おそ松さん二期4話「松造と松代」がしんどい。
2017/10/25 04:24 |松|
タイトルの通り、おそ松さん二期4話が、松代がしんどかったとわめくだけです。
批評でもないしロジカルなことを言うつもりもないしただただしんどいと言うだけです。
「松造と松代」というサブタイトルだったのにメインで描かれたのは松造と松代の話ではなく松造と六つ子だった。それ自体はべつにいいんです、だって六つ子が主役のアニメだし。
「松造と松代」というサブタイトルを冠しておきながら松代がまったく描かれなかったこと、つまり製作陣はおそらくあれを「松造と松代」の話だと認識していて、なのに中身を見てみれば松代についての描写はまったくないことがしんどいです。
松造の心情はあれだけ尺を取って描かれていて六つ子は松造のために奮闘したのになんで松代についてはセリフのひとつもないの?松代の心情はまったく描かれなかったのになんで最後丸く収まってるの?松代、松造に対して最近冷たかったんじゃないの?その理由は?最後にはどうして仲直りしたの?松代になにがあったの?どういう心情の変化があったの?どうしてそれは描かれないの?松代はなんで松造をゆるしたの?????
ちょっと話の流れを整理してみます。
最近松造の様子がおかしい
↓
六つ子が問い質すと、松造が「母さんが最近冷たい」「おやすみのちゅーやあれやこれやもない」と吐露する
↓
「父さんも童貞になればいい」と提案
↓
松造を童貞に戻すために六つ子が奮闘
↓
無理だった→惚れ薬を使えばいいとひらめく
↓
松造と六つ子、惚れ薬の材料を手に入れるために奮闘→惚れ薬は無事完成
↓
松造、手に入れた惚れ薬を結局使わない、松代となんかいい感じに収まる
↓
未だニートで童貞である六つ子たちが飛んできて、「(夫婦)ふたりになれるときなんて来ないかもしれない」とぼやく
六つ子が「親の悩みなんか知りたくない」「でも親の夫婦関係が破綻したらニートでいられない」と煩悶するところとか、松造を童貞にすればいいと素っ頓狂な提案をして六つ子が童貞指南をするところとかはめちゃくちゃおもしろかったです。笑いました。こうして全体の流れを書いてみても、六つ子がニートである、童貞であるということがオチの要因になっている、ギャグとしてよくできたストーリーだったと思います。
そして惚れ薬を手に入れたあとの、松造の回想シーンもよかった。学生時代、まだ若かったころ、告白して、つきあって、結婚して、家を建てて、子供が生まれて、その人生はたしかに幸せだった、自分たちには物語があった、と気づいた松造が、惚れ薬という相手の人格を無視したものを投げ捨てるという結論にたどり着いた、あそこだけ切り取ればとても感動的なシーンだったと思います。わたしは映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のワンシーンを思い出しました。面倒なのであらすじなどは書きませんが、子供に逆戻りしてしまったしんのすけの父・ひろしが、田舎での子供時代、上京、就職、みさえとの出会い、結婚、家を建てたこと、しんのすけが生まれたことなどを思い出し、自分は大人である、もう子供であることの幸福から抜け出して大人として生きていかなければいけないと気づくシーンで、涙なしには見られないです。たぶんオマージュしてるんじゃないかと思います。
じゃあなにがしんどかったかって、最初に書いたとおり「松造と松代」がサブタイトルであるのに松代の内面がまったく描かれなかったこと、そして、松代がひとりの女性としてではなく、ただの“妻”、そして“母”という記号になっていたことです。
最後のシーンの松造と松代の会話。
松代「懐かしいわね。覚えてる?いつの日かあなた、私に向かって叫んだじゃない。ここで」
(若い松造が叫ぶシーンの回想)
松代「まさか忘れたの?」
松造「忘れた。覚えとらん、そんな昔のことをいちいち」
松代「あっそう。でも私は忘れない。いつまで経っても」
松造「あっそう」
松代「ふふふ。あーさむーい」
(松代、松造の隣に座る)
松代「いつかこうして、二人きりになるんだね」
松造「そうだね」
(惚れ薬によって発情状態になった六つ子が全裸で飛んでくる)
松代「……ふたりきりになれるのかなあ?」
松造「どうかなあ」
ここだけ見ればすごくいいシーンだと思います。歳をとった夫婦が、多くの言葉は交わさず、けれど寄り添い、今後もふたりで生きていくことを確かめ合う。そこに、いい歳こいてニートで童貞の息子たちが飛んできて、「ふたりきりにはなれそうもないね」で、ギャグとしてオチる。完璧だと思います。
松代の内心がまったく描かれなかったことを除けば!!!!!!!
