わたしはイスラム教のことをほとんど知りません。マグレブの音楽には多少馴染みがあっても、『クルアーン』を読んだこともなく、イスラム文化と自らの文化に接点を見出すこともありません。それでもイスラム教徒の人々には、ちょっとした親愛の気持ちを抱いてもいる。というのもわたしが住むのは、イスラム教徒のバングラデッシュ人が、ミニマーケットやレストランを多く開く地区。長く住むうちに挨拶を交わしたり、世間話をする顔見知りも多くなりました。そこで、わたしとは全く違う文化を持つ隣人たちが、敬虔に信仰するイスラム教に少し近づいてみようと思いたち、ローマのGrande Moschea(グランド・モスク)へ行ってみることにしました。
ローマに暮らすイスラムの人々
バングラデッシュからの移民の人々が多く商いをするわたしの住む地区では、夕方ともなると、カレーの香り漂うスナックを売る屋台がどこからか現れ、寒くなるにつれて魔法瓶に入ったチャイを売る青年もやってくる。スパイシーな一陣の秋風が吹き抜け、まるでアジアにいるがごとき錯覚を起こすローマの街角に、三々五々と集まるバングラデッシュの人々は、のんびりスナックを食べたり、何人かの友人と立ち話をしたりと、いたってピースフルな夕暮れ時を過ごしています。ヒジャブを纏ったご婦人がたが数人連れ立って、アクセサリー店の店先で「これを見せて」「あれを見せて」と、素敵なネックレスを試着している場面は、たびたび遭遇する光景です。
もちろん、ローマに住むイスラム教徒は、バングラデッシュの人々だけでなく、中東、北アフリカ、アフリカ、東欧とさまざまな国から訪れているので、それぞれのお国柄、風俗があって、振る舞いやメンタリティもかなり違うように見受けられます。イタリアで最も多いイスラム教徒の移民出身国はモロッコ(約45万人)、続いてアルバニア(約36万4千人)、チュニジア(約11万人)で 、隣人であるバングラデッシュの人々はパキスタンとほぼ横並びで7万1千人と、6番目に移民の数が多い国。またイタリア国内で、イスラム教徒が最も多いのはエミリア・ロマーニャ州、次いでピエモンテ州、ローマのあるラツィオ州が3番目となっています。
そもそもほんの20年ほど前までは、イスラム教という宗教をエキゾチックには感じても、即『テロリズム』のイメージに結びつけるようなことはなかったのではないでしょうか。イランの騒乱やイラク戦争、アフガニスタンの紛争、パレスティーナの長い攻防を知ってはいても、ことさらにイスラム教徒を敵視する人に、その頃のわたしは会ったことがありません。自分に関して言えば、1995年あたりに、黒いヴェールで顔を隠した女性のグループが佇んでいるのを、アジアで初めて見かけて、まるでアラビアン・ナイトの世界へと誘われたような神秘的な気持ちになったことを覚えています。
それから時が流れ、突如として9.11同時多発テロが起こると同時に、イスラム教徒たちへの謂れのないバッシングが世界各国ではじまった。近年ともなると、ISによる中東、北アフリカへの侵攻と占領、自爆テロ、欧州では一連の無差別大規模テロが連続して起こり(ニューヨークでも起こってしまいましたが)、マスメディアがそれを繰り返し報道したことで、恐怖と敵意はいよいよ増幅されました。まるでハリウッドで制作されたような、残虐非道なISのプロパガンダ映像を含め、イスラム教の負のイメージは、ここ10数年の間にメディアによってわれわれの脳裏に刷り込まれたように思います。
イタリアにおいては、戦争や紛争、ひどい貧困から逃れるため、地中海を渡って、中東、アフリカから、難民の人々が多く訪れるようになってから、極右グループの移民バッシングが日に日に顕著になっています。つい最近も、ローマ中心街の未明、イスラム圏からの移民2人が、10代のグループ7、8人に取り囲まれて、理由もなく酷い暴力を受けたというニュースが報道されたところです。ちなみに1日2000人、3000人規模でイタリアに訪れることもある難民の人々ですが、そのなかに『武装難民』が紛れ込んでいた、という荒唐無稽な報道はいまのところありません。
