10月25日から11月3日まで、東京・六本木で開かれた第30回東京国際映画祭。アニメーション映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」や「河童のクゥと夏休み」を手掛けた原恵一監督にスポットを当て、作品を上映する「映画監督 原恵一の世界」の企画で最後に取り上げられたのは、初の実写作品で、「二十四の瞳」「カルメン故郷に帰る」で知られる木下惠介監督の若い頃を描いた「はじまりのみち」(2013年)だった。11月2日の上映後には、原監督と「はじまりのみち」で木下惠介役を演じた加瀬亮さんが登壇して撮影時の裏話などを紹介。原監督の口からは、アニメーションの現場とはまるで違った実写映画の撮影状況と、生身の役者が見せる凄さが語られ観客を湧かせた。

 
映画「はじまりのみち」について語り合う原恵一監督(左)、主演の加瀬亮さん(中)、プログラミング・アドバイザーの氷川竜介さん(右)

「田中裕子恐るべし」-原恵一監督の口から強く語られたのは、映画「はじまりのみち」で木下惠介の母親にあたるたまを演じた女優、田中裕子さんへの驚きと感嘆のエピソードだった。「実写の監督とキャストは衣装合わせの時に初めて会うんですが、俺が何か無意識に田中さんに失礼なことを言っちゃったみたいで、怒り出して怖かった」。何を言ったか分からず、そのまま撮影に入れば「俺、田中さんに何かされるかもしれない。50過ぎの男が人前で泣くかもしれないと覚悟して行きました」

そして現場で「田中さんの方が全部正しかった」と理解した。「はじまりのみち」という映画では、太平洋戦争末期、陸軍省の依頼で撮った映画「陸軍」で不興を買い、次の映画が撮れなくなったことで映画監督を辞めて故郷の浜松に戻った木下惠介が、空襲が迫り山間部への疎開を決め、60㎞離れた場所へとリヤカーに母親を乗せて山を越えようとする。その道中の衣装に田中さんのこだわりが感じられた。

 
映画「はじまりのみち」場面(C)2013「はじまりのみち」製作委員会

「病気のお母さんだから浴衣で出れば良いと思っていたら、田中さんはちゃんとした着物を着たい、半身も不自由だから下はパッチを履く、ちゃんと髪も整えたいと。確かにそうなんです。いつも家の布団でずっと寝ている人が、息子との久しぶりの旅行で、ちゃんとした格好をしたかった。ああ、すごいなあと思いました」。シチュエーションに自分を置いて、役になりきろうとする役者の思考に触れた。

「出発の時、夜空を見て、便利屋を待っているシーンで田中さんのアップがあるんです。実写の現場では、マイクで声を拾うためフレームに入るぎりぎりのところまでマイクを構えるんですが、田中さんの顔の上にマイクが来たら言ったんです。すいません、マイクをどかしてもらえますか、月が見たいんですと。感動しました」

その場面に相応しい感情を得るために必要なことをする。そんな役者の姿を目の当たりにしたことで、その後の原恵一監督作品にどういった影響が出たかが気になるエピソードだった。もう1点、原監督が溢れ出る言葉を抑えきれないように語ったエピソードがある。「雨の山越えのシーンで田中さんの顔に泥が付くんです。脚本で書いたんですが、そこで田中さんが監督、って呼ぶんです。顔に付いた泥をなめても良いですか? と言って、意味が分からなくて、良いですよと思わず言っちゃった」

原恵一監督

リヤカーを引いて歩いている途中で一行は大雨に見舞われる。ユースケ・サンタマリアさん演じる兄に代わって木下惠介青年がリヤカーを引き始めた場面で、跳ねた泥が田中裕子さん演じる母親の顔に飛ぶ。その泥を誰がつけるか。「俺は嫌だと言ったら、セカンドの助監督が泥飛ばしは得意ですと言ってくれて、紙コップに泥を溶いて、ここだというタイミングで泥を飛ばしたら、田中さんが舌でぬぐおうとするんです。それでオッケーをかけました」

映画では、傘をさしながら仰向けになった田中さんが、口元に飛んだ泥に舌先で触れようとしている。その意味を原監督は「帰りのロケバスの中で、何であんなことを言ったのか考えて、俺なりの答えを思いつきました。田中さんは片手しか使えなくて、その手で傘を握っています。そこに泥がついたりしたら、立派な店のおかみさんとしてそのままだと格好悪い。使えるのは舌だけ。それで顔をきれいにしようという理由だと思い至りました。田中裕子恐るべしと思いましたね」

アニメーションではベテランの域に入っている監督でも、実写の現場は初めてで、生身の役者の声だけではない演技を見る機会もあまりなかった。貴重な経験になったようだ。この日、トークイベントに登壇した加瀬亮さんについては、「妥協しないですよね」と原監督。「脚本が決定稿になったあとも、2回くらいですか、加瀬さんから呼ばれて、監督、ここの脚本ですがこうした方が良いですよと言われて、なるほどと思いました」

