〒みなさま
こんにちは円野まどです。今日は日ごろぼやーっと思っているけれどなかなか文章にできなかったことを書いてみようと思います。
ただの私の思ったことがずるずる書いてあるだけなのでまったくまとまりがないのですが、いつか自分が読み直すときのために書いておきます。
ぜーんぜんたのしくない話で、4000文字近いのでファミレスに一緒に行って興味ない話しはじめられたという感じでしかめ面で読んでください。
たまにはこういう日記らしい日記もいいですよね!(同調圧力)
皆さんは「誰かと自分を比べる事ってありますか?」もし機会があれば教えてください( *´꒳`* )
*良く分からないネックレスを首からかけないことにした
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*最初の違和感
私は大学に入学してすぐ、アルバイトを始めた。
普通のオフィスで、毎日机に座って終業まで社員さんのお手伝いや、行ってもよい範囲の処理をするようなよくある仕事だった。パソコンのセキュリティ関係。
大きな会社で、私の部署だけでも夜勤も含めて50、60人くらいのバイトがいたと思う。時間に融通がきくので色んな人がいた。かけだしの芸人さんとか、バンドをしている人とか、留学のために頑張っている人や、事情がある人とか。
バイト情報誌の紹介ページにいて笑っている人たちが、実際にいる職場だった。
基本は20代で、私のような大学生は年下のほう、上は40代くらいまでの人がいた。
バイトにも中心グループみたいなものがあって、その人たち主催でよくご飯やフットサルに誘われた。社員の人も含めて職場の3分の2くらいの人が参加していて、仲のよさに少し驚いたけれどすぐ慣れていった。私の誕生日会もしてもらった。
入社して数ヶ月たった頃、新しいスキルを覚えるためにK林さんという、長くバイトをしている人に研修をしてもらうことになった。
K林さんは殆ど皆と雑談をしない人で、懇親会みたいなものにも参加しなかった。
フレームのないメガネをかけて、常に白いシャツと淡い色のデニムパンツを合わせていてとても痩せていた。どんな人なのかなと緊張したけれど、1つの机に二つ椅子を並べて仕事を教わってみると、とにかく分かりやすかった。指示は短くて的確、私が質問をしたことに対する答えも、明瞭だった。
(この人すごい!)私はその時感動した。なんて頭の良い人なんだろうと思った。
こんないい教科書になってくれたんだから、教えてもらったことを無駄にしないぞと誓った。
「研修どう?」社員さんが声をかけてくる。私は「K林さんに習ってできなかったら私がわるいってくらいめちゃくちゃ分かりやすいです!」と何故か自分が誇らしげに答えた。それから研修が終わって、休憩室であうたびにK林さんに挨拶をするようになった。ある時私が彼に挨拶をするのを見た中心グループのAくんがこう言った。
「あのさーなんでK林なんかに構うの?」
私はその口調に違和感を覚えながらも答える。
「めっちゃすごい人だよ。この前研修してもらって、驚いた。めっちゃ頭良い。」
すると彼は、今まさに通りすぎようとするK林さんに聞こえるようにこう返してきた。
「あいつきもくねぇ?見た目もだけど30過ぎてバイトなんかで人生詰んでるでしょ。」
その時、気持ちが体を追い越してしまって声にだすのが一瞬遅れた。
「え、何て?」
すごいなと思う人をすごいと思うことに、社会や世界の基準に照らし合わせてから感情をセットしないといけないのか。昔下敷きに書いてあった世界の国旗を思い出す。
じゃあ何がすごいのかああいうのに書いておいて欲しい。
自分だっていつか30歳になるし、今同じ職場で働いてるし、K林さんのことを何も知らないのにAくんは彼のことを「あんな風になりたくねぇ」と吐き捨てた。
私はその時、なんだかとても胸がぐちゃぐちゃしたし、もう飲み会には行かなかった。
Aくんとか、誰かを悪く思ったわけじゃない。
今まであの中にいて楽しかった理由が、ちょっとだけ分からなくなった。
*普通はナシなこと
K林さんのことを思い出したのは、この前知り合いの女の子数人とご飯を食べてきた時の話がきっかけだった。私は前にバイトで一緒だった女の子にくっついて参加したので、他数名の子とは初対面だったけど、皆話しやすい子だった。
その場に馴染みやすいように話を振ってくれたり、過ごしやすくしてくれているのが分かった。食事が進むに連れてその場にいない「Yさん」が近々入籍する話になる。
「ところでYさんの彼氏って就職した?」
「しないとまずいけど、一回も就職したことない人が30代で正社員ってなれるの?」
「でも結婚するならなんとかしないとでしょー。」
「彼氏年下だっけ?Yさん子供も欲しいからあんま時間ないし大変だ。」
「絶対あの彼氏じゃないほうが良かったよね?」
「30過ぎて派遣の夫だったら一人でいいなー。」
私はそもそもYさんを知らないので、私を誘ってくれた子が振り返って(知らない話になっちゃってごめんね。Yさんは職場の先輩だよ。)と小声で簡単に説明してくれる。
会話だけ書くとぎょっとする人もいるかもしれない。
この部分だけ、誰かに話せば「性格悪いね」とか言う人もいるかもしれない。
帰り道、誘ってくれた子と二人その時の話題に戻る。
その子が「ああいうのって、あんまり褒められたもんじゃないけど、それ性格悪いって言ってる人も実際口に出さないだけで「ああなりたくない」とか「自分だったら無理」って思ったりするんじゃないのかなー。実は口にだすか、出さないかの違いだけだったりして。」と言って、どきりとした。
