こうした記述の後、「インドネシア国民にとっての日本占領の影響」がまとめられる。政治面では、「日本のインドネシア占領に抵抗を続けた組織がいくつかあったものの、その時代の政治活動は日本政府によってコントロールされていた」。経済面では「帝国主義国として日本民族が行ったインドネシアの占領は、ほかの帝国主義の国々が行ったことと大きな違いはなかった」。教育面では「日本のインドネシア占領時代には、オランダ領東インドの占領時代と比較して教育面での急速な進展があった。日本占領政府はインドネシア民族に対して政府が建てた学校での教育に参加する機会を与えた。そのほかインドネシア語が仲介語として各学校で利用され、インドネシア化された名称が使われた。しかし、日本がインドネシア人に広く教育を普及させた目的は、日本に対する好感情を育て太平洋戦争で敵と対決するにあたり、インドネシア人たちの協力を得るためであった」。文化面では「ファシストの国として日本は、常に日本の文化をインドネシアに植え付けようとした。その一つは太陽が昇る方向を敬う習慣であった。これは太陽神の子孫であるとみなされていた天皇を敬うための日本の伝統であった」。社会面では、「日本占領時代、人々の社会生活は不安に満ちたものであった。人々のあらゆる活動が、日本が敵と戦う上で必要なものを満たすために振り向けられたので、人民の苦しみは増す一方であった。労務者(romusha; 強制労働)になった人たちは特に苦しんだ。多くの人が空腹と病気のために犠牲者となった」。行政面では、「インドネシア統治のシステムは軍の制度に基づいて整えられた」。軍事面では、上記ペタの意義が述べられている(252~253頁)。
日本軍の敗退の結果、「1944年9月7日、小磯首相はインドネシア人に対して独立の約束を与えた。インドネシア人民の共感を引き出すために各役所が紅白旗を掲揚するのを許可したが、日本の国旗と一緒に掲げなければならなかった」(253頁)。1945年5月29日~6月1日まで開催された独立準備調査会で、「のちにパンチャシラ(Pancasila)として知られる独立インドネシア国の哲学的基礎が話し合われた」(254頁~)。これとは別に、スカルノらは「9人委員会または小委員会」を結成し、独立インドネシア国の原則と目的を盛り込んだジャカルタ憲章(1945年憲法の前文のもと)を作製した(255頁~)。8月7日、寺内元帥は独立準備調査会に代わるインドネシア独立準備委員会の設立に同意したが、「その後スカルノたちによって、独立準備委員会は日本側の同意なしにメンバーが27人に増員され、インドネシア人の闘争組織に変更された」(256頁)。
「インドネシアの人々は、太平洋戦争における1944年末から1945年8月までの日本の戦力低下と敗北について多くを知らなかった。それには次のような理由が挙げられる。
a. 無線を通じての海外とのコミュニケーションが途絶えていた、あるいは日本によって厳しく禁止されていた。
b. 日本の宣伝部は絶えず日本の戦勝に関するニュースを流していた。
1945年8月14日[訳注12参照]、日本は連合国に無条件降伏した。当初このニュースはインドネシアの日本軍によって秘密にされた。しかし、青年たちはこの降伏をバンドゥンでBBCのニュースを通じて知った。」8月15日夜のインドネシアの青年たちの会合で、スカルノら年長者と青年の意見が衝突したものの、「インドネシアの独立は、インドネシア人民自身の権利であり問題であり、ほかの民族や国によって左右されるものでないことが最終的に確認された」(第七章260頁~)。「前田精海軍少将邸でインドネシア独立宣言文の草稿が練られ」、宣言文もその食堂で起草された(262頁)。8月17日、それはスカルノ邸で読み上げられ、ラジオでも放送されたが、「2回放送したところで日本人が無線室に入ってきて」…「その日本人は怒ってそのニュースを止めるよう命じた」。「ジャワの日本軍指導者は、そのニュースを訂正し、まちがいだと発表するよう命じた。8月20日、ラジオ放送局が日本によって封印され、職員は立ち入りを禁じられた」が、青年たちは新しい放送局をつくった(268~269頁)。