2017-11-08
■たった一人で、とことんやった男の話
来週、いよいよ紫綬褒章の叙勲式がある。
天皇陛下から、直々に褒章を賜る名誉に、われらがコンピュータカウボーイ、西田友是先生が浴することになったのは大変名誉なことだと思う。
今回叙勲されるのは、三谷幸喜や、あの僕の大好きな作詞家の松本隆もいる。
西田先生の伝説は今までなんども直に聞いていた。
学生の頃、広島から東大までパンチカードにうちつけたプログラムをかついで(文字通り、担ぐくらいの大きさがあったそうだ)、電車で何時間もかけてやってきて、東大の計算機センターに依頼し、翌日になってようやく結果が受け取れる。
そんな時代に、彼はコンピュータグラフィックスという全く未開の分野に果敢にも挑戦を開始していた。もはや50年も前のことである。
その頃のコンピュータがいまのイメージとどれだけかけ離れていたかといえば、たとえばディスプレイというものが存在しなかった。
ディスプレイがない機械に絵を描かせるというのは、ほとんど正気とは思えない。
わかるかな。腕のないロボットに絵を描かせようと考えるような無茶苦茶な発想なのだ。
当然、研究分野としても認められず、若き日の西田は大いに苦しんだ。
周囲にバカにされ、あなどられ、それでもいくつかの論文を書いた。しかし発表する学会がない。論文を学会で発表しないと卒業できないから、頑張って色々なこじつけを考えて他の学会に論文を潜り込ませた。
失意の西田は、一度自動車メーカーに就職し、別の絵を描くことにした。自動運転である。複数の自動車を編隊走行させる。その技術は、曲線生成というコンピュータグラフィックスにとってもはやなくてはならない技術と多くの共通項がある。
他にも自動車業界はCGと関わりが深い。たとえばベジェ曲線は自動車をデザインするために発明されたのは有名な話である。
あるとき、西田のもとに恩師から連絡が来た。「どうもディスプレイというものが発明されたらしい。それがあるのは日本には東大と京大にしかない。おまえが戻ってくるなら買ってやるから、博士課程に進まないか」
機械がなければ研究できない。しかし、機械があれば研究できる。西田は悩みながらこのチャンスにもとびついた。
一流自動車メーカーからの転職。結婚もしていた。生活の不安もあった。他大学の講師をしながら、広大の博士課程で研究を続けた。
この頃の西田の業績は圧倒的だった。しかし、国内には誰一人としてそれを評価できる人間がおらず、やむなく西田は活躍の場を海外に求めた。当時、海外ではコンピュータグラフィックスを専門とする分科会、SIGGRAPHが立ち上がった頃だった。そこに果敢に投稿を続ける唯一のアジア人、それが西田の若き日の姿だ。
誰にも認められず、日陰で研究する日々が続いた。西田の恩師は厳しく、博士号を出すまでに論文を人の何倍も書くことを要求した。おもえば、未踏、未開拓の分野の研究者に博士号を出すためには、絶対的な物量でねじ伏せるしかないと、彼の恩師は判断したのかもしれない。博士号の審査は指導教官以外の複数の教授を納得させなければならないからだ。
ようやく彼が博士号を取得したのは30代なかばのことだった。西田の当時の研究論文は画期的なもので、今、どんな映画にもゲームにも欠くことのできない手法となっているラジオシティ法は西田が世界で最初に発表した方式である(ただし、英語論文の発表はコーネル大学のチームに先行されてしまった)。
広大の教授になったあとも、苦労は続いた。とある学会では「箱根の先に本物の研究者はいない」と嘯かれ、怒りで眠れない夜もあったという。
国際的な名声は日に日に高まるものの、身近な人には認めてもらえない。それは日本ではまだまだCG技術の重要性が正しく理解されていなかったからである。
西田が50代を迎える頃、唐突に東大から教授にならないかという打診が来た。青天の霹靂である。東大理学部の教授ポストに空きができ、誰かいい人はいないか、と探したところ、当時東大にいた助手が、「広大の西田はどうか」と提案したそうだ。
「西田、それはなにをやっている人間なんだ」
「コンピュータグラフィックス研究の世界的な大家だ。東大が彼の業績を認めないのはおかしい」
助手の話をきいて完全にノーマークだった学者の採用を大真面目に検討する東大は、なるほどさすがに立派な大学だ。
東大に移ってからも決して順風満帆ではなかった。
「東大に来たら研究が進まなくなった」
西田はそうぼやいた。
「広大のときは学生は海外で活躍しとる先生だいうて素直にいうことをきいてくれとったが、東大の先生はみんな超一流だ。どことなくおれの言うことはバカにしていて、自分がやりたいようにやってしまう」
その後、CGのノーベル賞と言われる、クーンズ賞を受賞し、退官後も民間で研究を続け、いまなお多くの研究者を国際舞台に送り込んでいる現役の研究者だ。
西田はいまなお自らプログラムも書く本物のコンピュータカウボーイである。
CGというと、普段の生活と縁が薄いと思われるかもしれないが、いま、みんなが単に「画面」と呼んでいるものに映るものは全てCGの研究成果である。つまり、今あなたの目の前にあるものだ。
画面に描画される全てのピクセル、直線、曲線、フォントはもちろん、ウィンドウ、アイコン、スクロールといった概念、マウス、キーボード、タッチパッドといったユーザーインターフェース、ゲームや映画、テレビ番組で使われる3Dグラフィックス、そのために使われるグラフィック処理ユニット(GPU)は、今や全てのスマートフォン、ゲーム機、PCに搭載され、そしてなにより人工知能の開発になくてはならないものになっている。すぐに思いつく分野だけではない。医療におけるCT画像もCG応用技術だ。西田自身がCTによって癌から帰還した経験を持つ。
そうしたもののすべては、その時代の男たちの、誰にも止めることのできない、心の奥底から湧き上がる熱き情熱と、不断の努力から始まったのだ。
西田先生、半世紀走りきりましたね。
僕が小学生の頃も、誰もCGなんて見向きもしてくれませんでした。
あのなんとも不思議で複雑で、ワクワクするような数式、プログラム、いつか本物のバーチャルリアリティが実現することを夢見て、ひたすら一人でその世界を追い求めていました。
大学受験のために上京して洋書を読んだ時、あまりのレベルの違いに心が折れそうになりました。当時の日本は、コンピュータグラフィックスの教科書と呼べるようなもののレベルが低すぎ、海外に比べてざっと20年は遅れていました。
絶望的な気分でページを繰るなかで、「こんなすごい絵が出せるのか」と驚いたCG。それを作ったのが広島大学にいる先生だと知った時の驚き。同時に、「世界のどこにいても最前線で活躍できるんだ」という事実は、18歳の僕をとても勇気付けてくれました。
あの一枚のCGとの出会いが、今の僕の原点でもあります。
紫綬褒章、受章おめでとうございます。
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