それからも色々な場所で色々な年代の人が話すのを聞く、「偏差値60以下の学校の人と会話できない」「あんな服装の人と歩くの無理。」「子育てばっかしてる子って、どんどん話が合わなくなる。失礼だけどちょっとセンスも考えも社会からズレてるよね?」「彼氏が優しくないから仕事ばっかり頑張ってる子ってキツくなっててかわいそう。愛されてないんだなって思う。」「子供いないなんてかわいそう。結婚する必要ないでしょ。」「あんな場所でプロポーズされるなんて絶対やだ。」「あんな大学の大学院出る必要ある?」書ききれないほどいろんな言葉が飛び交う。
全部の言葉の頭に「普通無理でしょ。」とか「常識的に考えてナシでしょ。」ってつけても違和感ないようなこと。
私は、人とはたまにしか会わないし、躊躇せずに電話できる友達もいない。
だから私が聞いたことは世界の一部でしかないんだけど、でもどこかに確実にあるそんな台詞がなんでだかこころにぐさぐさ刺さった。
*見えないきらきらのネックレス
生きていればよく分からないきらきらしたネックレスを見せられて「ところでこれ、持ってる?持ってない?」と言われて立場が上に見られたり下に見られたるすることがある。
でもそのネックレスは実際のところ得体の知れないものだ。
誰かが価値があるよって言い始めて、それに賛同する人がついてあっという間に広がって、最初に「何で価値があることになったのか」は置き去りになって「とにかく持っていないと評価が下がるもの」になったりする。
価値の理由や根拠が何だったのか考えない。そういうことが私にも時々ある。
最初に価値があるとした人の意見に賛同しているのかわからないまま、「価値がある」って定義に自動遷移してる。
人に話しかけるとき緊張して心臓がばくばくするような自分のこと時々恥ずかしくなる。でも、それが何で恥ずかしいのかを考えないときっと、本質がわからないままだ。
私の価値観はどんな風に生まれてどこで決まって、今好きなものやイヤなことをどうしてそう思うのかなあ。時々ちゃんと「何で」なのか分かっておきたい。
たくさん人がいる世の中で、出来るだけ多くの人が助け合えるように、力がうまく循環できるように、何かに基準や決まりがあるのは尤もなことだ。
統一する価値観をもつことは難しくても、皆がなんとなくお互いに侵害しあわず文化的に暮らせるルールを定めてる。それが社会なんだと思う。
でもそのルールを守ることと、「何を良いと思うか」「何を幸せだと思うか」は全然別な話だと思う。交通ルールは守るけど、好きな色は自分で決められることが当たり前なように、誰かを侵害しないことと何が好きかを選ぶことは同居できるんじゃないかな。
生き方に関しての模範解答が似ていることもあるけど、それも似ているだけで本当は同じじゃないと思う。誰かとまったくおんなじ人なんてきっといないから。
たくさんの人に認められていると安心する人がいて、誰かの目を気にしてそれらに蔑まれないことやできれば褒められることが幸せだって感じる人もいる。
「いっぱいの人が作った理想の誰かに似ていることが、幸せだ」
それが本心ならそれでもいいと思う。全然おかしいことじゃない。
大事なのはそれが本当にしたいことで、叶えたいことなの?ってこと。
大人になっても子供の頃の寂しさを残してて、親や目上の人に褒められたい人は褒められるように計画たてればいいと思う、別にそれは全然むなしいことじゃなくてれっきとした自分の望みと向き合う健全な行為だと思う。
楽しかったり嬉しかったり、幸せになるために人は生きてるんじゃないかな。
だからそうなるためにする努力が、誰にも迷惑かけてないなら誰にも笑われなくていい。
誰かにちょっといい暮らしをしてると思われたいとか、才能があると思われたいとかも、思われたいならそうしていいんじゃないかな。
それは恥ずかしいことじゃないし、自分で自分をばかにしなくていいことだと思う。
でも、本当にしたいのかどうなのかが重要なんだ。
ここまでたくさん考えたけど、A君があの時なんでああいったのか、「派遣の彼氏がいることが失敗」なのか、その発言にもっと複雑な何かがあったのか、まだ未熟で私にはわからない。こんなに長く書いたのに、わからなかったよ。
だから批判することも、肯定することもできない。
私が決められるのは「私はその価値観を選ばない。」ということだけだ。
いつか幸運にもおばあちゃんになれた時、誰かが選んだものじゃなくて自分で選んだお気に入りをたくさん身に付けていたい。
手に入れたいものとか触りたいもののことを皆に「そんなもの?」って言われても大切にするんだ。
よく分からないきらぴかのネックレスを「まだ持ってないの?」と言われても、「そうなんだよ~」とか「持つか迷ってるんだ」とか「私は欲しくないんだ」って全然気にしないような自分でいたい。欲しいのに持ってない時だけ、欲しがったり、手に入れられるように頑張ったりすればいいし、どこにでもあるネックレスでも本当に欲しい物を首から下げた時にきっと私は生きててよかったと思うはずなのだから。
他人の目から解き放たれていることは、すこしだけ大切なことだなって思う。
今好きな人たちが世界中の人から価値がないよっていわれても、好きなとはかわらない。
皆が憧れる誰にも似ていなくても、私はすきだよ。
そんなことを思った。
よくわからないことをぐちゃぐちゃすいませんでした。
またそのうち考えて短い言葉でまとめます。
そしてたぶん、また同じようなことを悩むと思います。
変わってないようでちょっとずつ前進していつかこれの答えはこうだって言えたらいいなあ。そうなるように、向き合っていきます(〃`・н・´〃)
それではまたお便りいたします( *´꒳`* )
円野まど