はじめに
本記事は「数学者→専業主婦→AI研究者」。私が研究で伝えたい“違和感”という文章を読んでの感想です。(読んでいない方は先に読んでいただけると、以下の流れがわかりやすいと思います。)
大まかな感想としては、私はあまり内容に同意できませんでした。
私のような引退してフラフラしている人間と違って、多額の税金を投下されている国立機関に所属する新井紀子教授の発言は影響力があると思いますし、またコメント欄でも科学の教養がそれなりにあると思われる方々が賛同しているのを見ると、本当にその結論でいいの?という疑問が拭えないのがこの記事を書いたきっかけです。
注意:本記事では、AIの定義をwikipediaの”any device that perceives its environment and takes actions that maximize its chance of success at some goal”に由っています。
主張に説得力がない
たとえば犬の写真があったとします。写真のサイズやそのほかデジタル的なデータの変更があっても、人であれば画像を見たら即座に犬だと理解できます。でも、AIはできない。同じ規格の過去データがないからです。
AIにとってデータの規格など、そもそもどうでもいいことです。
人間の目にあたるものは、AIにとってはカメラです。
データの規格がどうだろうが、人間が目で捉えられるものならば、AIはカメラで捉えることができます。
カメラで捉えたデータを、AIが自分の好ましい規格のデータに変換すればいいだけです。
過去に犬だと判断できた写真ならば、それがどのようなデータの規格であろうとも(人間の目が捉えることができるのならばAIもカメラで捉えることができるので)、問題なく犬だとAIは判断するでしょう。
逆にデータの規格を問題にするならば、『これからは文章はすべてQRコードで提供するので文字は廃止します』となったら、生身の人間はお手上げです。
また写真のサイズに変更があるとAIはできないと述べていますが、scale-invariant(=サイズに非依存)な画像からの特徴抽出はすでによく研究されている分野なので、これがボトルネックになるとは思えません。
AIはできない。(中略)新しいルールを加えたら、それも理解できない。
人間もそうだと思います。
赤、青、黄色の信号に突然ピンクが加わったら理解できないでしょう。
初見殺しの道路なんかがいい例だと思います。
想定していないものが来たら人間だってパニックです。
AIがプロの棋士に勝ったことが騒がれていますが、あれも現在のルールでの話。将棋に新しいルールを加えたら、AIが人間に勝つことはしばらくできないでしょう。
将棋に新しいルールが加わったら、藤井聡太四段だってしばらく勝てなくなってもおかしくないと思います。
スキーのジャンプやフィギュアスケートなど、ルールが変わった結果いままで勝てた人が勝てなくなるのはAIに限ったことではありません。
「できないことを証明する」
そもそもAIは東大に合格できないことを証明するために行ったプロジェクトでした。(中略)「できないことを証明するためのプロジェクト」を選んだからです。
工学系の研究者にはそういう発想がない。「できること」「便利になること」だけをやりたがる。
工学系の研究者にそういう発想があるかないか以前に、まず大前提として『できないこと』を証明するのはとても難しいです。
『できる』ことを証明するのは簡単です。
目の前でやって見せればいいからです。
しかし 『できない』ことを証明するのは難しい。
数学的には否定の証明は背理法でしかできないはずです。
なんらかのAIを作って東大の問題を解かせる。
解けなければ、『そのAI』は東大に合格できないことを示せます。
「(私の作った)AIは(賢くないので)東大に合格できない」
「AIは東大に合格できない」という結論を得ました。
すべてのAIが東大に合格できないことは示せていません。
すべてのAIが東大に合格できないことを示すには、未来に発明されるであろう今は誰も知らないアルゴリズムを採用したAIを使っても、東大に合格できないことを示さなくてはいけません。
未来に発明される技術を現在試すことはできないので、『AIは東大に合格できない』ことを証明することは不可能です。
新井紀子教授は
『私の作ったAIは賢くないので東大に合格できませんでした。他のAIについては知りません』
と主張するのが学者として誠実な態度ではないでしょうか?
新井紀子教授はおそらく政治力が半端じゃない
自分で失敗と認めなければ失敗ではないので、まあそうなんだろうなとは思います。
以下は勝手な想像ですが、このプロジェクトはもともと東大に合格させることを目指していたと思います。
結果としてそれが果たせなかったため、『合格できないことを証明する』ことが本当はゴールだったということにして、『失敗ではなかった』と主張することに決めたのではないかと思います。
私が本記事で指摘したように新井紀子教授の主張にはいろいろと粗があり、おそらく本人もそれをわかっているが、コメントを見る限り大抵の人は気づかないですし、このプロジェクトの予算を決めた官僚の方々もたぶんわからないので、このやり方は有効なのだと思います。
研究の世界は政治の世界
科学や技術の研究というと、崇高なものだと思っている人も多いかもしれませんが、研究の多くは税金で支えられている公共事業です。
世の中に有益かどうかに関わらず、その公共事業で食べている人がいる限り、プロジェクトのリーダーとしては彼、彼女らを失業させないことを考えると思います。
失敗したとなると次の予算がつきにくくなると思われるため、なりふり構わない面も必要なのだろうと勝手に推測しています。
長くなりましたが、私がこの記事で伝えたいのは、研究の世界はとても政治的な世界なので、あなたがコミュ障ならば研究者はおすすめしないということです。