最初に松造は言いました、「母さんが最近冷たい」。それは松造視点の事実としてたしかにあったはずで、つまりは松代の側にもなんらかの変化があったはずなんです。そもそも松代の変化、それによる松造の苦悩が話の起点であったはずなのに、なんで松代の心情描写が一切なく、最後には丸く収まってるんですか!!!!!!なぜ松代は最後、松造のところに現れたんですか!これからもふたりで生きていきましょうね、みたいな会話をしたんですか!松代は松造に冷たくなっていたんじゃなかったんですか!松代になにがあったんですか!松代はなにを考え、どのような心情の変化があり、なぜ松造のもとを訪れたんですか!!!!!!
3話のBパート「トト子の挑戦」に関して、わたしはシナリオの破綻をちゃんと読み取ってくれ、という話をついったーでしました。(これから始まるツリーです)
今回の4話について、話の起点は松造による「母さんが最近冷たい」という悩みです。シナリオとしてきちんとオチをつけるなら、それは松造によるただの勘違いだった、などの回答を示せばよかったと思うんです。最後のシーンで、「実は最近、お前に嫌われてるんじゃないかって悩んでいたんだ」「なあにそれ?私はなにも変わってないわよ」みたいな会話をひとつ挟むだけでよかったんです。あるいは、松代に「あなたたち(松造と六つ子)が楽しそうになにかしてるからひとりでさみしかったのよ」というかたちでオチをつけることもできた。
じゃあなんで「母さんが最近冷たい」についてきちんとした回答もなく松代は最後、松造に寄り添ったのか、松造の悩みは解決したのか。
3話Bのような意図的なシナリオの破綻でもなく、そしてシナリオが下手だということでもなく、わたしはそれを、“製作側にそもそも松代の内面を描こうという意識がなかった”ということだと感じました。
『おそ松さん』は成人しているのにニートで童貞な六つ子が主役の作品で、彼らがわちゃわちゃして笑いをとるギャグアニメで、今回は松造と六つ子が奮闘するお話である。
それが今回、製作側が示したことで、そこには「『おそ松さん』という作品で松代の内面を描く必要はないからそういうシーンは入れないでおきましょう」というコンセンサスすらなかったんじゃないかと思います。製作側には、妻であり母であるけれど、それ以前にひとりの人間である松代を描くという発想すらなかった、と、わたしは4話を観て思ってしまいました。
わたしの勝手な想像です。ほんとうは松代の内面を描くシーンもあったけど、尺の都合でカットされたのかもしれません。けれど、あいだあいだに無言の松代がお皿を洗ったり、テレビを観ているシーンが挟まれています。あのシーンは「(松造から見て)松代の心の内がわからない」ことの暗示だと思います。松造はチビ太のおでん屋のシーンで、「子供が成人して、夫婦もお役御免かと思ったら不安になった。なんのために俺と一緒にいるのか、好きで一緒にいてくれるのかってな」と心情を吐露します。つまり今回は、松造視点で、歳を重ねた夫婦の「夫側の」不安や苦悩を描く、プラス六つ子という回だったんでしょう。
だったらサブタイトルを「松造と松代」なんていうものにしないでほしかった。
「松造と松代」と題しておきながら、松代はただストーリーに都合のいいように描写される存在でしかなかった。一期24話B「手紙」のしゃべらないおそ松兄さんと今回の松代の描かれ方は一見同じように見えるけど、ぜんぜん違います。「手紙」はまず最初におそ松兄さんの怒りが明確に描写されていました。そのことで、その後の無表情は怒りや拗ねであるとわかりやすく視聴者に伝わります。けれど今回の松代についてはそういう描写もない。ただストーリーを動かすために画面に映されていただけだった。
