はじめに:年収430万円は妥当なのか?
はてなブックマークのホットエントリー総合に入っていたこの記事を読んだ.
多数のはてなブックマークコメント(以下,ブコメ)がついたものの,肯定的なブコメもいくつかあったとは言え,批判的なブコメが多勢を占めていた.
大学で奨学金を借り,卒業後結婚し,奨学金の繰上返還を済ませた身として,この記事(以下,レポログ記事とする)にはいろいろ納得いかないものがあった.
筆者が最も気になったのは,話の前提となる世帯年収だ.その点についてこうブコメした.
だが,この430万円を平均年収として用いるにはどう考えても難がある.
稼働所得を用いるべき
児童のいる世帯の稼働所得は656万5千円
元データにあたればすぐにわかるのだが,次の図(平成27年国民生活基礎調査の概況 結果の概要II 各種世帯の所得等の状況 [1] p.11)に記載されている所得平均金額541万9千円には子育て世代のみならず,主に公的年金・恩給で生活している高齢者世帯も含まれている.
これは中央値427万円を用いたところで同じはずだ.
総所得平均金額541万9千円には公的年金・恩給,財産所得,他にも年金以外の社会保障給付金,仕送り・企業年金・個人年金・その他の所得が含まれる.
そうした所得を除き,「世帯員が勤め先から支払いを受けた給料・賃金・賞与の合計金額をいい,税金や社会保険料を含む」所得を稼働所得(雇用者所得、事業所得、農耕・畜産所得、家内労働所得)と言う[2].
稼働所得は全世帯平均403.8万円に対し,レポログ記事に該当する児童のいる世帯では656.5万円に跳ね上がる([1]のp.13,表8).
所得と収入は違う(サラリーマンの場合,ざっくり書くと給与・賞与収入ー給与所得控除=給与所得)ことは言うまでもないが,公的年金・恩給が総所得の67.5%を占める高齢者世帯はもとより,稼働所得以外を含む金額は,給与収入のみの夫婦2人・子ども1人の世帯を想定したシミュレーションに不適と言わざるを得ない.
総所得平均金額541万9千円だろうと中央値金額427万円だろうと,この図に記載されている金額をそのまま前提にしてはいけないのだ.
シミュレーションに適したデータはあるのか?
ではどの金額をスタート時世帯収入とすればいいのだろうか?
稼働所得金額について656.5万円以外の3つの金額を挙げる.
717万4千円と591万8550円
([1],p.12より])
末子年齢階級別のデータだが,レポログ記事のシミュは子ども1人,有業人員2人であるので,図15の有業人員1人当たり平均稼働所得をそのまま2倍する.
すると,子どもが3歳未満時の世帯稼働所得は717万4千円となる.
ただし,子どもが小さいうちは正規職員であっても時短勤務等でフルに働けないこともあるだろう.そこで,末子3歳未満平均有業人員1.65人を用いると,末子3歳未満時の世帯稼働所得は591万8550円となる.
どちらにしても,レポログ記事の430万円より高い値である.
405万8千円
一方,別の稼働所得のデータを用いるとレポログ記事に近くなる.
後述するように10歳階級なのが難点だが,,正規,非正規,パート・アルバイト,自営業等勤め先別の稼働所得データが平成28年国民生活基礎調査[3] 第131表に記載されていた.
20〜29歳男性の正規職員・従業員平均稼働所得は267万8千円,同じく女性は138万円,合計405万8千円となる.
この金額ではレポログ記事の想定年収430万円より低くなってしまう.だが,女性正規職の平均が138万円というのは大学卒としてはどうにも腑に落ちない.これは10歳階級と学歴の影響が大きいのかもしれない.せめて25〜29歳の稼働所得データがあれば,と思う.
ちなみに前述した児童のいる世帯の稼働所得717万4千円という金額は次のブコメの金額にわりと近い.
ではデータを揃えるため,平成28年の民間給与実態統計調査[4]の図を見てみよう.
この第14図では25〜29歳男性平均給与が383万円,女性が309万円,合計すると692万円になる.しかも,ブコメの指摘通りこのデータを大卒のみとしたら金額はさらに上がり,児童のいる世帯の稼働所得717万4千円に近づくと思われる.
