しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

[自炊の余禄]創作を推進する最重要エネルギーの一つはパクリじゃないかということ(その2)

むろん作家自身が「パクリ」という単語を使っているわけではない。例えば栗本薫は、惜しむべきことに未完に終わった大長編小説『グイン・サーガ』シリーズの第11巻『草原の風雲児』のあとがきで、読者の「この作品の下じきになった作品があるのかどうか」の質問に答えて、こう書いている。

答えは両方―あります、でもあり、ありません、でもあります。この作品に先行している、神話、伝説、サーガ、その他はまったくありません。いろいろな神話から神や人の名をかりてはいますし、また北欧神話の一部などは少しイメージして、意識的にとりこんだ部分もありますが、全体としてはまったく私の創作です。イロン写本やアレクサンドロス兵法、「ケイロンの書」等に関していうと、ラブクラフトにおけるネクロノミコンと同じことです。しかし、いろいろな神話をかさねあわせることで、イメージがふくらむのだったら、それもいいことだと思うのですが。
しかし、下じき、というのを、そういうものの中から生まれてきた、というようにとらえるのなら、むろんいろいろなものがあります。「三国志」「水滸伝」「水滸後伝」はいわずもがな。「デューン」「エジプト人」「大地」そして特に、「三銃士」「女王の首飾り」「モンテ・クリスト伯」などのアレクサンドル・デュマの作品。そして私の好きなたくさんのマンガ、映画。「アラビアのロレンス」やら「アンジェリク」やら、「ロマン」やら。そしてむろん、コナン、火星シリーズ、C・A・スミス「折れた魔剣」など。ノースウェスト・スミスやクトゥルー神話。

グイン・サーガ11 草原の風雲児』P287

『グイン・サーガ』シリーズは、巻を追うにつれて「あとがき」の文体がどんどん変わっていく。22巻『運命の一日』のあとがきには、こんなことが書いてあった。

前回はおくめんもなく・ゴッドマーズごっこをしましたが、今回はさらにハレンチに「北斗の拳」ごっこしてるから、さがしてみて下さい。目いっぱい「オルフェウスの窓」ごっこもしたし、満足、満足。

グイン・サーガ22 運命の一日』P280

“「北斗の拳」ごっこ” というのは、これのことかな?

パルドゥールは激昂して云った。
「ともかくきさまのそのへらずロというものは、何があってもへこたれない、どんなことがあってもうわてに出る、どんな悪人だろうとゆるし、理解してやろうというんだから恐れ入る。しかし、いいか、グイン、少くともさいごの勝ちはおれさまのものだぞ。おまえはわかるまいが、もうとっくに、勝負はついてるのだ。おまえはもう死んでいるのだぞ!」

上掲書 P165

グインというのはシリーズの主人公、パルドゥールというのは、ま、雑魚キャラである。マンガ『北斗の拳』の主人公の決めゼリフが「おまえはもう死んでいる」だというのは、世間では今でも覚えられているだろうか?

あらずもがなの説明を重ねると、『六神合体ゴッドマーズ』という1980年代アニメは、忘れ去られたと言っていいんじゃないだろうか。忘れ去られたというのは、同時代の視聴者以外への広がりは獲得していないんじゃないか、という意味だ。キャラクターの造形がよかったので、一部の、今でいうところの「ヲタ」とか「腐」とか呼ばれる層への受けはよかったように記憶している。だがストーリー的には、さほど見るべきものはなかったんじゃなかったかな? だから私には探せない。

なお『オルフェウスの窓』は、池田理代子が『ベルサイユのばら』に続いて、ロシア革命に取材して描いた歴史マンガだが、こちらは私は読んでいない。17巻『三人の放浪者』のあとがきに、こんな部分があったので引いておく。私にはわかりませんが、ご存知の人は楽しめるかも、ってことで。

いや、ついに「オル窓」してしまったでせう。するてえと、マリウスがイザークで、シルヴィアが、アネロッテさんで、クラウスが――まさかグインってことはない。

グイン・サーガ17 三人の放浪者』P288

豹頭の仮面―グイン・サーガ(1) (ハヤカワ文庫JA)

豹頭の仮面―グイン・サーガ(1) (ハヤカワ文庫JA)

 

栗本薫以外で思いつくのは、ミステリ作家の殊能将之が、いつも著書の巻末に「参考・引用文献」と称して膨大な文献リストを並べたことだ。その早すぎる晩年に刊行された一冊である『キマイラの新しい城』では、P458~462の5ページ、60冊あまりに及ぶ。