わたしは4話の松代を、ストーリーを動かすためだけの装置になっている松代を見て、理由もなく主人公の男がちやほやされる、女性というものが消費されるだけのハーレムアニメを観ているようなしんどさを覚えました。
サブタイトルが「松造の苦悩」みたいなものだったらこんなことは感じなかったと思います。あるいは、描かれたのが“夫婦”であり“親”である松造と松代だったなら、ひとりの人間としての松造と松代が描かれていなくても、納得したと思います。『おそ松さん』の主役はあくまでも六つ子だし。
4話で松代の内面がまったく描かれなかったことに対する不満をぐちぐちと言っていたら、友人から「それはないものねだりでは?」と言われました。
わかってるんです。
『おそ松さん』の主役は六つ子で、話の軸となるのは彼らが成人しているのにニートで童貞であることです。歳を重ねた夫婦の物語でもなければ、子供が独立してくれないことに悩む親の話でもないし、ましてや専業主婦の内面を描く話ではないことくらい、わたしにもわかっています。
でも、わたしは一期2話でおそ松兄さんが兄弟を「五人の敵」と言い放ってくれたことに、すごく救われたんです。マンガやアニメや小説といったフィクションが、ずっと心にわだかまっていたもの、傷となっていたことを、ふわっと撫でるように癒やしてくれることがあって、わたしにとって「五人の敵」はまさにそれでした。きょうだいを敵だと言ってもいいんだ、と救われました。それ以降、わたしは『おそ松さん』というアニメに全幅の信頼を寄せていました。
親の愛情を奪い合う敵であるきょうだいがいるということや、成人しているのに誰かに養われているというしんどさを、ギャグアニメの体裁は決して失わずに、それでも丁寧に丁寧に描いてきてくれた、そして「じょし松さん」では主役が成人男子であるという枠組みさえ超えて妙齢の女子が生きるしんどさを描いてくれた『おそ松さん』という作品に、わたしは期待しすぎていたんでしょうか。
実際、今回の二期4話だってものすごく丁寧なお話だったと思うんです。悩む松造に六つ子が「母さんだけが悪いみたいになってないか?」「悪いのは拒否する母さんだ、みたいな感じ?」「好きでいてもらえることが当たり前になってんの?調子乗ってんの?」などとツッコミを入れるのは、かなり細やかな人間観を持っていないと書けないシーンだと思います。
そういう丁寧なシーンがある一方で、松代のあつかいが雑すぎるのが余計にしんどい。
一期10話のコメンタリーで、キャストさんたちが「エスパーニャンコ」はカラ松のオチのための壮大なふりだった、カラ松をより不憫に見せるためにいいように作られた話で、つまりは悪意だ、と言っていました。
今回の話も、そんな「うっかりいい話」だったらよかった、と思います。最後に松代が、松造も六つ子も切り捨てるようなオチがあったらよかった、と。「じょし松さん」や「トト子おおあわて」で女子の人生すらすくいとってくれたんだから、結婚して子供を持って主婦として生きる松代を、きちんと描いてほしかった。