以上,政府統計をとっても,国民生活基礎調査,民間給与実態統計調査,そして賃金構造基本統計調査なんてのがある.
どのデータを用いるべきかを吟味してからでないと説得力ある話にはならないのだ.
では,レポログ記事に適したデータはどれか?
少なくとも稼働所得を用いるべきであるし,年齢別・男女別のものがふさわしい.だが,ここまで見てきた中で該当するものは見当たらなかった.
そこで,日本学生支援機構の1種・2種もしくは両方の貸与型奨学金(以下,奨学金)を借りている人達の収入はどれくらいなのか,その一部について紹介しておく.
奨学金貸与者の収入はいくらなのか?
男女別年収
次の図は,日本学生支援機構による平成26年度奨学金の返還者に関する属性調査結果[5] p.12「4 本人の年収について」の表4-1-2から奨学金無延滞者の年収データをグラフにしたものである.
ただし,奨学金を借りた本人以外による解答も含まれているため精度には難がある.あくまで紹介だけに留めておいた.
図でわかる通り,男性で最も多い年収は300万〜400万未満,女性は200万〜300万円である.ただし,資料には平均値も中央値も記載されていない.
年収と年齢の関係
残念ながら男女別のデータの記載はなかったが,男女合算した(と思われる)年収と年齢の関係についての資料があったのでグラフにした([5] p.14 表4-1-6より).
25〜29歳の57%の年収は200万〜400万円となっていることが見て取れる.
おわりに:若者の意欲を削ぐような記事はいかがなものか?
冒頭で述べたとおり,筆者は大学で奨学金を借りていた.奨学金がなければ進学はかなわなかったので感謝している.
一方,奨学金を背負ったため苦境に陥っている奨学生本人や連帯保証人・保証人の話は報道等で読んでいる.日本学生支援機構の奨学金以外にも各大学で給付型奨学金を用意していることを知って欲しくてこんな記事も書いた.
給付型大学奨学金のすすめ【早稲田,明治,青山,立教,中央,法政編】 - おまきざるの自由研究
奨学金返還が結婚や出産等のライフイベントに影響するかどうかについての調査によると,「“結婚”についてみれば、 利用した人がおおむね 2 人に 1 人、さらに利用者の中で<影響している>とした人が 3 割を占めるこ とから、34 歳以下全体でみても 15%程度は奨学金の返還が“結婚”に何らかの影響を及ぼしている」とのことであり,貸与額が大きくなるとこの傾向は高くなる(労働者中央福祉協議会による[6] pp.6-7より).
奨学金を投資とみなしても結局は借金だ.借りたお金は返さなければいけないので,奨学金を借りた人は大学卒業後の可処分所得が減る.そこを何とか出来ない場合,それは奨学金が結婚を阻害する要因の一つになってもおかしくない.したがって,35歳未満未婚者にとって結婚の最大の障害となっているのが結婚資金というのも合点がいく([7] 表37).
しかしながら,その一方で25〜49歳男性及び20〜49歳女性未婚者が「独身でいる最大の理由」は「適当な相手にめぐり会わない」」([8] 表40)である.
結婚できるかどうかはパートナーとめぐり会えるかどうかが何よりも重要ではなかろうか?
そこをすっ飛ばし,なおかつシミュレーションに用いる年収を過小評価して,奨学金を借りたら結婚しても非現実的な生活レベルしか送れないなどという記事を書くのはいかがなものかと思わざるを得ない.
なお,結婚することと結婚生活を維持することはまた別問題である.この点については何も言わない.各自検討を重ねた上で健闘されることを祈るばかりだ.
<資料>
[1]http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa15/dl/03.pdf
[2]http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa03/yougo.html
[3](https://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&listID=000001184705&requestSender=estat
[4](https://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2016/pdf/001.pdf
[5]http://www.jasso.go.jp/about/statistics/zokusei_chosa/__icsFiles/afieldfile/2016/07/07/h26zokuseichosa_shosai.pdf
[6]http://blog.rofuku.net/shogakukin/wp-content/uploads/sites/29/2016/01/7ce876708a008208fe614033331137f3.pdf
[7]http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001027361&requestSender=search
[8]http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001027361&requestSender=search