ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ。口癖は「えー、そんなの別にどっちでも良いんじゃないの?」老害発言の説明文多し。

私にとってプライドとは何なのか

先日ある知人と話している途中でふと聞かれて考えた。「あなたはプライドが高いのか。」私は常々プライドなど邪魔になる事はあれど、それが自分を成長させる材料だとは思っていない。営業マンという仕事柄、そのプライドを翳す営業マンを見かけると心底バカにしていた。自分のプライドを守ってお客さんを怒らせたり困らせている場面を私はどこの現場でもよく見ていたからだ。そういった営業マンを見て私はいつも「コイツはバカだ。」そう思っていた。私はバカを装ってピエロとなり「バカ」と「専門家」のギャップを武器に営業という仕事をしている。プライドに関しては仕事だけではなく、プライベートでも、こと恋愛観でも「プライドなど私には必要ない」と思って今まで生きてきた。しかしながらその知人は私に言った。「あなたはプライドが高いのか。」私はその時ギクリとした。その知人は頭の良い人だから私の何かを汲み取って言ったんだろう。そこで改めて思ったのは「プライドとは何か」ということだ。取りあえずWikipediaで「プライド」を叩いてみた。「プライド」とは「自尊心」とある。

自尊心とは

多くの研究者によって自己肯定感は人格形成や情緒の安定のために重要であると考えられており、自尊心はそのためには必要な感情であるとも言える。

自尊心とは、他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである。つまり、一時的に快感を与える、知識、技術、財産、結婚、慈善行為や性的な征服、容姿から生まれるものではなく、言い換えれば、外に求めることでも、人に与える印象でもない。競争でも比較でもなく、自尊心の重要な原因は自分とも他人とも戦っていない状態である

その起源には、幼いころに大人から尊重され、価値を認められたか、励まされたかといったことがある。しかし、最も重要な影響があるのは、自分自身で選択したということである。言い換えれば、自分の可能性を実現したいという気持ちから、生き方を変えるということから自尊心が育まれていく

自尊心は、自分が有能であるといういわゆる自信と、自分に価値があるという自尊の2つの要素から成り立っている研究者によれば、自尊心の欠如は、不安、憂鬱、恐れ、アルコールなどの乱用、成績不振、暴力や虐待、自殺などにかかわっている

Wikipediaから引用

そうか。私はプライドが高いのか。今までバカの仮面を被ってお道化ながら、いざという時に仮面を取って専門的に解決するという戦略で営業活動をしていた。独立当初は1万円とか2万円の仕事を取るのに必死でそうやってきた。徐々に信用も付き、仕事の金額が10万円、100万円、1,000万円と跳ね上がっていく。そうするとバカの仮面を被ると逆に仕事に差し支える場面が出てくる。「しっかりしないといけない。」言葉遣いも服装も振る舞いも。そうやって気付かないうちに私はあの、毛嫌いしていた「プライドの高い人間」になっていた。そして、頭が良いと言っても会って間もないその知人ですら気付くような人間に。私は今まで「怒り」をエネルギーとして生きてきた。「怒り」を頑張る「エネルギー」に変換し、そのエネルギーは気力となり、いつも心の中で「こんな弛んだバカと一緒にするな」という思考に陥っていた。もう「あそこ」には戻りたくないという恐怖と、そこら中に見える落とし穴が疑心暗鬼となり常に緊張していたのだ。このまま行けば間違いなく、私が嫌っていたプライドが高い「だけ」の人間に「自分が気付かないうちに」なっていただろう。ここネットではどう思われようと構わない。このブログに書いてあることは本心だし嘘を書いているつもりはない。別に良い人だと思われなくても構わない。しかし現実社会は違う。他人から見える私をちゃんとコントロールしなければと今回本当に思った。もう少し「怒る」事をセーブしよう。今までは燃料が少し多すぎた。せっかく知人が気付かせてくれたんだ。まだ数回しか会っていないのに「あなたはプライドが高いのか」と問いかけてくれた事に御礼を言いたいし、これからも良い友人でいて欲しい。プライドは完全な悪ではなく信用を勝ち得るために多少は必要であるし、プライドの「見せ方」を考える機会となった。しかしながら、怒りをセーブするとは言っても、緊張の糸は緩めない。バカな行動で奈落の底に堕ちるのは御免だ。私が怒りをセーブしても、落とし穴の数が減るわけではない。私はこうやって書く事で自分に予防線をこれでもかと張っている。私が背負うものは決して小さくない。