家に帰ると、母は病院での父の様子を聞きたがった。私は父が私と姉を見間違えた事だけ話した。
そして母に何が食べたいかと聞くと、よく行く回転寿司の茶碗蒸しが食べたいと言った。
母は家の中をゆっくり歩く事は出来ても、外に出るのは辛そうだった。タクシーに乗る時も痛みで悲鳴をあげ、やっぱり止めようとしたが大丈夫と言って聞かない。
せっかく行ったのに回転寿司は休憩中で、そのままタクシーで駅前に戻り他の寿司屋に入った。
その店は地元でも指折りの人気店だが、3時を過ぎていたので他の客が誰もいなかった。
茶碗蒸しひとつとお寿司を一人前だけ頼み、ふたりでつつくことにした。
茶碗蒸しが運ばれてくると、母は喜んですぐに食べ始めたが、お寿司はやっと二貫食べただけだった。
「味がわからない。何を食べても美味しくない」と言う。昨夏にもそう言っていたので亜鉛のサプリを買って渡したのだが、それを飲んでいないどころかもらった事すら覚えていなかった。
「美味しかろうが美味しくなかろうが、何でもバランスよく食べなきゃ」と母を叱った。
私は子供の頃、食が細く虚弱だった。食事の度に「あれもけえ(食べろ)これもけえ、薬だと思って我慢してけえ」と母から言われ続けてきた。子にはそう言っておきながら、どうして自分は出来ないのだろう?
父は父でかなりの偏食で、気に入ったものばかり食べ続けた。そして、味覚障害で味付けがおかしくなった母の料理を一切食べなくなった。
母が作ったものは、変な味がする。毒でも入れたのか等と言うらしい。父もまた味覚障害と、被害妄想が酷くなったのだろう。
母がもう満腹だと言うので、お寿司のほとんどを私が食べた。6時に友人と夕食なのに、困ったなと思いながら。
またタクシーに乗り帰宅して、友人との約束の時間まで実家の掃除をした。
冷蔵庫は、いつの何か解らないもので溢れている。捨てれば揉めるのは解っていた。小皿に謎の残り物があって、さすがにこれは捨ててしまおうと提案すると
「それは、明日カラスさけっから取っといて」と言う。
「カラス!」私が驚いていると
「おれが外さ出はっとエサもらうべとカラスが飛んで来んが」と、楽しそうに言った。
カラスが来るのも嬉しいなんて、どんなに寂しい日々なのだろう。
私は皿を元の所に置いた。
そして洗濯物を取りに2階へ行き、ベランダの窓から外を見た。すると、近くの電線にとまった1羽のカラスがこちらの方を見ていた。
もしかして、エサをもらいに来るのはあのカラス?
昨日も今日も、もらってないからどうしたのかと様子を見に来たのかも?
そんな、まさかね。
夜、私は予約していたビジネスホテルにチェックインした。
この日は秋祭りで、ホテルの前の通りには夜店が並んだ。
さもない祭りだが、子供達が楽しそうにはしゃぎとても賑やかだった。震災で打ちのめされたこの小さな港町が、活気を取り戻しているのを感じた。
友人とはホテルの近くの洋食屋さんで待ち合わせをしていた。この洋食屋さんも津波で店を失ったが、別の場所に移転して再開したのだった。
「お父さんが入院してるなら、ホテルに泊まらなくてもいいんじゃない?」
私がいつもビジネスホテルに泊まるのを知っている友人が言った。
「父がいてもいなくても、あの家では眠れないんだよね…」
「そうなんだ…」
友人は中学時代からの付き合いだが、一度ケンカをした事がある。ケンカといっても言い争ったのではなく、しばらく口をきかない時期があった。
それは、父が嫌い、いなくなればいいと常日頃から言っている私に
「私は、たとえどんなお父さんでもいいから、お父さんにいて欲しい。そんな事を言うタンポポが許せない」と、友人が言ったからだった。
友人のお父さんは彼女がまだ物心つく前に亡くなり、私はそれを知っていた。でも…
(どんなお父さんでもいいだなんて…そんなのただのつまらない感傷だよ)
私達は、相手の立場を思いやる事も理解する事も出来ずに距離を置いたまま、別々の高校へ進んだのだった。
私達は自転車通学だった。お互いの高校に向かう時、橋上ですれ違う事がよくあった。目が合えば手を挙げて合図したりしたが、立ち止まって話す事はなかった。
河口にほど近い小さな橋は、東日本大震災で崩落した。
海のそばに嫁いだ友人の家も、津波で流された。
時を経て橋も、友人の家も、立派に元通りになっている。
年をとった私達も、会って話すときには学生時代に戻った。
私達は、この日のサービスメニューで食後にコーヒーがつくというので、オムライスにした。
薄い卵できれいに包まれたオムライスに、ふたりで歓声をあげた。
思ったよりも大きかったので、私は食べきれるか不安になった。さっきお寿司がまだお腹に残っていた。
私達は「最高に美味しいね」と言いながらオムライスを食べた。昔話に花を咲かせながら、お互いに親の介護話をしながら、全部食べた。
私は少し演技をしたと思う。それは、ふたりで食べたあのオムライスが、本当に完璧なオムライスだったから。