2016年の統計(ISMUーiniziative e studi alla multietrucutà)によると、現在推定で140万人のイスラム諸国の人々がイタリアに移民として訪れているそうです。その数はイタリアの人口比、約2.34%という割合で、意外なほどに少ない。2017年も多くの難民の人々が絶えずイタリアを訪れているし、この1年の間にさらに増加している可能性はありますが、それでも割合にすると僅かな増加と予想され、移民排斥を謳う極右グループが、人々の恐怖を煽って騒ぎたてるような数字でもありません。
確かにイタリアの風景は、ここ数年の間に少し変わった。以前はあまり見かけなかった、それぞれのイスラム諸国独特のシンプルな衣装に帽子、髭を伸ばした若者や年配の男性たち、ヒジャブ、チャドルを纏う女性たちを、街角で普通に見かけるようになりました。しかも、そんなイスラム色豊かな人々の数が、ある日突然に多くなったような気がしたので、見慣れないうちは「あやうい原理主義者の集団」か、とギョッともしましたが、あとから考えると、わたしのこの無知蒙昧な反応は、当時メディアで繰り返し流された『テロリスト』のイメージが、いつの間にか脳裏に刷り込まれていた証拠でもあります。
彼らが移民先のイタリアででも伝統衣装を纏うのは、あらゆる文化の正体があやふやになりつつある、もはや『聖域』なき世界における、ムスリムとしてのアイデンティティ、信仰への誇りを再確認する強い主張。メディアに構築されたフィルターを通さず、素直にその姿を見るなら、エレガントで気品のある装いでもある。もちろん、ストリートなファッションで街に繰り出す若者たちや、スーツ姿の人々もいるので、一概にイスラム教徒といっても、それぞれ多様には違いありません。
ところで、長くイタリアに住むバンクラデッシュの人々の店で買い物をする際は、もちろんイタリア語で話すわけですが、「税金が高すぎる」「この辺りのゴミの収集はなんとかならないのか」「イタリアの政治は酷すぎる」「まさか、ベルルスコーニが復活するとは!」などと、彼らも他の市民と同じようなことをぼやいています。マーケットのハラール「肉屋」のモロッコのおじさんに至っては、イタリア人たちとコテコテのローマ弁で声を張り上げながら話していますから、もはやすっかりローマに根づいた『市民』以外の何者でもないでしょう。
しかも初期移民の人々の、そろそろ第2、第3世代が成人するころ。しかしながら他の欧州の都市で起こったテロの際に多く語られた、郊外の貧窮した地区に住む、ISのイスラム原理主義、暴力による『ジハード』の全能感に洗脳された狼の群れ、あるいはローン・ウルフの存在は、今のところイタリアの各都市の郊外において、少なくともローマについては語られることはありません。
イタリアの社会には、いい加減でカオスな部分も多くありますが、そもそも古代ローマ時代から多様な文化を受け入れることで、帝国を発展させたせいか、移民や他文化を完全に社会から排斥しようとするのは、ひと握りの右翼グループぐらいのものです。マイノリティの人々を攻撃する輩がいても、助けようと立ち上がる人々が必ずいて、ヒューマンな動機から形成される市民活動が多く存在します。それはおそらく、社会の基盤にキリスト教という宗教性、そしてキリスト教と相性のいい、イタリア的な共産主義の思想が根づいているからではないか、とわたしは考えています。
そういうわけで、確かにとりあえずはローマの街は平穏です。とはいえ、他の欧州の都市で起こったような計画的な大規模テロが、イタリアでは起こらない、という保証はどこにもないことも覚えておかなければなりません。さらに、巷間でたびたび語られる「地下の武器マーケットを牛耳るイタリアマフィアが、テロリストたちに自分たちの縄張りを荒らさせないよう、テロを阻止している」という説は、あまり信憑性がないのではないか、ともわたしは踏んでいます。事実、欧州各地で起こったテロ事件の犯人のひとりが、イスラム教に改宗したイタリア人の母を持つ、モロッコで成長しながらイタリアの市民権を持つ少年だった、という報道もありましたし、ネット上では繰り返しローマ陥落を予告するISのプロパガンダビデオが出回っています。
