作品を読めば、作者の人柄がなんとなくわかります。作品作りに妥協がなく、登場人物に浮かれた部分がなく、それでいて窮屈ではない。自分の生き方をきっちり守る職人タイプの作家。吉村昭さんは本当に素晴らしい。
体長3m。体重400キロのバケモノ羆
大正三年、北海道の山奥、貧しい村落の話。冬が厳しい。寒さで雑炊が凍り、床には氷が張る。何もできない寒さの中、貯えた食料を少しずつ口にしながらじっと春を待つ。
そんな村に「やつ」が出た。体長3m。体重400㎏のバケモノ羆。夫が外出中に家が破壊されていた。壊れた家の中に入ると惨殺された子どもの死体はあった。しかし、妻の姿がない。村の男たちに声をかけ、みんなで山狩りしてようやく妻(死体)が見つかった。妻は小さくなっていた。頭蓋骨と一握りの頭髪と片足の膝下部分だけ。泣き崩れる夫。
妻の死体が見つかったことで、ようやくその日に通夜が行われた。その通夜振る舞いの終わった深夜、また「やつ」があらわれた。同じその家に。家を散々あらした挙句、餌(人間)がいないとわかると隣家へ突入した。
隣家には6人の女や子どもがいた。その悲鳴を聞きつけ、村の男50人が、ぐるりとその家を取り囲む。入り口には銃をもつ5人の男が待機した。ひりつく静かな闇の中、不気味な音が響いた。羆が骨をかみ砕く音だ。
突然、区長たちの肩がはずむように動いた。音がした。それはなにか固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音だった。それに続いて、物をこまかく砕く音がきこえてきた。区長たちの顔が、ゆがんだ。音は、続いている。それはあきらかに羆が骨をかみ砕いている音であった。
家を飛び出した羆は、男たちの間をすりぬけ裏手の闇にとけ込んだ。男たちは家の中に入った。家の中は悲惨なことになっていた。天井にまで飛び散る血。床と土間には血にまみれた肉と骨の残骸。
熊というと、これくらいの大きさを想像する方が多いのではないでしょうか。
違うようです。体長3m、体重400㎏の羆とは、これくらいです。一撃で牛や馬の首をへし折るパワーを持っています。
羆は火を怖がると信じられていたので、どの家も火は絶やさなかった。なのに襲われた。かまどの上部を破って侵入している。まるで火の上を跳ぶように羆は入ったことになる。銃弾は当たらなかった。鍬や鍬、鎌など、あの羆には何の意味もなかった。50人いても羆にとってはただの餌だ。次、やつが来たらどうするかみんなで話し合った。区長が出した結論は「脱出」。女や老人、子どもは逃がそう。そして、警察を呼ぼう。警察なら最新火器も射手もいるはずだ。警察が来るまでは、村の男50人が村を守る。
待つ間、銃を持ちながら羆に何のダメージも与えられなかった5人には、蔑みの目が向けられた。特にその中の一人の老人に周囲の当たりは厳しかった。彼はいつも猟の自慢ばかりしていた。人を襲った狼を何頭もしとめたという話は、村の誰もが聞いていた。自慢話ばかりで銃を一切手にしない老人に「もう猟には行かないのか」と尋ねると、老人は「鳥や小動物には興味がない」と語っていた。皆がそれを信じていた。
しかし、彼の銃はあの羆を前にして不発だった。老人は今、無口で頭を垂れて銃をいじっている。自慢話を淀みない口調で話していた、かつての面影はまるでなし。
あてにならない警察と救援隊
何十人もの救援隊を連れて、警察が来た。「現場を見せろ」と意気込み、村の区長を連れて山を登り彼らは我先にと家の中に入った。彼らは凄惨な現場を見て震え上がった。
