よく個別の政治家の発言などを引用して、「反日的」なのは中国と朝鮮くらいで、他の諸国では反日感情は強くないと言われる。特に最近日本のオタク文化などが海外で人気を博すようになってからは、そうした主張も勢いを増している。しかしそれは、日本の平和主義や文化が評価されているだけの話であり、日本の侵略そのものには未だ反感が強いことは、小林よしのりの漫画の台湾での騒動などでも明らかである。米国の文化は広く浸透していても、その対外政策には反感が強いことと同一である。とはいえ、私の口から言っても「自虐」扱いされるだけであろう。
そこで、アジア各国の「公式見解」を示すと思われる歴史教科書を見てみたいと思い、試みにイ・ワヤン・バドリカ(石井和子監訳、ぐみ沢英雄・田中正臣・菅原由美・山本肇訳)『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史』(明石書店、2008年)を参照した。凡例によれば、これは1994年カリキュラム・1999年補遺に準拠したエルランガ社の普通高校用歴史教科書全3巻(先史時代~現代、国史・世界史、3年間に各巻を通年で学ぶ)のうち、インドネシア史関連の記述のみを訳したものである。なお、2006年カリキュラム変更があったようだが、04~06年にPKI反乱の記述をめぐって混乱が生じたため、この新カリキュラムに準拠した教科書を用いることができなかったという。したがって、現在では記述に若干の変更があるかもしれない。また、この教科書がインドネシアの典型的な教科書なのかどうかは私は知らない。
本書の第4~7章は原著の第2巻からとられた。時間がなかったので、そこでの日本関連の記述をざっと見てみるだけにとどめた(図書館内で閲覧し、若干複写した)。
日本の明治維新は比較的詳しく書かれている(黒船来航、攘夷運動、大政奉還、徴兵制、鉄道、義務教育、地租改正など、第6章237~241頁)。その後、「日本の産業は1868年の維新以降急速に発展し、人口も増加の一途をたどった結果経済面に影響が出てきた。土地の広さが人口に見合っていないことが明らかとなり、日本はオセアニア、アジア、およびアフリカにおける西洋諸国による植民地獲得競争に関心を払っていた。そして自分に力がついたと感じたとき、西洋諸国に倣って植民地を獲得したいという願望を持つようになった」(第6章241頁)。
このように日本の帝国主義化は国内的要因によって説明されている。日本が朝鮮に不平等条約を強制したことの記述もない。この後、日清・日露戦争の記述がつづくが、ここで「21カ条の要求」(第6章241頁)が登場するなど、若干の不正確な記述がみられる。
「特に1904年から1905年にかけての日露戦争において日本がロシアに勝利を収めたことは、インドネシアのナショナリズム運動の流れに特別のインパクトを与えた。日本の勝利はアジア民族に、西洋に勝つこともできるという自信を植え付けるとともに劣等感を払拭させ、ヨーロッパ人と同等でありたいという国民意識を育てることになった」(第5章166頁)…「アジアも、アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた」(第6章242頁)…「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。」…「太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである」(243頁)。
このように日露戦争は高く評価されている。しかしこの戦争が朝鮮支配をめぐる戦争であったことには言及がない。また同時に、
「インドにおける英国の帝国主義者に対するマハトマ・ガンジーの抵抗もまた間接的ではあるが、インドネシアの民族運動に影響を与えた。その他、1896年に起きたスペイン排斥を目的としたフィリピンの闘争と革命も、インドネシアのナショナリストおよび知識人たちの関心を引いた。その後、満州民族の追放に成功した1911年の中国の革命もまた、インドネシア人に独立獲得の闘争に向かう勇気を与えたのである」(第5章166~167頁)
とあるように、他国のナショナリズム運動にも言及があることには注意したい。
第一次世界大戦後、「日本は西洋工業諸国にとって競争相手となった。日本の工業製品がアジア市場に溢れ、その影響は日増しに大きくなり、日本はアジアに広い植民地を持ちたいと考えるようになった。1927年、田中男爵[田中義一]が日本の首相になったとき、彼はその願望を達成するために、東アジアを支配し、アジア大陸へ日本の勢力を拡張させる計画を提案した。田中首相はアジアを支配するためには中国、満州そしてモンゴルを支配せねばならないと考えた」(第6章242頁)。こうして「1931年、日本は満州に対して攻撃を開始[満州事変]」し、その後も「日本軍と中国との間に争いの火種は絶えなかった。1937年、マルコ・ポーロ橋[盧溝橋]事件の勃発を端緒として日本は、近代的武装で中部および北部中国に大々的に上陸を行なった。」…「日中戦争勃発によって南洋および大東亜の諸地域の奪取を図る田中首相の計画が始まった」(243頁)。