最初の2ページ分だけ引用してみる。

参考・引用文献


○マイクル・ムァコック『メルニボネの皇子』(安田均訳、ハヤカワ文庫SF)
○マイクル・ムァコック『この世の彼方の海』(井辻朱美訳、ハャカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『白き狼の宿命』(井辻朱美訳、ハヤカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『暁の女王マイシェラ』(井辻朱美訳、ハャカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『黒き剣の呪い』(井辻朱美訳、ハヤカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『ストームブリンガー』(井辻朱美訳、ハヤカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『ルーンの杖秘録/額の宝石之巻』(深町眞理子訳、創元推理文庫)
○マイクル・ムアコック『ルーンの杖秘録/赤い護符之巻』(深町眞理子訳、創元推理文庫)
○マイクル・ムアコック『ルーンの杖秘録/夜明けの剣之巻』(深町眞理子訳、創元推理文庫)
○マイクル・ムアコック『ルーンの杖秘録/杖の秘密之巻』(深町眞理子訳、創元推理文庫)
○マイクル・ムアコック『タネローンを求めて』(井辻朱美訳、創元推理文庫)
○マイクル・ムアコック『剣の騎士』(斉藤伯好訳、ハャカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『剣の女王』(斉藤伯好訳、ハャカワ文庫SF)
○マイクル・ムアコック『剣の王』(斉藤伯好訳、ハャカワ文庫SF)
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○フランソワ・イシェ『絵解き中世のョ-ロッパ』(蔵持不三也訳、原書房)
○『ザ・シェークスピア』(坪内這遙訳、第三書館)
○ジャン・ド・ジョワンヴィル『聖王ルイ』(伊藤敏樹訳、ちくま学芸文庫)
○須田武郎『中世騎士物語』(新紀元社)
○新倉俊一『中世を旅する』(白水社)
○橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫)
○ジャン・フロリ『中世フランスの騎士』(新倉俊一訳、文庫クセジュ、白水社)
○レジーヌ・ペルヌー、ジョルジュ・ペルヌー『フランス中世歴史散歩』(福本秀子訳、白水社)

 『キマイラの新しい城 (講談社文庫)』P458~459

しかし作者自身がこういうことを明記できるのは、元ネタが原型をとどめぬほど作者の中で消化されているという自信があるからだろう。この想像は、多分間違ってないと思う。読者にパクリと指摘されるのは、未消化の元ネタが原形のままゴロリと出てきたケースなのだ。作者自身も気を使っていることであろうが、そういうこともまた、ままある。

なんか喩えが汚いけど気にしない。 

キマイラの新しい城 (講談社文庫)

キマイラの新しい城 (講談社文庫)

 

『グイン・サーガ』に話を戻すと、『オルフェウス』『ゴッドマーズ』に限らず、マンガやアニメが古びるスピードの速さに驚かされることが、しばしばある。二、三日前にネット某所で、若い人(多分)に『巨人の星』が通じなかったので愕然としたことがある。仕方ないよな。あのマンガが現代の眼の鑑賞に堪えるとは、とても思えない。またマンガは、世代交代のサイクルが早すぎて、年寄りにはついていけないのだ。その点、小説などの活字は、何世紀もの年を越えて読み継がれる古典の存在をひとまず棚に上げるとしても、作品寿命の心配をあまりしないで済みそうに思われる。

してみると、パクるとしたら「マンガ」→「活字」というのが狙い目だろうか? マンガからマンガへのパクリは、あまりにも事例が多すぎて、もはや伝統芸というべきものだろう。一つ二つ具体例を出すと、かえって不自然に感じるくらいだが、すぐに思いついたのは、つげ義春の『李さん一家』という短編である。あのオチをパクったマンガ家は、とり・みき、山本直樹(森山塔)など枚挙にいとまがない。

  

「マンガ」→「活字」で、「あ、コレはアレのパクリにちがいない!」と思った例として、白戸三平『忍者武芸帳 影丸伝』→隆慶一郎『影武者徳川家康』というのを思いついた。例によって根拠は「私がそう感じた」というだけである。『影武者徳川家康』は『北斗の拳』の作画家:原哲夫によってコミカライズもされているが、本稿では小説版のみに沿って話を進める。

『忍者武芸帳』の終盤に、こんなシーンがある。主人公影丸の妹にして自身も忍者であるヒロイン明美が、敵の忍者集団に囲まれ命を狙われるのだが、敵の陣形を見て即座に「上(に逃げる)しかない。だが片腕は斬られる」とひとりごつ。

そして次のコマで、まさしく自らが予測した通りになるのである。

マンガ史に残る屈指の名シーンだと思っている。そう思っているのは多分私だけではなく、相原コージの忍者マンガ『ムジナ』には、序盤のほうで主人公ムジナの父が暗殺される直前に、これとそっくりなシーンがある。

相原コージには『ムジナ』に先行して『サルでも描けるまんが教室』という作品があり、これがまさしく「パターン分類によってマンガを描こう(創作しよう)」というのがテーマなのだが、そっちの話を始めると長くなるので、さっさと『影武者徳川家康』からの引用を示す。

もともと忍びの特色は、その決断のよさにある。たとえば、どうしてもかなわぬ相手と立ち合う破目になって、十中九まで斬られることになったらどうすればよいか。忍びは自ら進んで斬られろ、と教える。自ら進んで、というところに、忍びの智恵と決断がある。自ら進んで、ということは、相手が斬ろうと思う部分を斬らせるのではなく、自分がここなら斬られていい、と思った部分を斬らせることだ。たとえば左腕である。左腕を切断されても即死はしない。だが何人もわざと腕一本斬らせはしまい。だからこそ故意に左腕を切断させることは相手の意表をつくことになる。その一瞬の隙をついて逃げろ、というのだ。考えることはだれにでも出来る。だが咄嵯に実行に移すには、大変な決断が要る。おふうは忍びであるために、常時大きな決断を強いられていたわけだ。 

影武者徳川家康〈中〉 (新潮文庫)』P293

どうでしょう…やっぱり両方の元ネタを知らないと、ピンと来ないかな?

ときに隆慶一郎は『一夢庵風流記』がやはり原哲夫によって『花の慶次』のタイトルでコミカライズされていたりする。作風がマンガとの親和性高いのかも知れない。

隆慶一郎に対しては、もう少し言いたいことがあるが、長くなるのでここでまた一旦稿を改める。

この項続く。

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