続けて「さすが世界の加瀬亮」と煽る原監督に、加瀬さんは困り顔を見せつつ、「そんなに器用ではないので、向かうところがないとそこに立てないというのがあります」と話して、そのシチュエーションに相応しい役になりきろうとしている意識をのぞかせた。

加瀬亮さん

映画の冒頭、陸軍省の不興を買って映画が撮れなくなったことで、撮影所長の城戸四郎と言い争うシーンがある。そこで原監督によれば、加瀬さんは怒った顔で現場に入ってきたという。「怖いんです」。ほかにも「加瀬さんはドMなんです」と原監督。リヤカーを押して峠を登る途中で大雨に見舞われるシーンで「加瀬さんの体が震えているんです。俺、この人絶対ぶち切れると心配していたら、震えながら加瀬さんが、監督、寄りは撮らなくて良いんですかと言ったんです。ドMだなあこの人」

これには加瀬さんも「違うんです」と反論。「木下青年が反発して、ある意味挫折してリヤカーをずっと引いていく話です。自分の信念とか尊厳とかをもう1回自分に問わなくてはいけない。その時に山越えがきつくないと嫌だったんです。そのきつさを感じないと引く意味がない。それが思ったより短かった」と振り返った。「僕というか役の人は、わざと自分を大変な目に遭わせたかったと思う。僕がMな訳じゃない。ぼくは楽な方が良いですよ」。それにもすかさず「いえいえ嘘です」と原監督。楽しい中に役者の矜持がうかがえるやりとりだった。

ほかにも、アニメーションの現場とは違った経験が幾つもあって驚いたようだった。監督がコンテを描き始める中でスタートするようなアニメーションの制作現場と違い、実写映画の現場は監督の一声から撮影スタートして作品が動き出す。「撮影が近づくにつれて、声を出さないといけないのに、なんて言ったら良いんだろうと」悩んでいた原監督。「撮影初日のファーストカットの準備ができて、チーフ助監督から監督よろしくお願いしますと言われ、何と言えば良いか聞いたんです。そうしたら決まりはないと。ただ松竹作品なので、松竹の監督たちは『よーい、はい』と言いますと。じゃあそうしますと」なったそうだ。

天気待ちというのも、アニメーション監督では経験しないことだった。雲が流れているロケの現場で、撮っている途中に太陽が雲に陰ってしまわないようタイミングを見計らう必要がある。「その時間がものすごい静寂なんです。加瀬さんはじっと集中していて、僕らはみなで空を見ている。照明さんがだいたい言うんですが、あと4分で晴れます、あと1分です、といって助監督がみなさん、そろそろご準備下さいという。あれは本当に実写でしか味わえないですね。しーんとした時間と、急にオンになる瞬間です」

加瀬さんがサインを入れて「映画監督 原恵一の世界」のポスターに出演者のサインがそろった。

ほかにも、役者たちが見せるアドリブに面白さを感じた話を披露した原監督。加瀬亮さんが原恵一監督作品のパロディだと指摘した部分は実はアドリブで、「便利屋が帰って行く時、濱田岳さんが手を振って走って行くのに、こういう走りをするんです」と身をくねらせて説明した原監督。それは「濱田岳さんが『河童のクゥと夏休み』が大好きで、あのテイクの撮影の前に河童走りして良いですかと言ったんです。クゥ走り。それで良いですよと言って入れました」

知って驚く裏話。そんな役者のアドリブが「面白くて」と原恵一監督。「海外でも見てもらったこの映画で1番受けるのが、濱田岳さんの便利屋を木下恵介監督の妹たちが出迎えて、荷物を持とうとして俺持つわと言うんですが、2人とも亭主持ちと言われた時、そうか亭主持ちか、やっぱり頼むわとなる。そこが受けるんです」。瞬間的なリアクションをストーリーの中に効果的に見せる。そんな生身の役者のアドリブ力に感嘆したようだった。

トークイベントの終盤で、「映画監督 原恵一の世界」のプログラミング・アドバイザーを務めたアニメ・特撮研究家の氷川竜介さんは、「企画に『映画監督』と付けているのは、アニメーションと実写の垣根を越えた原監督の実力を、日本の映画ファンだけでなく海外の方にも知って頂きたかったから」と説明。「キャラクターものが中心で、ロボットものや魔法少女ものといった華やかなものがもてはやされるきらいがあるが、原さんは藤子・F・不二雄やクレヨンしんちゃんといったプログラムピクチャーから、気骨を持って世の中に発信しています。ぶれず周りに妥協しないで作家性を貫いてきた映画作家の原恵一さんを紹介できたことを嬉しく思います」と総括した。

そして最後に原監督が、「木下惠介監督が世界で1番尊敬していて大好きな監督です。興味を持たれたら、木下監督のオリジナルのクラシック映画をぜひ見て欲しい。素晴らしい映画が本当に多いですが、最初に見るべき作品は『永遠の人』。すごいです」と締めくくって第30回東京国際映画祭での登壇を終えた。

(C)2013「はじまりのみち」製作委員会