だからこそ、私たちの問題の鍵は作家性である。
現代においては、さまざまなシステムにおける人権の侵害が叫ばれるようになった。悲しいことに、私の友人もみな自らの人権を犠牲にして働き続けている。そうしなければ生きてゆけないからだ。しかし、我々がこの状態を悲しいと感じるのは、人権を考慮できるだけの経済的余裕を身につけたからでもある。
数年前に還暦を迎えた私の父が明かしてくれたのだが、彼が若いころの産婆の役割とは――妊婦の産褥の苦しみを軽減することはもちろんだが――様子がおかしい子供が生まれてきた場合に、その子供の首をぽきりと折ることだったという。これが事実だとすれば凄絶な話だが、続きがある。産婆がそうした暗い役割をこなすことになった場合には、父親があとから産婆に金を握らせるのが通例であった。
私たちに必要なのは英雄ではなく、あなたのそばにいて親身に話を聞いてくれる、友ではなかろうか
これが事実だとして、このことの意味をよく考えてみよ。その金は、様子がおかしい子供を育てることによって消尽されるはずだった富の一部なのだ。理に適っていると思わないだろうか。富を再生産できない個体には、死を。凄すぎて、涙も出ない。
私には姉がいたが、ゼロ歳で死んだ。公には流産ということになっているが、もう正確な日付も思い出せないほど遠く暗い夜に、父は私に真実を語ってくれた。役所に届けるはずだった出生届には、いまでも明日香という、実在しない私の姉の名が記されている。
私は様子がおかしな姉に会ってみたかったと思うし、折りに触れて彼女と暮らしているところを想像してみたりもする。そして現実がこのような構造であるとき、もはや私たちに必要なのは英雄ではなく、あなたのそばにいて親身に話を聞いてくれる、友ではなかろうか。
もういちど言おう。私たちの問題を解く鍵は作家性である。
芸術は現実を模倣する。しかし芸術の作者は神ではない、ただの人だ。そのために作者たちは現実の99.999パーセントまでを間引いて、残りの0.001パーセントで作品を作る。それ以上の仕事は、人間のみじかい生涯では達成できない。そして芸術の効果が世に認められ、より多くの富がやりとりされるようになったとき、私たちはハリウッドやAAAタイトルの制作スタジオを擁立して、現実をより巨大なサイズで模倣しようと試みた。
試みのいくつかは成功した。しかし成果として生まれてきたのは神話めいた英雄譚ばかりであり、私たちの現実の諸要素を偏執狂的に拡大解釈したものでしかなかった。断っておくが、これは批判ではない。英雄譚がまったく存在しないよりは、英雄譚があるほうが良い。しかし現実に生きる我々にくらべて美しすぎる男優や女優が、あまりにも美しすぎてほとんど畸形の印象を与えるような現代という時において、英雄譚はその効力を徐々に失いはじめている。要するに、我々の生活の感覚と密着するようなリアリティの種類が、すこしずつ変わってきているのだ。
先進国におけるインディーズの、というより作家性をもつゲームの台頭は、この時代の変遷とかなり密接な関係がある。私にしてみても語りにくい、語ったところでどうなるとも思えない、ゼロ歳で死んだ姉の物語を抱えている。この文章を読んでいるあなたにしてみても、他人にどう語っていいものか判らないような、不思議な話をいくつも持っていることだろう。
私が言いたいのはこうなのだ――現実がこのように複雑に入り組んでいるとき、あなたが心から受け入れられるのは英雄の物語ではなく、あなたの友の個人的な物語ではなかろうか。私のある友人の両親は、彼女が若いころに離婚した。べつの友人の家系図は混乱していて、おそらく彼自身もロシアの血を引いている。小学生のころの友人の母は交通事故で逝ったし、私自身級友を亡くしたこともある。こうした話はいくらでも見つかるし、うまく語られれば、私たちの心をより深くとらえるものでもある。
ビデオゲームが、たった数名の手で作られるような時代に、やっと回帰してきた
だからこそ、文藝が復興するのはまさにこれからだと思う。そして(物書きとしてちょっと残念ではあるのだが)その主潮は文学ではなく、ビデオゲームのなかで起こる。なぜか? ビデオゲームが、たった数名の手で作られるような時代に、やっと回帰してきたからだ。
ファミリーコンピュータの時代、個別のゲームを制作していたのは数名のチームばかりだった。「スーパーマリオブラザーズ」でさえそうなのだ。このようなチームにおいては、ひとりひとりの声が作品によく反映され、私たちはその声を聞き分けることができる。しかし百名以上の人の手によって作られたゲームは、百名以上の人の声によって混濁していて、なにも聞き取ることができない。
(もちろん、これは非常に一般化された話であるし、私は「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」が大好きだ。)
作家性という言葉について、もういちどよく考えてみてほしい。もちろんこの言葉には、遠いむかし、自分たちこそが芸術の主潮だと調子に乗っていた日本の作家(小説家)たちの傲慢が含められているのだが、そこは許してあげよう。そうではなくて、作家、つまり小説家の仕事が、つねに一人きりで向かう深夜の机の上で達せられることに、思いを馳せてみてほしい。現代において、おなじ性質の仕事を行っている人々は多くいるが、それはなにも小説家だけではない。ゲームの作者だって、そうなのだ。
