもあるのではないかと思います。そんな一部の人にとっては有用なものだと思い記事にさせて頂きました。

またそのような犯罪的な行為でなくとも、例えば身近なところでは、コールセンターやレジ打ちなど接客業を経験されたことがある方であれば、このような全く筋の通らない理不尽な客と出会われたことも数多くあるのではないかと思います。あるいはまた上司のパワハラにより、最悪死に至らしめるほどの非人道的な仕打ちなども耳にします。残念なことに今の日本は、本心においては自分のことばかりを大切にし他者を顧みない人間ばかりになってしまいました。このカリユガの記述にある通り、自分の利益のためには虚偽も厭わない、不正がまかり通る世界になってしまいました(しかし今はそのカリユガを越え、真理が支配するサティヤユガに戻っていくと言われています)。

しかしこの霊的知識を知るならば、どんな酷い行為に対しても、不快を感じることはあったとしても、自らの行為は何倍にもなって自らに返るだけだから(主には未来世において、カルマの法則により自ら為したものと全く等しい力が返ってくると言われています。またその前に、死後、その行為を心から悔い改め、生き直しがしたいという気持ちが生ずるまで、何年でも何百年でもずっと逆の立場を経験し続けることになり、合わせると何倍にもなる)、「どうぞ自由に、好きに振る舞ってください」と思えるようになります。

ところでそんな悪行為をして言葉を超える程の苦しみの世界に長い間留まることになるよりは、自分がそれを受ける側の方がどれだけマシかと思わずにいられません。
自分の家族たちが今世でなくても、これから先の転生の過程において、誰かに酷い目に遭わされたりする可能性を考えると居たたまれない想いがします。しかし逆に、誰かに酷いことをして苦界に長いあいだ身を晒すことにでもなれば、それこそ死んでも死にきれないほど辛いことです。それよりは、酷いことをされて、その経験により自らは決して酷いことをしない善性を身につけ、それによりその後の転生も大きなカルマ積むことなく幸せに生きていってくれた方が、どれだけ幸いなことかと思います。
そう考えると、自分のことに当てはめて考えてみても、どんな些細なことでも、やはり酷いことをするよりはされる方が遥かにマシだなと本当に思います。被害者になることを決して肯定しているわけではありませんが(肯定していればどんどんそれを現象化させるので)、それほど悪行為は避けなければならないものだと思うし、その報いも厳しいものなので。

この霊的知識を身につけ「全ての行為は自分に返る」という真理を体得することにより、長く怒り恨み憎しみに囚われることがなくなり、全く相手にしないでいられるようにもなります。ブッダの説かれた三毒(欲望 怒り 無知)を超えていくことができるようになっていきます。何の気負いも自己防衛のために構えることもなくなり、以前と比べてはるかに心身脱落、泰然自若の心でいられるようになります。これは私の経験です。
自分に非がなければ、どんなに酷い暴言や仕打ちでも、自らの墓穴を掘る行為、自らの首を絞める行為にしか見えなくなり、全く眼中になくなります(あらゆる災厄を退け福を呼び寄せるガヤトリー・マントララリター・サハスラナーマなどを唱えていれば、大難は小難となり、自信はより確かなものになります)。
他人のあらゆる行為、視線は気にならなくなり、今この時、何をすることが最善であり神の御心に適ったものであるのかと、自らの思い、行為のみに集中することができるようになります。最善の道を歩み、ネガティブな想いに囚われなくなることによってカルマは動きを緩め大難が小難となり、恩寵を手にしていくことができるようになります。
なので、そのような状況で苦しい思いをしている方々の目にも、このような霊的知識に触れる機会があればどんなにいいだろうかと日々思わずにはいられません。
もし下の関連記事も含めて全て目にされるならば、きっと今までとは全く違った見え方となり、不必要な心の重荷の多くを手放すことができるはずだと思っています。


これらの記述を見て感じることのもう一つには、先の話と重複しますが、苦しみの原因となる罪を犯さないために、善なる心を確立することが非常に大切であるということです。
これらの記述の通り、神の心――愛や思いやり、慈悲心――から離れて自己中心的な心でいるならば、たとえ今生で大きな成功をして地位、名誉、お金を手に入れても、それでは何にもなりません。地位やお金や才能は、苦しむ人を助けるために神から貸し与えられるのだと言われていますが、それを御心に反して他者のために善用せずに自らの欲望を満たすことだけに使用するならば、それはただの苦しみの元となってしまうだけです。それはこの連載記事、また下の関連記事を読んでいくならば明白でしょう。時間軸のない霊界からすればほんの束の間にすぎない地上での一時の快楽のために、多大な犠牲を払うことになってしまいます。

もちろん地位やお金が悪いと言っているのではありません。それらはインドの女神ラクシュミー(吉祥天)に代表されるように神のシャクティ(エネルギー)の一部であり、それを善用するならば、それは新たな徳を生み、さらに自らに幸福をもたらしてくれるでしょう。
しかし神から貸し与えられた才能や豊かさが大きければ大きいほど、それを誤用してしまったときには、その代償ははかり知れないものになり、死後のみならず転生後においても、カルマの法則通り、病気や事故、経済的問題、人間関係における問題など、苦しみの経験として返ってくることになります。憂さ晴らしや快楽のために故意に行う悪行為においては、言うまでもないことはご承知の通りです。その悪行為によって、その瞬間はすっきりしたり楽しくなったとしても、そのすっきり感や低劣な喜びなどは実は魂にとっては猛毒であり、非常に厳しい浄化を必要とすることになります。

そのため、真我の覚り、神との融合を果たすまで出来るだけ苦しみの原因となる罪を犯さずに悠久の転生を渡っていくために、また喜びの種を蒔いていくためにも、善なる心を確立することが、魂にとって、何よりも一番大切なことではないかと思っています。
善なる心とは一言でいえば、(富を分け与えずにを独り占めして貧困者を苦しめたりすることや、苦しむ人に対して無関心でいたり、また無自覚に差別して相手を軽んじてしまうような間接的なものも含めて)他者を傷つけない心、あるいは、他者の苦しみ喜びを我が苦しみ喜びと感じる心と言えるかとも思います。またそれが魂進化の印であるとも思います。

そしてその心を確立するための具体的な方法は、人生における試練、苦しみの経験によって魂の深化を遂げていく受動的な方法のほかに、能動的な方法としては、インドのヴェーダ聖典においてはマントラ神の御名を唱え、善そのものである神を求め続けることが強調されています。汚れた水の入ったコップに一晩中綺麗な水を一滴一滴と垂らしていくことによって、やがてはコップの中の汚れた水は綺麗な水に入れ替わるように、神の御名を唱え続けることによって、私たちの悪い想念も消えていき神聖な想いに満たされるようになるとアンマは言われます。
またアンマやサイババはその他に「無私の奉仕」(時間のない方はささやかな募金でも、何でもいいと思います。また他者に奉仕する機会のないときは、仕事や掃除や料理など、すべての行為を神に捧げるつもりで行うことによって、それは無私の奉仕になるともおっしゃいます)を特に強調されています。あらゆる霊性修行の中で一番大切なのは愛、奉仕だとおっしゃいます。アンマは、奉仕をしなければマントラを唱えたりしても何も意味はないとまでおっしゃいます。
試練の経験、霊性修行、無私の奉仕――、そこで得られた善なる心と神の恩寵は、永遠にわたって魂を導いていってくれるのではないかと思います。





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