最近、僕と同じ名字のトランペッターがドラムを叩いていた少年に往復ビンタをした
というニュースが巷を騒がせていますね。
パッと見たところ、または状況を聞いたところどう考えてもその少年の行いが場に相応しく
なかったことがわかります。
だからと言って体罰オーケーかどうかは別問題ですが、少年とその父親も自分たちの非を認めている
こと、そしてそこにはトランペッターの指導者としての愛情が存在していたことを明言しているので、
マスコミがあれこれ騒ぎ立てることではないよなあと思います。
僕が小学生の頃は体罰なんて当たり前。
家に帰って母親に体罰されたことを言っても
「どうせアンタが悪いんでしょ!」と一刀両断され、先生イコール絶対正義と思われていたフシが
あります。
今思い返してみると、冗談みたいな話なのですが当時の教師たちの罰を羅列して見ます。
・小学校5年生のとき、掛け算が苦手な同級生を、その子の弟がいる3年生のクラスに放り込むという
精神的苦痛を与えた、いつもアディダスのジャージを着ていた20代男性教師。
・僕は野球チームに入っていたのですが、体育でサッカーも上手だったらしく、サッカーチームの
監督をしていた教師が僕を放課後呼び出して野球の練習に行けないようにし、サッカーチームへ入団を
強要し、それでも拒否していたら「お前は教師の言うことを聞かないから親を呼び出す」と恫喝した
上記のアディダス教師。
・女の子に対してもフルスイングのビンタを食らわしていたアディダス教師。
・目の下の皮膚の薄いところをつまんでグリグリしながら持ち上げる「モリヤスペシャル」という体罰
で恐れられていた中学の体育教師(本当に痛い!)。
・教科書の暗唱が必須で、当てられて覚えて来ないと男女を問わず英語の分厚い辞書をフルスイングで
脳天に叩き込む高校の英語教師(目から火花が出た)。
・修学旅行で夜、女子が乗っている電車に忍び込もうとした際に捕まりグーで思いっきり殴って
きた高校の体育教師(完全にこっちが悪い)
・当てられて答えられないと、学ランにチョークの粉がたっぷりついた手で触ってきて手形をつける
高校の数学教師。
などなど、挙げればキリがないのですが、よくあの時代なにも問題にならなかったなあと、
今思えば不思議でなりません。
こないだワイドナショーでダウンタウンの松っちゃんが、
「どうして昔の体罰が良くて、今の体罰がダメなのか、誰もちゃんと言ってくれないから
わからない!」みたいな話をしていて、確かにそうだよねーと思いました。
でもちょっと考えてみたのですが、インターネットで価値観の違う人たちとの意見の交換が
頻繁に行われ、多様性というものが日本に根付いた「良い結果」なのでは?と思いました。
戦後もずーっとどこかで「親は絶対」「先生は絶対」「目上の人は絶対」という、ある意味日本的な
価値観、教育観が残っていて、それを論ずる場が存在していなかった。
だけどSNSやネットニュースなどで「それは違うんじゃね?」という意見が少数ながらも出始めて、
それが徐々に大多数になってきた。
欧米なんかの例も具体的に紹介され「なんだかこれは違うのかも?」という声がジワジワと
増えてきた結果ですよね。
一方で、トムソーヤの冒険とかその他いろんな欧米の昔の小説なんか読んでいると、木に吊るされたり
井戸に落とされ一晩放置されたりなど、日本より過激な体罰のシーンも見たことがあります。
欧米も最初から体罰がなかったわけではなく、たくさん論じ合って今の形を成したのではないかな?
ようやく日本が、多様性を認め合うという意味で欧米に追いついたってことなんじゃないかな?
なんて思っています。
体罰だけじゃなく、サービス残業とかもひと昔の日本では当たり前だった話が、インターネットを
通していろんな意見が飛び交った結果、今になって形を成してきたのかなあ、と。
「今の子は怒るとすぐうつ病になる」みたいな話もよく聞くけど、実は昔からそういう人は多かった
けどうつ病というものの理解や関心が少なかったせいで話題に上がらなかっただけでは?とも思います。
「今の若い人たちは」という言うセリフ、よく聞きます。
ひょっとしたら僕もたまに言ってるかもしれません。どこかでまだ、自分が何十年も生きてきて
経験してきた価値観を引きずっているのかもしれません。
今、特に日本は多様性が渦巻き答えがはっきりしていないど真ん中の時代だと思います。
セクシャル的にマイノリティーの方々の存在などその他多くのことで多くの価値観が生まれてきて、
それを顔も知らない人と論じ合える世の中になってきています。
大企業に就職するか、起業するのか、みたいなことも含めて。
自分の価値観を持つことは大事ですが、今、自分の価値観は日本中のどこらへんよ?という、
同心円の中の位置確認が必要で、聞く耳をいかに持つことができるかが大事になってきていて、
40歳過ぎくらい以上の人たちは自分の価値観を一旦フラットにする作業をしなくちゃいけない
時代になってきました。
それはツラい作業でかもしれませんが、もう40年、またはそれ以上これから生きていくことになる
ので、若い人たちの意見を楽しく聞ける中年になることがこれから楽しく生きていくポイントになる
と思って一緒に頑張りましょう。
オー!!