まあたぶんわたしが女性の描写に敏感なんだとは思います。普段から女性が女性として生きることのしんどさや性差別のひどさにうんざりしている一方で、ただただ楽しんで観られるおそ松さんというアニメで松代のあつかいがあんまりだったので、不意打ちで大きなダメージをくらってしまったんだと思います。
たとえば共働き家庭で女性がすべての家事を担うこと、男性が育児を「手伝う」ものだと認識していること、専業主婦の女性が体調を崩したときに夫が「休んでいいよ」と言うこと、そのようなことを想起してしまうのは大げさだとは自分でもわかっているのですが、でも、今回の話に「松造と松代」というサブタイトルがつけられていながら松代の描写がほとんどなかったこと、そしてそれが製作陣の意図的なものでないように思えること、松代を物語を動かす記号としてしか使用しないこと、松代を記号として登場させることに自覚的ではないことと、どうしてもつながっているように思えてしまうんです。女性を消費するものとして登場させておきながら、それが“消費”である、という自覚を持った作品はあります。でもその自覚は、4話にはまったく感じられませんでした。『おそ松さん』の製作スタッフはほとんどが男性で、つまり4話がこうなったのはしかたのないことで、世の男性は、そして製作スタッフの男女観はそんなものだったのか、という落胆と悲しみがありました。
余談ですが、松造の回想シーンで思い出した、と書いた映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、子供状態になっていた父・ひろしが大人である自分を取り戻すシーンは丁寧に丁寧に描かれていて涙なしには見られないんですが、母・みさえが大人に戻るシーンはあっさりすぎるくらいあっさり描かれていて、そこには回想もなにもありません。今回の4話、わたしはそれも思い出しました。
べつに4話の松代のあつかいに不満があることで視聴をやめたり、ファンをやめたり、ましてやアンチになったりなどはしないのですが、そしてこの文章になんらかの結論があるわけでもないのですが、ただただ4話の松代のあつかいがしんどかったというだけの話です。そして、わたしのほかにも、4話の松代のあつかいがしんどかった、という方がいらっしゃることがただただ救いです。ありがとうございます。
心に『おそ松さん』という作品に対してのしこりを残しつつ、今後、松代がきちんと描かれる回(それは松代の心情の丁寧な描写とイコールではないです)があることをただひたすらに望みながら、今後も二期を視聴してゆきます。
批評でもないしロジカルなことを言うつもりもないしただただしんどいと言うだけです。
「松造と松代」というサブタイトルだったのにメインで描かれたのは松造と松代の話ではなく松造と六つ子だった。それ自体はべつにいいんです、だって六つ子が主役のアニメだし。
「松造と松代」というサブタイトルを冠しておきながら松代がまったく描かれなかったこと、つまり製作陣はおそらくあれを「松造と松代」の話だと認識していて、なのに中身を見てみれば松代についての描写はまったくないことがしんどいです。
松造の心情はあれだけ尺を取って描かれていて六つ子は松造のために奮闘したのになんで松代についてはセリフのひとつもないの?松代の心情はまったく描かれなかったのになんで最後丸く収まってるの?松代、松造に対して最近冷たかったんじゃないの?その理由は?最後にはどうして仲直りしたの?松代になにがあったの?どういう心情の変化があったの?どうしてそれは描かれないの?松代はなんで松造をゆるしたの?????
