こんにちは、凡子です。
小説家志望の友人がいます。学生時代からの友人なので、それはそれは長いつきあい。
離れたところに住んでいるのでめったに会うことはないけれど、会うと必ず小説を読ませてもらって、キャラ談議に花が咲きます。このキャラたちとも、もう三十年以上の長きにわたるつきあい。
友人は、壮大なスケールの長編小説を何本か同時進行で書いていて、それはそれは素晴らしいのです。
ただ、友人の小説は完結しません。
途中まで書くと細部が気になるらしく、大幅な手直しが始まります。で、それが終わらないうちに、別の作品に手を入れる、みたいな感じでループ。
凡子から見ると、作品の出来はもう100%どころか200%いってんじゃないかって勢いで、めちゃくちゃクオリティが高いのです。
凡子が書いていたら、「うひょ~みんな見てみて」と自慢するだろうと思うくらい出色の出来なのですが、でも友人は納得しません。思い入れが強すぎて、中途半端なもの(友人的解釈)は出したくないってことなんだと思います。
あんまり雑誌に投稿している風もなし。それ、すごくもったいないことなんじゃないかという思いがずっとありまして。
一ファンとして、作品を世に出してあげたいとか、勝手に思ってました。完璧主義、ストイックすぎるのは、不幸なんじゃないかとも。
ただ50歳を過ぎて思うのは、友人が思う小説との関わり方って、凡子が考えてたこととは全然違うのかもしれないなってことです。
商業ベースに乗せて本を出版することを成功と考えるなら、本にならないことは不幸せかもしれない。けれど、長く長く愛情をかけて、手を入れられるツールを手に入れたと考えれば、それはとてもなく幸せなことかもしれない。
わかりやすい成功だけが成功じゃなくて、何をもって幸せかっていうのは、外からじゃよくわからないものです。
世間で言われる幸せと、自分が考える幸せって、多分全く別物。
友人は、多分ずっと小説に手を入れていくんだと思います。それはずっとその世界で遊んでいけるってことでもあって。小説を終わらせられないんじゃなくて、終わらせたくないんだってことに気づくのです。
何事も長続きしない凡子は、そんな風に熱量を注げる何かを持ってやしなくて、「うわっ、なんてうらやましいっっ」とか思うわけです。
多分若い頃なら、こんな風には考えなかった。
でもこれ、凡子の今の気持ちを完全投影なので、まぁ全然違う可能性も多分にあります。
今度会ったときに、友人にゆっくり聞いてみたいと思います。
「商業ベースに乗せて、キャラを世の人に知ってもらいたいんだっっっ」ってオチも全然あるかも、なんですけどね。