しかし強調したいのは、イスラム教徒には、大富豪であるアラブの王さまから砂漠のオアシスに暮らす民、IT企業で活躍するエリートから難民の人々まで、世界中に16億人もいるわけですから、極端な狂気に走るごく少数のテロリストこそがイスラム教徒のステレオタイプと捉えることは、全く馬鹿げた話だということです。イタリア人が全てマフィアではない、あるいはベルルスコーニでもジローラモでもない、ということと同じです。イスラム教だけでなくあらゆる事象において、イメージを単純化したステレオタイプが、世界中に氾濫している事実には、うんざりもします。
いずれにしても、欧州でテロが頻発しはじめてからは、ローマでも大がかりな取り締まりが行われるようにもなりました。街なかや教会、地下鉄の各駅には銃を持った兵士が立ち、主だった広場にはポリスが群れる。また、国や地方自治体から認可されていない街角のモスクが次々に閉鎖される、という出来事もありました。そういえば、時折「移民を際限なく受け入れていると、今に世界もこうなる」とでもいうような悪意のあるコメントつきでSNSに出回る、コロッセオの広場でモスリムの人々が大挙して祈りを捧げている写真の真実は、街角の小規模モスク閉鎖に抗議してのデモンストレーション。しかも、「信仰の権利、自由」を訴えるイタリア人市民グループにより企画されたものです。
管理不可能な小規模のモスクというスペースで、いわゆる『ジハディスト』と呼ばれるテロリストが育つことを恐れての緊急の当局の対応だったのでしょうが、1日に5回もの礼拝を捧げるイスラム教徒にとってはモスクの閉鎖は大問題でした。また、イタリアの場合、暴力的な原理主義が育つのはモスクというよりは、ちょっとした盗みや罪を犯した移民の青年たちが、服役する刑務所の中で勧誘され、極端な宗教思想に染まっていくケースが多く、勧誘者をイタリアから追放、というニュースがたびたび報道されます。
SNSでイスラム圏からの移民の人々が、まるでローマを侵略したかのようなコメント付きで出回る写真は、ローマ東部で、6ヶ月の間に8つもの小規模モスクが閉鎖されたことに抗議する、イタリア市民グループが企画したデモンストレーション。(写真はIl Giornale紙より引用)
欧州最大のナショナル・グランド・モスク
さて、ここからが本題のグランド・モスク。
前々から一度は訪ねてみたい、と思っていたローマ北部にあるグランド・モスクへの訪問は、イスラム教文化との距離を、少し縮めることができる貴重な経験となりました。このモスクは、イタリア国家が認定した、欧州最大の規模を誇るモスクで、毎週水曜日と土曜日の朝、9時から12時の間、イスラム教徒ではない人々のためにも解放されています(ラマダン月は入場不可)。その日わたしは、ローマの文化アソシエーションが主催するモスク訪問に予約して参加し、モスクや簡単なイスラム教についてのガイドを受け、素朴な質問もいくつかさせていただいた、というのが経緯でした。ローマにいらした際、お時間が許すなら、是非お立ち寄りいただきたい素晴らしいスペースです。
まず、モスクの前を通りかかって外から眺めるだけでも、「大きい!」という印象、見渡す限りの青空と緑、ローマ特有のテラコッタの壁の色はシンプルではありますが、懐の深い世界観を想起させる異国情緒に溢れる眺めです。それまでのわたしはといえば、キリスト教圏にあるモスクの内部がどのような装飾になっているのか皆目掴めず、秘密のヴェールに包まれたイメージを抱いていましたが、実際敷地内に入ると、ひたすら広く、伸び伸びとして、秘密めいた光景はどこにもありませんでした。
全敷地30000㎡、12000人の信者を迎えることができるこのモスクは、周囲の自然との調和を巧みに計算された、力強くありながらも優美なポストモダン建築。モスクの内部はといえば、厳格で薄暗く、閉ざされた空間かと思いきや、光降り注ぐ、清々しい空気に満ちていた。アラブの唐草の模様が美しいブルーの絨毯が敷き詰められ、素足に柔らかく温かい感触が残りました。