ちょっと話の流れを整理してみます。
最近松造の様子がおかしい
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六つ子が問い質すと、松造が「母さんが最近冷たい」「おやすみのちゅーやあれやこれやもない」と吐露する
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「父さんも童貞になればいい」と提案
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松造を童貞に戻すために六つ子が奮闘
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無理だった→惚れ薬を使えばいいとひらめく
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松造と六つ子、惚れ薬の材料を手に入れるために奮闘→惚れ薬は無事完成
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松造、手に入れた惚れ薬を結局使わない、松代となんかいい感じに収まる
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未だニートで童貞である六つ子たちが飛んできて、「(夫婦)ふたりになれるときなんて来ないかもしれない」とぼやく
六つ子が「親の悩みなんか知りたくない」「でも親の夫婦関係が破綻したらニートでいられない」と煩悶するところとか、松造を童貞にすればいいと素っ頓狂な提案をして六つ子が童貞指南をするところとかはめちゃくちゃおもしろかったです。笑いました。こうして全体の流れを書いてみても、六つ子がニートである、童貞であるということがオチの要因になっている、ギャグとしてよくできたストーリーだったと思います。
そして惚れ薬を手に入れたあとの、松造の回想シーンもよかった。学生時代、まだ若かったころ、告白して、つきあって、結婚して、家を建てて、子供が生まれて、その人生はたしかに幸せだった、自分たちには物語があった、と気づいた松造が、惚れ薬という相手の人格を無視したものを投げ捨てるという結論にたどり着いた、あそこだけ切り取ればとても感動的なシーンだったと思います。わたしは映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のワンシーンを思い出しました。面倒なのであらすじなどは書きませんが、子供に逆戻りしてしまったしんのすけの父・ひろしが、田舎での子供時代、上京、就職、みさえとの出会い、結婚、家を建てたこと、しんのすけが生まれたことなどを思い出し、自分は大人である、もう子供であることの幸福から抜け出して大人として生きていかなければいけないと気づくシーンで、涙なしには見られないです。たぶんオマージュしてるんじゃないかと思います。
じゃあなにがしんどかったかって、最初に書いたとおり「松造と松代」がサブタイトルであるのに松代の内面がまったく描かれなかったこと、そして、松代がひとりの女性としてではなく、ただの“妻”、そして“母”という記号になっていたことです。
最後のシーンの松造と松代の会話。
松代「懐かしいわね。覚えてる?いつの日かあなた、私に向かって叫んだじゃない。ここで」
(若い松造が叫ぶシーンの回想)
松代「まさか忘れたの?」
松造「忘れた。覚えとらん、そんな昔のことをいちいち」
松代「あっそう。でも私は忘れない。いつまで経っても」
松造「あっそう」
松代「ふふふ。あーさむーい」
(松代、松造の隣に座る)
松代「いつかこうして、二人きりになるんだね」
松造「そうだね」
(惚れ薬によって発情状態になった六つ子が全裸で飛んでくる)
松代「……ふたりきりになれるのかなあ?」
松造「どうかなあ」
ここだけ見ればすごくいいシーンだと思います。歳をとった夫婦が、多くの言葉は交わさず、けれど寄り添い、今後もふたりで生きていくことを確かめ合う。そこに、いい歳こいてニートで童貞の息子たちが飛んできて、「ふたりきりにはなれそうもないね」で、ギャグとしてオチる。完璧だと思います。
松代の内心がまったく描かれなかったことを除けば!!!!!!!
最初に松造は言いました、「母さんが最近冷たい」。それは松造視点の事実としてたしかにあったはずで、つまりは松代の側にもなんらかの変化があったはずなんです。そもそも松代の変化、それによる松造の苦悩が話の起点であったはずなのに、なんで松代の心情描写が一切なく、最後には丸く収まってるんですか!!!!!!なぜ松代は最後、松造のところに現れたんですか!これからもふたりで生きていきましょうね、みたいな会話をしたんですか!松代は松造に冷たくなっていたんじゃなかったんですか!松代になにがあったんですか!松代はなにを考え、どのような心情の変化があり、なぜ松造のもとを訪れたんですか!!!!!!
