|
宮川氏の許可を得て、ここに記事をUPします。
先日の正木氏の続報になります。
なお拡散自由ですので、よろしくお願いします。
常唱院日護の徒然(つれづれ)に思う。
「続・正木理事長 そして、その後」
御苦労様です。
今日は、一昨日妻と色々と話す中で成る程!と思う事があったので
参考になればとお話させていただく。
二人の誕生石がダイヤモンドであるとの話題から
( 家内は全く貴金属や宝石に興味がなく、以前にも二人の誕生石のダイヤモンドを買ってあげようか?
と言ったら「いらん!石炭でいい」と)
石炭とダイヤモンドは同じ炭素だけれども、何故全然違うか?
それは、石炭にとてつもない外圧( 数万気圧 )が加えられ、
更に今度は、石炭の中からそれに負けない程のとてつもない熱(数万度)が、
内部から発生して、外圧と内圧の驚異的なせめぎ合いによって、
ダイヤモンドになるのだそうである。
とてつもない圧力が難・迫害であるならば、
石炭が出すとてつもない熱は、難や迫害に負けない信心、師弟である。
との話から「難即悟達」の話になった。
この後、妻が言った言葉が印象的でだったので紹介させて頂く。
以下、妻の言葉。
『私は迂闊にも、「難即悟達」を「難→転換→悟達」と捉えていた。
頭では「即」と理解しつつも、生命では捉え違えていた。
だから、この難に耐えに耐えて、越えたらその先に悟達があると踏ん張っていた。
とんでもない事だ。宇宙の根本法則、仏法では、「即とはイコール」という事だ。
(いく通りかの考えあるけれど)
だから難を受けた瞬間が、既に悟達なんだ。
だから「悟達」に、ふりがなを付けるとすれば、「なん」とふらねばならず、
「難」のふりがなは、「ごだつ」とふらねばならない。
但し、「難即悟達」は、「悟達即難」とはなり得ない。
馬鹿げた理論だけど、「悟達」こそ「如我等無異」という境涯だから、その境涯は戻る事はない。
では、「悟達」にイコールする「難」は、どう捉えるべきか?
これこそ、「難即栄光」だ。「難 を受けられる境涯そのものが、既に「悟達」に到達している。
だから、我々は、「池田先生の弟子」と言う幸せ者達は迫害を受けた瞬間に、
池田先生から「真正の弟子」「如我等無異の弟子」とのお墨付きを戴いたと言う事となるんだ。
だから、私達を迫害した糞尿ども及び関係者全員は「悟達推進菩薩なんだ」と言うのです。
そして二人で「有難う.糞爺の役の悪党ども!」と叫びました。
「御苦労様でした、まもなく焼けただれた地獄の釜の中に、蹴り込んで上げましょう」と告げました。
更に家内は、『大聖人様が竜の口で、まさに首斬られんとされた時、
「只今なり」と泣きながら殉死しようとした四条金吾に
「不覚の殿ばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・約束をば違えらるるぞ」(P914)
と言われ、酷寒の佐渡にて「流人なれども喜悦はかりなし」( P1360 )と言われたが、
難などご覚悟の上の事。
目的は末法万年尽未来際に人類の、否、全生命を救う事にあられ、
仏の設計図のひとつに、当然難が組み込まれていらっしゃる大聖人様が、
何故わざわざ御難の極みの度に歓喜を口にされるのか。
仏がわざわざ口にされる事ではないのに。
常々私は、「歓喜の中の大歓喜とは、いったいどこをさすのだろう」と思い続けてて今、解った。
最も苦難の時、死をも覚悟し抜いた時に、『 歓喜の中の大歓喜が起こるのだ』と、
『何故リサール博士が、死の直前、振り返ったのか』
実は、その歓喜を伝えたかったのではないか』と。
更に松陰先生の「死して不朽の見込みあらば.いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば.いつでも生くべし 」も、同じ覚悟である!と。
さすが、と思った。
何か長々と前後不自然な文になったが、
貴重な捉えかただと思ったので紹介させて戴いた。
そこで、タイトルの正木元理事長、そしてその後だが
宮川や未来部が余りにも、
顧問の正木さん居ませんか?
顧問の正木さん、いつ来るんですか?
顧問の正木さんに、連絡を頂きたいのですが?
と頻繁に連絡してくるので、晴れ、11・18には第三文明社顧問からの移動が決まったそうである。
何でも、本部大誓堂にある、何か恩師記念室か何かの室長との事。
ワーッ!もう訪問出来ないじゃん。
栄転なのか?再左遷なのか?はたまた、軟禁なのか?
原田らの外圧に対して正木熱を出せば、ダイアモンドになれるのに!
「難即悟逹 なのに!残念!
仕方ないので、この投稿を読んで下さっている、共に戦う世紀の勇者に送ります。
大難を受ける事が出来る境涯が、既に仏の境涯。
大難に耐えて、堪えて、苦しんで、ではなく、
『難即悟達』
なんだと決めれば、難に戸惑う事もない。
『ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ 』(1143)
(私の家の場合は、女房と酒うちのみてではなく、ただ女房のみ酒うちのみてですが、私はゲコで全く飲めません)
『設ひ・いかなる・煩わしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさわぐ(思索)らせ給うべし 』(1088)
と、思うものである。
|
|