「イスラム教徒は、世界中どこにでもいます。中東諸国だけでなく、アフリカ、アジア、アメリカ、そして南米、欧州と、世界各国の、そのイスラム教徒たちがこのモスクに集まって、世界の平和を祈ることはとても美しいことだとも思っています。イスラム教はユダヤ教、キリスト教と同じくヘブライの文化から生まれたものですが、ユダヤ教が民族の宗教、キリスト教が霊性の宗教とすれば、イスラム教はPopolo -人々の宗教だとわたしは思っているんです。通常の金曜礼拝でも、世界中の国籍を持つモスリムたちが、2000人から3000人は集まる。多様な人種が一堂に集まる光景は素晴らしいものですよ」
「通常の金曜礼拝にはどれぐらいの人が集まるのですか」と質問すると、他のメンバーから『教授』と呼ばれていた、イタリア・イスラム文化センターの創立以来のメンバーだというイラク人紳士が、にこやかに仰った。「イスラム教のことを全く知りません」というと、パキスタンの学者、Sayyid Abul A’la Maududiが分かりやすく解説した本、『Conoscere L’islam-イスラムを知る』をも紹介してくださり、「もっとイスラム教のことを知りたければ、たびたびこちらにいらっしゃい」と、誘ってもくださいました。
長い期間、ローマのイスラム教共同体の中心としての役割を担ってきた、このグランド・モスクが支えるのは、3万〜4万人もの信者です。サウジアラビアの王室、メッカ、メディーナ、さらにはモロッコから資金の援助を受け、イタリアのポストモダン建築を牽引した建築界の重鎮、パオロ・ポルトゲージの指揮のもと、エンジニアでもあるヴィットリオ・ジリオッティ、イラク人建築家のサミ・モウサウィ、ニノ・トッツォと、イタリアとイスラム世界の共同プロジェクトとして進行。1974年に草案が作られ、1984年に着工、それからほぼ10年の歳月をかけて1995年に完成しています。
そもそも緑の多いローマ北部にあるグランド・モスクの周囲は、森林が広がり、ローマでは珍しく車の行き来も少ない閑静な地域。自らを抱く自然との調和が重要な要素でもある、このモスク内部の、絡み合う樹々をシンボライズした柱が天井に続く、有機的なデコレーションが穏やかな開放感を醸している。また、広々としたモスクの壁一面に使われた、鮮やかな色彩のタイルの繊細なアラベスクは、トルコから取り寄せたもの。建物の一角には、さまざまな国から来たイスラム教徒のためのアラブ語の学校、また、学者やリサーチャーのための図書館も併設され、文字通りローマのイスラム文化のセンターとなっています。現在、イマームとしてこのモスクに常駐していらっしゃるのは、サラー・ラマダン師です。
イタリアとイスラム教諸国の歴史
ところで、キリスト教国イタリアとイスラム諸国の関係は、といえば、はるか1000年を遡る攻防の歴史がある。中世期、ノルマンディとイベリア半島を征服したウマイヤ朝のモスリム勢力が、イタリア半島にまで勢力を拡大しようと、何度も攻め込んでいます。シチリアにはすでに紀元652年ごろから、ビザンチン帝国を攻略したシリアのムスリム勢力が侵攻した、という記録が残り、827年から902年までは、実際、その勢力の統治下となりました。
また、南イタリアのカラブリア、プーリア、北部ロンバルディアも度重なる侵攻に苦しみ、ヴァチカンのあるローマも、幾度となく陥落の危機に晒されては、きわどいところで侵攻を食い止めている。そののちは、聖地エルサレムを巡り、欧州の十字軍とイスラム諸国勢力との間で(ユダヤ教徒も含めて)、長い攻防が繰り広げられたのは周知の通りです。
なお、中世期、イスラム勢力の統治下にあったシチリアでは、1239年ぐらいまではイスラム教徒のちいさい共同体が残っていたようですが、そののちはすっかり消滅、共同体が存在したという記録は残されていません。たとえばパンテレリア島などに行くと、イスラム勢力がシチリアを統治していた時代の建造物が遺り、イスラム文化を身近に感じるので、イスラム共同体が中世以来、イタリアに全く存在しなかった、という史実は意外にも感じました。それから長い空白期間を経て、イスラム教徒がイタリアへと移住するようになったのはごく最近、1960年代に入ってからのことだそうです。