その時、家の外で大きな音がした。羆が出たと思った男たちは入口に殺到した。その際にランプを蹴飛ばし、場が闇になった。続々と家を出て抜きつ抜かれつ走りながら降りてくる100人近くの集団を見て、村落で待っていた村の男たちは羆に追われていると思った。救援隊が羆と勘違いした音は、家の外に積んであった薪が崩れた音だった。救援隊にさきほどの勢いは一切なくなった。帰り支度を始める者も出た。「この男たちはたよりにならない」村の男たちはそう思った。
あのバケモノ羆を倒せるのは、羆撃専門の老練な猟師以外にない。銃を扱う優れた技能と豊かな経験を持つ猟師が俺たちには必要だ、村の男たちはみなそう思っていた。
彼等には、思い当たる猟師が一人いた。その名は山岡銀四郎。しかし、誰もその名を出さない。羆を追う執拗さと体力と実績は誰もが知っていた。ただ、性格が粗野で酒癖がとにかく悪い。腕は確かだが、見境なくけんかを仕掛け、相手を昏倒させ、留置場に何度もぶち込まれた破天荒な老人でもある。呼んでも傲慢な態度で笑われるだけだ。
ところが警察もあてにできない。もう彼にしかいない。銀を呼ぼう。笑われても殴られても、拝み倒して来てもらおう。区長は、銀を呼ぶための使いを出した。
やってきた真の羆撃ち、山岡銀四郎
銀は来た。「何を言われても堪え、羆を倒してもらおう」村の男たちはそう決めた。しかし、銀は村の男たちに「災難だったな」と声をかけ、軍帽をおもむろに脱いだ。あの乱暴者の思いがけない態度に男たちは驚き好感をもった。
「今すぐ現場に案内しろ」銀に言われ区長は案内した。銀は警察と救援隊が震え上がった現場を見ても落ち着いていた。夜、区長がおそるおそる酒をすすめると、軽く口をつけただけで横になった。これがあの荒くれ者の銀四郎か、羆を前にする際は酒を口にしない。こいつは本物だ。彼ならやってくれる。区長だけでなく村の男たちはみなそう思った。
警察と救援隊が、銀に羆の行動を聞く。「やつは、川の向こうにいるがこちらに来たがっている。やつと言えど、この冷たい川を渡るのは嫌がる。必ずこの橋を渡ってくる」。銀の指示通り、深夜、橋の手前で銃を構える救援隊の射手たち。しばらくして音がする。何者かが橋を渡っている。羆だ。撃て!警察の合図で一斉に射撃を始める救援隊。ところが羆は風のように橋を渡って闇に消えた。銀は銃を撃たなかった。「闇の中では当たらない。急所を撃たなければ羆は止まらない。羆は傷を負ったようだが、あの程度はかすり傷だ。風のように消えたあの速さを見ただろう」もっとひきよせないと銃は撃てない」銀はそう語った。
遂に羆と対峙する銀、どうなる銀!
救援隊は、雪に残る血痕を頼りに羆を追った。途中、銀は諦めたように救援隊の指揮を執る警察官に言う。「俺は逆を行く。羆の逃げ道をふさぐ」と。このままでは羆を捉えられない。下から追いかけ、追いついたとしても、上からあの巨体が暴れ転がってきたら何人もの人間が死ぬことになる。
区長が案内役を申し出た。死ぬ覚悟はできている。俺を連れて行ってくれ、と。銀は区長とともに別行動を取った。別方向から山を登りに立つ。銀の目が光る。足音を殺し進む。羆の気配を感じたのか。銀が止まった。区長には羆がどこにいるかわからない。銀は銃を構えた。背筋を伸ばし、水平に銃身をつき出している。なんと美しい立射の姿。これは本物だ。
闇の中を、大きな岩石のような羆が突然あらわれ向かってくる。雪で周囲が白く煙る。どんどん近くなる羆、まだ、撃たない銀。大鎌を構え動かない区長!
短編もおもしろい、だけど、個人的にはこのくらいの長さが丁度いい。250ページ。本当にあった話だとのこと。ただただ引き込まれる。吉村昭、最高。