このように日本の侵略政策の一貫性が説明されている。帝国国防方針や共同謀議論の影響もあるのであろう。この是非はおくとして、問題は「インドネシアにおける日本占領時代」の記述である。
「日本はアジアのファシズム軍事国家として強力であったので、インドネシアの民族運動家たちは不安を抱いていた。第二次世界大戦の勃発によって日本は戦争に突入した」(244頁)。その後、ジョヨボヨの予言や戦況・占領に関する記述がつづく。日本の占領下、3A運動は「人民の共感や関心を引くことがなく」解散し、プートラ(民衆総力結集運動)は「プートラのメンバーたちが高い民族意識を持つ原因となった」ことで、「日本に対しブーメラン効果をもたらすこととなった」(248頁)。「反連合国宣伝は反帝国主義と同じことであった。ところが、日本は帝国主義国の仲間入りをしていたのであるから、それは間接的に日本のインドネシア駐留に反対することでもあった」(249頁)。
「他方、インドネシアにおける日本占領時代には肯定的な面もあった。たとえば多くの点でインドネシア化が進んだ。とりわけインドネシア語が公用語となり名称がインドネシア語化され、政府高官の職務がインドネシア人に担当されるようになった、などである」(249頁)。「日本時代のオランダ語使用禁止が官庁、教育、マスメディアそして教科書の翻訳の分野におけるインドネシア語発展の機会となった」(第7章282頁)
郷土防衛義勇軍「ペタはインドネシアの若者をメンバーとした日本製の組織である。このペタ組織においてインドネシア人の若者が日本軍から教育と軍事訓練を受けた。この若者たちがのちにインドネシア民族と国の独立闘争の大黒柱となった。」…「やがて、ペタはきわめて民族的な性格を持つようになったため、インドネシア領域における日本の占領に非常に危険であるとみなされた」(第6章249頁)。
「インドネシア人民が独立を達成するために行うことになるさまざまな運動の母体となった上記の諸組織のほかに、地下活動でスカルノやハッタと秘密裏に連絡をとっていた以下のような組織グループもあった」(249頁)…「これらの諸グループの間にも、非常に限られたものであったが、協力関係が生まれていた。この協力関係は、取り巻く状況が日本の秘密警察(憲兵隊)とその手先によって恐怖に満ちたものになっていたため密かに行われ、その抵抗活動においても、残酷かつ凶暴な行動に出る敵に気づかれないようにカモフラージュを多用した」(250頁)。…「パリンドラ[大インドネシア党]のメンバーであるチャック・ドゥラシムが日本の傍若無人の振る舞いを非難したように」、スラバヤではルドゥルックという大衆劇が「明らかに日本政府に反抗していた。そのため、演技者たちは逮捕され死に至るまで拷問を受けた」(250~251頁)。
「また生活の苦しさが原因で民衆の抵抗が以下のようにいくつかの場所で起きた」(251頁)として、1942~45年の5つの反乱や住民の抵抗と日本による鎮圧の事例が挙げられ、「一般的に日本のインドネシア占領は受け入れられなかった。日本は西カリマンタン地区でも知識人たちに対して大量の殺人を犯している」(252頁)と総括される。
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第2次世界大戦では日本が東インドのほぼ全域を占領し、その間の1942年に日本軍政当局がバタヴィアをジャカルタと改称した。以後、その名称は現在に至っている。
日本軍が降伏すると、スカルノらは1945年8月17日にジャカルタでインドネシア共和国の独立を宣言したが、復帰したオランダ軍によって再びジャカルタは占領された。
この時期、オランダは市の南部に高級住宅街クバヨラン・バルを建設するなど、再び長期統治の姿勢を見せた。
しかしオランダとの独立戦争はインドネシアの勝利に終わり、1949年にジャカルタからオランダ軍は撤退してジャカルタはインドネシア共和国の首都となった。
2014/5/5(月) 午前 8:59 [ 丸子実業高いじめ殺人判決は大誤審 ] 返信する
本人補足:インドネシア独立運動については、日本軍は戦時中に自国の戦争に利用したうえで、戦後に見捨てた。戦後、日本兵の中には個別の理由でインドネシアに残留する者もあらわれ、彼らが独立に寄与したことは事実だが、日本の正規兵としてではない。
2014/5/5(月) 午後 11:32 [ a99*90*d ] 返信する