ゲームを作った人間が、まさしくこのように受容されることを求めてゲームを作ったのだと、確かに感じられる瞬間
彼らが夜ごとに机に向かって書き上げるゲームのサイズは小規模である。それは、この連載の文章がこれだけの量に留まっていることとよく似ている。あなたはいま私の声を聞いているが、この声はひとりの人間が語っていると感じられるだろう。インディーゲームをプレイするときにも、おなじ感覚がある。ゲームを作った人間が、まさしくこのように受容されることを求めてゲームを作ったのだと、確かに感じられる瞬間がある。
どうしてそんな感じがするのか? 簡単だ。彼らは、私たちに話を聞いてほしいのだ。言葉では伝えきれない苦しみ、喜び、悲しみ、怒りを聞いてほしいのだ。あなた自身、話していくそばから、自分がほんとうに言いたかったことの意味が失われていくと感じたことはないか。朝の挨拶をして、返事が返ってこなかった経験はないか。相手を笑わせようと思って言ったことの所為で、相手を怒らせてしまったことはないか。
ほんのわずかな意味の喪失さえ絶対に許容できないと感じるような主題を、個々人がそれぞれの心の奥深くに抱えている現代のような時代において、彼らが昼過ぎの茶飲み話のかわりに、ひとりきりの夜の机で行うことは、ただひとつ。
創造だ。
だから私はこの場を借りて、誰にも認められずに机に向かい、この困難な時代にゲームを作り続けている人々にむけて語りたい。あなたがたの行っていることは、正しい。これだけは、誰にもちがうとは言わせない。絶対に言わせない。あなたの周囲の人々は、ゲームを作っていると言うだけで、もっといい仕事に就けと言ったり、言明せずとも侮蔑的な視線を投げかけたりしただろう。そんな屑どものことなんか、放っておけばいい。
私はあなたの友だし、この連載を読んでいる人々の多くもあなたの友だ。なぜか? 私たちはあなたの声を聞きたい、あなたのゲームをプレイしたいのだ。なぜか? 私たちは、何度も何度も、数え切れないほどたくさん、ゲームに人生を救われてきたからだ。病めるときも健やかなるときもゲームとともに生き、ゲームが与えてくれる喜びをもって生きる糧としてきたからだ。凍えるように寒い薄明の時間、ディスプレイに映し出された映像と、手元にあるインターフェイスが、私たちの心をやさしく温めたからだ。
あなたは勇敢な人々である。私はあなたの行為を、おなじ人間として、心から誇りに思う。あなたは自分自身の物語を耐えているだけでなく、それをできるだけ多くの人に伝えようと、心から感動させようと、真剣に手を動かし続けている。グリッチによって痛ましく傷つけられた現実に負けることも、他人を傷つけることもなく、静かに、情熱をこめて、ゲームを作り続けている。
言い換えれば、あなたこそが英雄なのだ。あなたは大きな物語の英雄ではない、もうそんな時代は終わった。そうではなくて、現実を生きるという途方もない仕事をこなしながら、それでもなお他人のために語ろうとする態度、それこそが現代の英雄なのだ。あなたの行為を嗤うものへの感情は、同情に留めておくことだ。彼らは自分で語る術をもたない、哀しい人々なのだから。
何度も何度も、数え切れないほどたくさん、ゲームに人生を救われてきた
そして――私は誰からも認められずに机に向かい、この困難な時代にゲームをプレイし続けている人々にむけても、語りたい。あなたはゲームをプレイしているのではない。あなたは人間に触れているのだ。あなたは上体を語り手のほうに傾けて両手を組み、あなたのお気に入りのゲームを創造したすばらしい英雄たちの話を熱心に聞く、彼らのいちばんの友なのだ。ゲームなんか時間の無駄だとのたまう屑どものことなんか、放っておけばいい。
私はあなたとおなじ作者たちの友であるし、これからもずっと友でありつづけるだろう。なぜか? 私は、彼らの声を聞きたいのだ。彼らのゲームをプレイしたいのだ。なぜか? 私は、何度も何度も、数え切れないほどたくさん、ゲームに人生を救われてきたからだ。信じられないほど寒い冬の空の下、世界のどこかにいる誰かが作ったゲームに触れ、そうすることで暖められてきたからだ。
この行為が間違っているなんて、世界の誰にも言わせない。発言者が現実のシステム上でどんな権力を持っていようと、関係ない。ゲームか死かを選べと言われれば、私はそいつを撲殺する、「Hotline Miami」のように、「RUINER」のように、「Hyper Light Drifter」のように。それだけだ。
もう一度言おう。あなたがインターフェイスを通じてゲームにコマンドを入力するとき、返ってくる反応は、ただの無機質なシステムの応答ではない。それは、ゲームシステムを虚無から組み上げた、創造者の声なのだ。私たちとおなじような孤独を経験し、私たちとおなじように苦しんだ、市井の人々が組み上げた、洗練された声なのだ。
だからこそ私は言おう、ゲームこそが新しい時代の芸術であると。ゲームによって救われる魂の数は計り知れないと。私たちの電子的遊技を止めることは誰にもできない、それは、私たちの人生を止めることに等しいのだと。これこそが私にとっての人生の解釈であり、ゲームが人生の解釈である証左である。