「ご家族、ご親族の方、どうぞ前へ」
葬儀の司会の言葉にうながされ、家族や親族が最後の別れに棺を囲む中、離れたところで、顔を少し歪めながら、その様子を見つめている若い男性がいた。
急逝した男性が、最後まで付き合っていたパートナーだ。自宅で急死していたのを発見したのもその彼だった。
「家族、親族」に呼びかけられたその言葉を前に立ちすくむ、残された彼の辛そうな表情を10年経った今でも忘れることができない。
あるレズビアンの友人は、重い病気を患い緊急入院したとき、医療措置の同意書へのサインを、ともに暮らして4年になるパートナーにもらうことを希望したが、医師がそれを認めなかった。
別居して暮らす父親が来るまで待たなければならず、その間、パートナーには何も知らされなかったという。そのときのことを、今でも悔しそうに語る。
また、20年つきあった恋人が、脳溢血で障害を持ったことをきっかけに、兄弟に引き取られるようにふるさとに帰ったという経験を持つゲイがいる。
彼は、その後も、新幹線で足繁く見舞いに通ったが、家族でもないのに頻繁に通う彼らの関係を訝しがった同室の人の心無い噂に、入院している彼が居心地悪くなるのを申し訳なく思い、だんだんと通いづらくなったという。
その彼が亡くなったことは、兄弟から知らされた。彼は、そのときのことを振り返りながら、静かに「もっと通えばよかった」とつぶやいた。
どの関係も、同性カップルでなければ、状況は大きく違ったことだろう。
異性間なら、正式な婚姻関係になくとも、内縁の関係として認められ、まわりからもそのように扱われることも多い。少なくとも、パートナー側も、もっと自分たちの希望を強く伝えられたかもしれない。
2015年に、日本で初めて、行政が同性間のパートナーシップを認めた制度が開始されたことの意味を考えるとき、長い間、積み重ねられてきた、いや積み重ね続けられているこうした同性カップルの悲しさ、悔しさに思いを馳せずにはいられない。