その60年代、まずはじめにイタリアを訪れたのは、シリアやヨルダン、パレスティーナのビジネスマンや大使たちでした。そして70年代には、留学で訪れたイスラム諸国の学生たちが訪れ、その学生たちがスンニ派の大使たちやヴァチカンの援助を受け、現在のグランド・モスクの基盤、イタリア・イスラム文化センターを設立、グランド・モスクのプロジェクトを開始しています。
80年代に訪れたのが、モロッコなど北アフリカの人々、さらに90年代になると、アルバニア、チュニジア、セネガル、エジプト、パキスタン、バングラデッシュから、2000年代にはルーマニア、ウクライナの東ヨーロッパ、南米の人々と、世界中のイスラム教徒がイタリアに移民するようになった。イタリアを訪れるそのほとんどは、スンニ派のイスラム教徒です。
初心者のためのイスラム教ガイド
前述したように、わたしはまったくのイスラム教初心者で、シーア派、スンニ派の葛藤や、イスラム諸国それぞれの歴史、風俗はもちろん、現在の政治状況も詳細を語れるほどには精通していません。そこでここでは、現在のイスラム諸国の状況、紛争、戦争については触れることなく、モスクで説明していただいたこと、サウジアラビア大使館がシンプルにまとめたイスラム教ガイドを元に、今回理解したイスラム教のおおまかな基本を、簡単にまとめてみようと思います。学問として研究なさった方や、イスラム教世界を実際にご存知の方には「そうじゃない」という部分があるかとも思いますが、その場合は、どしどしご教示いただければと思います。
何より、今回改めて再確認したのは、「イスラム教は、神の憐れみと世界の平和を教える宗教で、暴力やテロリズムとはなんら関係のない宗教である」ということ。そしていまや有名な『ジハード』という「聖戦」を意味する言葉は、知識を深めるために学問を追求する、という意味もある、という新たな発見もありました。自らの欲望や金銭、物質が『神』の存在を超えることはありえないという、神への信仰を中心としたイスラム教徒の自制的なライフスタイルは、拝金主義、利己主義が当たり前のように世間を席巻し、畏れなく、天井知らずの欲望の塊が渦を巻くわたしたちが住む世界にとっては、ある種のメッセージを孕む宗教なのではないか、とも考えた。また、ここではスンニ派のモスクでのお話を参考にしていますが、基本理念はシーア派と変わらないということです。
さて、そもそもイスラム教徒、ムスリムとは、あらゆる人種、国籍、文化に関係なく、イスラム教を信仰することで連帯する16億人の人々。唯一神『アラー』、神の創造物である天使たち、神の言葉を伝えた預言者たちを信仰し、『神』こそが、死のあとに来る人間の運命を握る最高権威であり、審判の日、全ての人間は、自らが成した行動により裁かれる、と考えます。キリスト教と同じく、アダムからはじまり、ノア、アブラハム、イスマエル、イサク、ヤコブ、ジョセフ、ヨブ、モーセ、アロンネ、ダビデ、ソロモン、エリア、ヨナ、ジョバンニ・バッティスタ、イエスという預言者の系譜を認めますが、神の言葉、永遠のメッセージを確認し、それまでに起こった歴史を要約した最後の預言者はムハンマドとし、その教えは神と同等の重要さを持ちます。
なお、ユダヤ教、キリスト教の『聖書』、およびキリスト教の『福音書』は、神の言葉ではなく、口伝された物語を後世の人が書き残した書物ですが、『クルアーン』は、ムハンマドが神からダイレクトに伝えられたそのままの言葉を残したとされる。また、アラブ語で神を表す『アッラー』は、キリスト教の神をも意味しているので、アラブ圏でキリスト教を信仰している人々は、イスラム教同様、神をアッラーと呼ぶのだそうです。
たとえば、イスラム教に改宗したいと思ったとしましょう。その場合、特別な儀式を受けたり、準備期間や学習の必要はなく、「神の他には神はなく、ムハンマドこそ神のメッセージである」と宣言するだけで、イスラム教徒として認められ、神から贈られ、書き記されたメッセージへの信仰を表明することになります。『イスラム』とは、そもそもアラブ語で『従属』、『平和』を指す言葉が語源で、宗教的な意味においては、文字通り、神の御心に従属するということです。