3話のBパート「トト子の挑戦」に関して、わたしはシナリオの破綻をちゃんと読み取ってくれ、という話をついったーでしました。(これから始まるツリーです)
今回の4話について、話の起点は松造による「母さんが最近冷たい」という悩みです。シナリオとしてきちんとオチをつけるなら、それは松造によるただの勘違いだった、などの回答を示せばよかったと思うんです。最後のシーンで、「実は最近、お前に嫌われてるんじゃないかって悩んでいたんだ」「なあにそれ?私はなにも変わってないわよ」みたいな会話をひとつ挟むだけでよかったんです。あるいは、松代に「あなたたち(松造と六つ子)が楽しそうになにかしてるからひとりでさみしかったのよ」というかたちでオチをつけることもできた。
じゃあなんで「母さんが最近冷たい」についてきちんとした回答もなく松代は最後、松造に寄り添ったのか、松造の悩みは解決したのか。
3話Bのような意図的なシナリオの破綻でもなく、そしてシナリオが下手だということでもなく、わたしはそれを、“製作側にそもそも松代の内面を描こうという意識がなかった”ということだと感じました。
『おそ松さん』は成人しているのにニートで童貞な六つ子が主役の作品で、彼らがわちゃわちゃして笑いをとるギャグアニメで、今回は松造と六つ子が奮闘するお話である。
それが今回、製作側が示したことで、そこには「『おそ松さん』という作品で松代の内面を描く必要はないからそういうシーンは入れないでおきましょう」というコンセンサスすらなかったんじゃないかと思います。製作側には、妻であり母であるけれど、それ以前にひとりの人間である松代を描くという発想すらなかった、と、わたしは4話を観て思ってしまいました。
わたしの勝手な想像です。ほんとうは松代の内面を描くシーンもあったけど、尺の都合でカットされたのかもしれません。けれど、あいだあいだに無言の松代がお皿を洗ったり、テレビを観ているシーンが挟まれています。あのシーンは「(松造から見て)松代の心の内がわからない」ことの暗示だと思います。松造はチビ太のおでん屋のシーンで、「子供が成人して、夫婦もお役御免かと思ったら不安になった。なんのために俺と一緒にいるのか、好きで一緒にいてくれるのかってな」と心情を吐露します。つまり今回は、松造視点で、歳を重ねた夫婦の「夫側の」不安や苦悩を描く、プラス六つ子という回だったんでしょう。
だったらサブタイトルを「松造と松代」なんていうものにしないでほしかった。
「松造と松代」と題しておきながら、松代はただストーリーに都合のいいように描写される存在でしかなかった。一期24話B「手紙」のしゃべらないおそ松兄さんと今回の松代の描かれ方は一見同じように見えるけど、ぜんぜん違います。「手紙」はまず最初におそ松兄さんの怒りが明確に描写されていました。そのことで、その後の無表情は怒りや拗ねであるとわかりやすく視聴者に伝わります。けれど今回の松代についてはそういう描写もない。ただストーリーを動かすために画面に映されていただけだった。
わたしは4話の松代を、ストーリーを動かすためだけの装置になっている松代を見て、理由もなく主人公の男がちやほやされる、女性というものが消費されるだけのハーレムアニメを観ているようなしんどさを覚えました。
サブタイトルが「松造の苦悩」みたいなものだったらこんなことは感じなかったと思います。あるいは、描かれたのが“夫婦”であり“親”である松造と松代だったなら、ひとりの人間としての松造と松代が描かれていなくても、納得したと思います。『おそ松さん』の主役はあくまでも六つ子だし。
4話で松代の内面がまったく描かれなかったことに対する不満をぐちぐちと言っていたら、友人から「それはないものねだりでは?」と言われました。
わかってるんです。
『おそ松さん』の主役は六つ子で、話の軸となるのは彼らが成人しているのにニートで童貞であることです。歳を重ねた夫婦の物語でもなければ、子供が独立してくれないことに悩む親の話でもないし、ましてや専業主婦の内面を描く話ではないことくらい、わたしにもわかっています。
でも、わたしは一期2話でおそ松兄さんが兄弟を「五人の敵」と言い放ってくれたことに、すごく救われたんです。マンガやアニメや小説といったフィクションが、ずっと心にわだかまっていたもの、傷となっていたことを、ふわっと撫でるように癒やしてくれることがあって、わたしにとって「五人の敵」はまさにそれでした。きょうだいを敵だと言ってもいいんだ、と救われました。それ以降、わたしは『おそ松さん』というアニメに全幅の信頼を寄せていました。
