(前回までの内容は、こちらから)
警視庁公安部の捜査員は、東京都の旅券事務所からこんな相談を受けたという。
「ある男性が旅券の申請にきたのだが、すでに旅券が発行されていた。似ても似つかぬ別人が旅券を入手している」
「背乗り」事案か――。
背乗りは「はいのり」と読む。公安警察の用語で、工作員や犯罪組織の構成員が他人の身分を乗っ取って、その人に成りすますことを指す。
相談を受けた捜査員は、届け出住所から旅券を入手した男の勤務先を割り出した。都内に構えられた事務所には、怪しげな男たちが出入りしていた。
徹底した「行確」、つまり行動確認によって、捜査対象を調べ上げるのが公安捜査の手法だ。だが、事務所に出入りする男たちは尾行を警戒し、「点検」を繰り返す。電車の発車直前に飛び降りたり、飛び乗ったりする。歴戦の公安捜査員でも「失尾」(尾行に失敗)してしまうのだ。
やつらは、北の工作員ではないのか――。
こんな考えがよぎったという。だが、粘り強く尾行を続けると、この男たちの正体が見えてきた。捜査員は、こう明かす。
「やつらはパソコンの大量注文をかけては、倒産を装って代金を支払わず、仕入れたパソコンを売りさばいていた。名前がころころ変える、正体不明の男たちだった」
男たちは「取り込み詐欺」を繰り返すグループだったのだ。主犯格の男宅を捜索すると、6冊の日本パスポートが出てきた。写真は同一人物なのだが、名前はそれぞれ異なっている。しかし、いずれも真正旅券だった。
男は6人もの別人に背乗りしていたのだ。なりすましの被害にあった人々による調査をかいくぐるために、名前を変えながら生活していた。
「被害を受けた男性のひとりは、金に困っていた時期があり、知り合いを通じて戸籍を売ったことがあるという。被疑者は、ブラックマーケットからその戸籍を買っていた。逮捕歴のない、旅券の申請歴のない人物の戸籍は高く売買されるらしい。
工作員? あいつらは違うよ。北朝鮮やロシアの工作員は、こんなドジはしない。絶対に本物が現れないよう、連れ去るか、殺すか、だ」(公安捜査員)
この公安捜査員が「北朝鮮やロシア」と並べて指摘したことには、意味がある。北朝鮮の工作機関と旧ソ連のKGBは、同じスパイ手法を使うのだ。公安捜査員はこう続けた。
「北朝鮮の工作機関と旧ソ連のKGBのつながりが深い。留学などによる人的交流もあったし、軍事交流もあった。KGBは時には北朝鮮と友好的に振る舞い、時には北朝鮮に工作をしかけた。そんなKGBのノウハウが、北朝鮮の工作機関に取り入れられている」
KGB式の工作手法とはいかなるものか。今回は日本で発生した「黒羽一郎事件」のケースを詳述していきたい。
「ロシアのスパイである黒羽一郎という名の日本人が、日本国内でアメリカの軍事情報、日本の産業情報を収集する諜報活動をしている」
捜査の端緒は、CIAから警察庁にもたらされた極秘情報だったという。
その極秘情報によると、男の名は「黒羽一郎(くろば・いちろう)」。ただちに、警視庁でロシアを担当する公安部外事一課(ソトイチ)が動いた。
黒羽一郎は、1930年4月6日、福島県西白川郡矢吹町生まれ。東京・練馬区の自己所有のマンションで、妻・日出子(仮名)とともに暮らしていることになっていた。しかし黒羽は1995年2月に中国・北京に向けて出国して以来、日本に帰国していないことがわかった。
ソトイチは練馬区のマンションに住む妻・日出子を監視下に置いた。黒羽との接触をつかむためだ。捜査員は幹線道路を挟んだ向かい側の古いマンションの一室を拠点として借り上げ、妻・日出子が生活する部屋を24時間態勢で視察することにした。
同時に、ソトイチは黒羽一郎の生い立ちを辿った。
一郎の母親タカは、一郎が矢吹国民学校に入学する直前になって出生届を提出している。父親はおらず、タカは造り酒屋で、住み込みで働いていた。
タカが与えられた仕事は、経営者夫妻の二人の子供の世話係だった。子供たちは当時、「不治の伝染病」と恐れられていた結核を患っていた。タカは一郎とともに、離れに住み込んで24時間の介護をしていたのである。
黒羽母子は貧しく、一郎は小学校を卒業するとすぐに、地元矢吹町の歯科医院で、歯科技工士として働き始める。まもなく郡山市内の歯科医院に転職、生活のためにこつこつと働いていたが、慢性中耳炎がもとで片耳の聴力を失ってしまう。
苦難の人生を送っていた一郎に小さな幸せが訪れる。1958年、28歳のときに地元で出会った中田照子(仮名)と恋愛し、小さなアパートで二人の生活を始めたのである。
照子は両耳の聴力がなかった。当然のことながら二人の間の物理的な会話は存在しなかったが、周囲には実に幸せそうに見えたという。
1960年、苦労して一郎を育て上げた母親タカが亡くなった。その後、一郎は照子との会話のない生活空間の静寂に耐えられなくなっていった。この頃、職場の同僚たちは「家に帰りたくない」と一郎がつぶやくのを何度も耳にしている。
黒羽一郎が忽然と姿を消したのは、1965年6月13日のことだ。朝起きた一郎は突然、スーツに着替え始め、照子に手話でこう伝えた。
「友達と山に行く」
当時、一郎は35歳。そのまま二度と照子のもとに帰ってくることはなかった。
照子は一郎を必死で探し、警察に捜索願を出したが、「事件性なし」と判断されてしまった。周辺の人々は、一郎が生活に疲れて家出したのだと考えたという。