小池百合子の「排除」発言は、なぜ世論を一変させたのか? そもそも彼女自身が自民党から「排除」された人だったのだが…。考察を進めると、見えてきたのはいじめが連鎖する哀しい構造だった。
〔→前回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53318〕
ちゃんと発言を吟味してみようとする人なら、「排除」という語に着目してほしい。
わたしが聞いたときには、小池百合子の「排除」発言は、「炎上」したあとだった。
そこだけ切り取られ、独り歩きしていた。その一語から、小池への総叩きがはじまった。「希望の星」は一夜にして「緑のたぬき(たぬきババア)」だ。
だが、「排除」は、「小池の立場で自発的に言うには、唐突で、少し変な言葉だ」と、わたしは違和感を持った。
「『排除』というのは、内部のものにいう言葉だからではないか?」と最初思った。まだ党員でもない人を排除する、というのがちょっとヘンなのではと。
調べると、「排除」は、よくある漢語というか、ほぼ同じ意味の漢字を重ねたものである。「排」も「除」も、「のける、のぞく」という意味で、方向性はどちらの漢字にもない。
しかし、だとしたらなおさら、この場面に登場するのが唐突で、妙なのだ。
自分の外側にあるものを「排除する=どける」のが有効なのは、それが進路妨害しているなどの場合である。たとえば「バリケードを排除する」という例文が辞書に載っている。
が、外にあって進路妨害などでないものを「排除」しても、意味がない。
どけても、それは在り続けるからである。
その状況で使うと「消す」「抹消する」というような意味になる。
民主政治下で、まともな頭を持った政治家ならば、ここで自分から言い出すような言葉ではないだろう。
経緯を調べてみると、それは「受け入れてもらう側」、民進党・前原誠司代表が発祥の言葉だったようだ。
空中分解寸前だった民進党の、前原誠司代表が、小池氏と話し合って、「合流する」という約束を内密にとりつけたという。それが報じられたが、小池百合子が「全員を受け入れる気はさらさらない」と言った。
語気が強いとしても、「全員と一緒にいられるとはぜんぜん思わない」というのは、内容的には普通のことであると、わたしはおもう。
それについて、質問した記者がいた。
「前原代表が昨日発言した『公認申請すれば排除されない』ということについて(中略)前原代表をダマしたのでしょうか。共謀して、リベラル派大量虐殺とも言われているんですが……」
ダマしていたとは思えないし、リベラル派大量虐殺も、言いすぎだろう。
根幹の部分で立場があまりにちがえば、一緒の党にいるのはむずかしい、というのは、党首としては、当たり前のことだ。
それでも数で与党に拮抗するためにあえて手を組む、という選択もある(今回の争点のひとつが「打倒安倍」だったのだし)、が、それよりは意見の一致のほうを重んじたのだろう。それは非道な選択とは言えない。
全員が入れると思った前原誠司の考えが甘いと言うべきだし、彼は過剰反応をしている。
その過剰反応した言葉を直接引用して質問した記者に対して、その言葉を使って返した小池百合子が、非難された、というのが事の次第であるらしい。