親の愛情を奪い合う敵であるきょうだいがいるということや、成人しているのに誰かに養われているというしんどさを、ギャグアニメの体裁は決して失わずに、それでも丁寧に丁寧に描いてきてくれた、そして「じょし松さん」では主役が成人男子であるという枠組みさえ超えて妙齢の女子が生きるしんどさを描いてくれた『おそ松さん』という作品に、わたしは期待しすぎていたんでしょうか。
実際、今回の二期4話だってものすごく丁寧なお話だったと思うんです。悩む松造に六つ子が「母さんだけが悪いみたいになってないか?」「悪いのは拒否する母さんだ、みたいな感じ?」「好きでいてもらえることが当たり前になってんの?調子乗ってんの?」などとツッコミを入れるのは、かなり細やかな人間観を持っていないと書けないシーンだと思います。
そういう丁寧なシーンがある一方で、松代のあつかいが雑すぎるのが余計にしんどい。
一期10話のコメンタリーで、キャストさんたちが「エスパーニャンコ」はカラ松のオチのための壮大なふりだった、カラ松をより不憫に見せるためにいいように作られた話で、つまりは悪意だ、と言っていました。
今回の話も、そんな「うっかりいい話」だったらよかった、と思います。最後に松代が、松造も六つ子も切り捨てるようなオチがあったらよかった、と。「じょし松さん」や「トト子おおあわて」で女子の人生すらすくいとってくれたんだから、結婚して子供を持って主婦として生きる松代を、きちんと描いてほしかった。
まあたぶんわたしが女性の描写に敏感なんだとは思います。普段から女性が女性として生きることのしんどさや性差別のひどさにうんざりしている一方で、ただただ楽しんで観られるおそ松さんというアニメで松代のあつかいがあんまりだったので、不意打ちで大きなダメージをくらってしまったんだと思います。
たとえば共働き家庭で女性がすべての家事を担うこと、男性が育児を「手伝う」ものだと認識していること、専業主婦の女性が体調を崩したときに夫が「休んでいいよ」と言うこと、そのようなことを想起してしまうのは大げさだとは自分でもわかっているのですが、でも、今回の話に「松造と松代」というサブタイトルがつけられていながら松代の描写がほとんどなかったこと、そしてそれが製作陣の意図的なものでないように思えること、松代を物語を動かす記号としてしか使用しないこと、松代を記号として登場させることに自覚的ではないことと、どうしてもつながっているように思えてしまうんです。女性を消費するものとして登場させておきながら、それが“消費”である、という自覚を持った作品はあります。でもその自覚は、4話にはまったく感じられませんでした。『おそ松さん』の製作スタッフはほとんどが男性で、つまり4話がこうなったのはしかたのないことで、世の男性は、そして製作スタッフの男女観はそんなものだったのか、という落胆と悲しみがありました。
余談ですが、松造の回想シーンで思い出した、と書いた映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、子供状態になっていた父・ひろしが大人である自分を取り戻すシーンは丁寧に丁寧に描かれていて涙なしには見られないんですが、母・みさえが大人に戻るシーンはあっさりすぎるくらいあっさり描かれていて、そこには回想もなにもありません。今回の4話、わたしはそれも思い出しました。
べつに4話の松代のあつかいに不満があることで視聴をやめたり、ファンをやめたり、ましてやアンチになったりなどはしないのですが、そしてこの文章になんらかの結論があるわけでもないのですが、ただただ4話の松代のあつかいがしんどかったというだけの話です。そして、わたしのほかにも、4話の松代のあつかいがしんどかった、という方がいらっしゃることがただただ救いです。ありがとうございます。
心に『おそ松さん』という作品に対してのしこりを残しつつ、今後、松代がきちんと描かれる回(それは松代の心情の丁寧な描写とイコールではないです)があることをただひたすらに望みながら、今後も二期を視聴してゆきます。
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