イスラム教には信仰の告白、礼拝、Zakat (浄化、成長)、ラマダン月の絶食、メッカへの巡礼という5つの柱がありますが、その中でも、Zakatはイスラム共同体を知るための、非常に興味深い教えです。イスラム教では、あらゆる全てのものは神に従属すると考えるため、個々人の富もまた神から人々に贈られたものであり、個人の所有物ではない、とみなす。したがって全てのイスラム教徒には、毎年、資本の2.5%を喜捨することが決められています。もちろん、イスラム諸国においてもまた、権力の座にいる者が富を独占するケースが後を絶たないのも現実ですが、本来は自らの富は独り占めにするためにあるのではなく、同胞を支える施しのために使われる、というのがイスラム共同体にとっては重要な教えです。
ムハンマドとクルアーン
イスラム教の開祖、ムハンマドは紀元570年、キリスト教がまだ欧州に完全に根づく以前の時代に、メッカに誕生しています。生まれる前に父を、さらに幼くして母を亡くし、クライシュで叔父に養育されましたが、成長するにつれ、真実、寛容さ、誠実に対する深い愛情を人々に認められるようになり、論争を解決する優れた能力を買われて、地域の人々の相談を引き受けるようになりました。当時の歴史家たちは、ムハンマドの人柄を、穏やかで、思慮深い人物として書き残しているそうです。非常に宗教心が厚く、退廃的な俗世を嫌い、メッカの近くにある光の山、ジャバル・アル・ヌールの頂上にあるヒラの洞窟で瞑想する習慣が、ムハンマドにはあったということです。
イスラム教の教典であるクルアーンは、前述した通り、天使ガブリエレを通じて、神からダイレクトにムハンマドに託された言葉で、ムハンマドの生前にはすでに書き記され、したがって宗祖が実際に認めた教典ということになります。この、114章からなるクルアーンは、ムハンマドが明らかにした奇跡の書とされ、信仰とムスリムとしての宗教的実践について記され、知恵、教義、信仰、法律など、人間に関わる、あらゆる全てのテーマについて言及されています。その中心は『神』とその『創造物』、人との関係ですが、と同時に正しい社会のあり方のためのガイド、人間としての正しい振る舞い、経済システムの均衡についても記されています。
「他を哀れまない者を『神』はお哀れみにならない」「自分が望むことを、他の兄弟たちのために望むようにならなければ、真の信仰者ではない」「隣人が飢える傍にいながら、自分だけ飽食するのは真の信仰者ではない」「正直で信頼できる商人は預言者や聖人、殉教者に並ぶ」「権力者とは敵を陥れる者ではなく、自らの怒りを抑制することができる者だ」「神は、あなたがたの容姿や見せかけであなたがたを判断しない。しかしあなたがたの心、その行動を見透かす」「動物にも思いやりを持って報酬を与えなければならないのか」という問いには「生きとし生けるものすべてに思いやりを持って報酬を与えなければならない」と記されている(クルアーンの例をイタリア語で抜粋されたものを日本語に訳し引用)。
イスラム教は創設された直後から急速に世界各地に広がり、現在も信仰者の数を増やしていますが、その理由としては、唯一神アッラーを信じ、ひたすら愛するという、その信仰のあり方のシンプルさが一因とされています。また、ムスリムであるなら男女に関わらず、知識を掘り下げていかなければならない、というムハンマドの教えから、人々が知性の力を善い道に使い、思慮深くある能力を鍛えるため、短期間に技術水準の高い文化生活が生まれ、学び舎が作られたという経緯もありました。
その学び舎でムスリムの学者たちは、東洋と西洋の学問を統合、さまざまな分野において、新しいコンセプトを発見。特に医学、数学、天文学、地理学、建築、文学、歴史学の発展に大きな貢献をしています。代数学や世界中で使われるアラビア数字、さらにゼロの概念は、中世期にイスラム文化が欧州に伝えたものです。