「人々は日本の手から権力の移行を受け、新しく樹立したインドネシア共和国の主権を確立するためにただちに行動した」…「しかし、日本が、連合国軍の到着までインドネシアを固守しようとしていたため、権力移行への道はそれほど順調ではなかった。もっとも、日本軍の一部は生命の安全のために引き渡しに応じていた。権力の移行のほかに人々は日本軍の武器を獲得しようと試みた。しかし、日本側が武器のインドネシア側への引き渡しに応じようとしなかったため、日本軍と青年たちの間で激しい戦いが、特にジャカルタ、スラバヤ、スマラン、ヨグヤカルタ、バンドゥン、メダン、パレンバン、ウジュン・パンダン、およびその他日本軍が駐留していた大都市で起きた。日本軍は連合国軍が来るまでのインドネシア領域の現状維持に努めており、一方、民衆と青年たちは日本軍に対し権限をインドネシアに渡すよう迫っていたため、その争いから犠牲者が出た。」…「この権力奪取のプロセスは1945年8月から10月まで続いた」。1945年9月19日のイカダ広場での大集会では、「日本軍は装甲車の助けを借りて完全武装軍団でこの集会の不成立を図ったが、イカダ広場を埋め尽くした人々の圧力を阻止することはできなかった」。「スマランでは青年たちと日本軍の間の戦闘が1945年10月14日から19日まで5日間続いた」(292~293頁)。
このように教科書の記述は続く。ここからは、以下の特徴がうかがわれる。
第一に、インドネシアの教科書では、明治維新や日露戦争には高い評価が与えられている。これは朝鮮や中国とは異なり、日本による圧迫を当初はインドネシアが受けなかったからであろう。実際日本による朝鮮支配の記述はほとんどないし、自身が占領された時期については日本に批判的な記述が目立つ。
第二に、日本によるインドネシア支配の記述では、日本がインドネシア独立に寄与した点にも言及がある。ただし、批判的な記述の方が多く、日本側とインドネシア側の意思のずれが散見される。結局インドネシア独立は、日欧帝国主義の衝突の混乱を利用して、インドネシア民族主義者が独自の力で獲得したものなのであり、「日本がインドネシアを解放してやった」という上から目線の言い方は、おそらく反感をかうだけであろう。
第三に、日本の帝国主義化は日本の国内的要因から説明されている。日本に批判的な原因はここにもあると思われるが、占領下の記述を見れば、そうした理論的な原因だけではなく、より実体験に基づく日本への反感があるものと推察される。
第四に、日本の教科書に比べて、近現代史の記述が厚い。これは日本における幕末維新に当たる時代だからなのかもしれないが。
以上のように、インドネシアの教科書も、程度の差はあれ日本に対して批判的であり、アジア太平洋戦争期の日本の侵略に対しては、中国・朝鮮のみが反発しているわけではないことが分かる。一部の政治家の発言だけをもって、中国・朝鮮以外は親日的だと思っていると、おそらくは手痛いしっぺ返しを食らうであろう。無論、日本の大衆文化に対する評価は、これとは異なる筈である。
2011年9月18日(日)
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全部ぜ?んぶ吐き出しちゃいなよ?
ココでさ♪
ttp://a.hexisag.org/v9z4bhf/
2011/9/23(金) 午前 11:36 [ 溜まってる物 ] 返信する
誰か遊んでちょっ☆
ttp://www.eutous.me/otbq4tm/
2011/10/1(土) 午後 1:42 [ ひまぷぅ? ] 返信する
本人補足:内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』(山川ブックレット、2002年)末尾に「アジアの独立と日本の賠償」の一覧表があるが、インドネシアは他の諸国の多くが賠償放棄を宣言する中で、フィリピン等とともに賠償を日本からとっている。もっとも、生産物と役務の提供の形でとることが多かったことから、この賠償が戦後日本の東南アジア経済進出の契機となったことは、よく指摘される。
2011/11/13(日) 午前 10:47 [ a99*90*d ] 返信する