実際、産業革命が起こるまでのイスラム教文化は、西洋に影響を与え続ける知識の源泉でもあった。産業革命を背景に、原油をはじめとする資源産出国であったイスラム諸国は、第1次世界大戦後、オスマントルコが解体されたのち、イギリス、フランス、ロシアに分断され、世界における役割は大きく変わりました。
ところで、グランド・モスクに集まったイタリア人の女性たちからは、イスラム圏の女性の女性の権利に関して、「モスクでは女性の祈る場所は男性が祈る大ホールではなく階上に分離されているが、それはなぜなのか」あるいは「幼い少女を親の采配で結婚させる風習があると聞くが、それは人権侵害ではないのか」「4人まで妻を娶っていい、という結婚システムに問題はないのか」という質問が矢継ぎ早に飛びました。イスラム諸国における女性の人権問題は、イタリア人にとっては、やはり一番の関心事です。
その質問に対して、ガイドをしてくださった方が答えたのは、「モスク内で女性と男性の祈る場所が違うのは、男女が一緒だと、単純に祈りの最中に気が散るからです」、また幼い少女の結婚に関しては、「幼い少女を結婚させるという風習はイスラム教自体にはありません。それぞれの国、例えばアジアの一部、アフリカの一部という、その土地特有の風習です」というものでした。一夫多妻のシステムについては、イラク人紳士が、「現代では、一夫多妻というシステムは難しくなっている。夫はすべての妻に対して物質的な待遇も、愛情も平等でなければならないとの教えは、遠い昔、男たちが戦場へ出かけなければならない時代のシステム。女性の方が男性に比べて数が多い時代のシステムです。わたしの妻は生涯1人です」と現実的に答えてくださった。
イスラム社会は父権社会であり、特に女性への処遇、規律がわたしたちの常識とは乖離する部分があることは、紛れもない事実です。わたし自身はフェミニストとして、男女だけでなく、全ての性、人種の不平等は絶対に許容できませんが、それぞれの宗教のアイデンティティを無視して、自らが持つ価値観こそが絶対の正義だと押し付けることは暴力だとも考える。
現在のローマでは、近年になっていよいよ増加した、イスラム諸国の人々の信仰、そして文化を、ローマ市民が守っていこうとする動きが多く存在し、活発な活動が行われています。このように、人種、文化の多様性を許容することが社会を豊かにし、さまざまな価値観がせめぎ合ううちに、理解やリスペクト、新たな価値観が形成されていく。また、イスラム世界においても、時代とともにさまざまな価値観の見直しが検討されていることは頼もしいことです。
なお今回は、イタリアの小学校や中学校に通うイスラム教圏の移民の子供たちが、どのように過ごし、何を考え、何に悩むかを知ることはできませんでしたが、機会があれば、第2、第3世代の子供たちの話も聞いてみたいと思いました。
イスラム教徒が多く生活するわたしの住む地域では、ラマダン明けの早朝には、あちこちの広場から拡声器で朗々と祈りの言葉が響き渡り、まるでエジプトにでも滞在しているような気分で目覚めます。外に出かけると、老いも若きも子供たちもイスラム教徒の正装、女性たちの色鮮やかな晴れ着が目に飛び込み、ローマにいながら旅をしているようで、なかなか壮観な光景です。太陽が上っている間、食物も水も口にせず、性欲も含めた肉体が持つ全ての欲を絶つラマダンは、自らの生理をコントロールする能力を鍛えるトレーニング期間でもあるのだそうです。
さて、今年、ローマのグランド・モスクの基盤であるイタリア・イスラム教文化センターの責任者に、PD(民主党)の国会議員、イタリア移民第2世代のモロッコ人、カリッドゥ・チャオウキ氏(1983)が選出されました。彼はイタリア人だけでなく、イタリアに移住したイスラム教徒の間でも、その名がつとに知れ渡った人物でもあります。「イタリア国家のグランド・モスクを、イタリアのイスラム共同体のためのモスクにする』という果敢な考えを持つ彼が、今後、この壮大なポストモダン建築のグランド・モスクを、どのように変革させていくのか、政治的な動きも含めて楽しみにしているところです。