うんざりと反抗心と大胆と過激さ

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世の中の全ての人に好かれるなんていうことはまず不可能に近い(教祖様じゃあるまいし)。
自分を知るもののうちの2/3は好いてもらえたとしても、残りの1/3の人たちは何を言っても何をしても絶対に拒むものである。とはいえ頭ではその理屈がわかっていても、自分を嫌う人の嫌う理由をいざ目の前にして見てしまうと、「うわぁ…ほんとそうだよなぁ」とショックは隠せないというか。恥ずかしいとか生きてて申し訳ないという気持ちが先走る。

最近、少数派として生きると人格って歪んでいくものなんだなぁ、と自分を見てて思います。それは世間から、一般的に比べて見てみると歪んでいるというだけで、その中だけだとその歪みも”普通”に分類されるんですが……

この社会というのはいわゆる組織で生きることができる人間が快適に暮らせるようにつくられているので、頭の良し悪し容姿の良し悪しって関係ない。でも頭が良いと、容姿が良いと、多少の歪みも受け入れてもらえるし歪みがなければないほど歓迎される。それからちょっとおかしくてもそこは病気か障害ということにすれば、そういう人を受け入れてくれる場所を用意してくれる。
社会には、マジョリティな人々には、頭が上がらない。

日々社会と、そんな社会での生きづらさと対峙しながら生活をしていると、過激なものに憧れを抱くようになる。
Instagramで私は外国人のアカウントをよくdigります。漁ります。
過激な自撮り、イカした写真、ティーン達の(お前らどう見ても酒飲んでるだろみたいな)はっちゃけた様子。
棚とかトイレの洗面器に堂々足を乗っけて鏡ごしに自撮りをする姿、あの潔さにはものすごく心を打たれる。
誰にも媚びていない、かっこいいという言葉も求めてすらいなそうな、ただ当たり前にナチュラルに「イカしてるだろ」の主張だけが伝わる外国人のワルが好きです。
人種が違うと、余計なことを考えずに素直に見ていられて、気が楽なのもあるかもしれません。日本の若者で同じことをしているのを見ると、どうにも恥じらいを感じてしまったり媚びを感じてしまったり、実際はそんな恥じらいも媚びもないのかもしれないけど、でも勝手に感じてしまうので堂々と直視できない。
身近すぎると、何か認めたくないという気持ちが邪魔をするのかもしれない。同じ日本人でありながらわかりあえないことが何かの妄想を掻き立てるのだろうか。

過激なもの、自分にはない大胆さ、そういうものを嫌悪していた自分がいなくなった。これは歳をとったからなのか。うんざりに限界が達したからなのか。それによるただの反抗心なのか。どっちなのかはわからないけれど、美しいと思えるものが1つ増えたというのは素晴らしいことでしょう。
反抗心というものは、表現しがいがあるよね。酒やタバコや薬でもどうにもならない心のうんざりは、それを言葉になり絵になり音楽になり表現して、やっと気持ちが救われる。
私には幸せそうな笑顔が描けないし、ハッピーから始まりハッピーなエンドで終わる物語も全く想像できない(から描けない)し、だったらいっそのこと暗いものを突き詰めていけば気持ちが救われる。

自信を持て持つよう努力をしろ、とは言われるものの、1人で自信を育むのはぶっちゃけハードなことで、私は不可能に近いと思っています。他人と違うこと、他人に否定されることがベースだった自分という人間が、根拠のない自信・根拠のある自信を身につけるには、圧倒的な愛を与えてくれる他者が必要だと思うし、病気を持っていて普通に働けていないという時点で自尊心は全て失われているんですよね。
「自分はこの社会で生きる価値がない」というのが生活の基盤になっている。価値がないけど生きていかなければならない(自殺は反社会的なので)、生活の足しに障害年金を受給する。さらに非難が加わる。
誰が悪いだろうか。親か?自分か?病気か?誰のせいにしても意味がない。誰かのせいにすれば健康体になって普通に働けるようになるわけではないので、考えるだけ無駄なので、基本は考えません。
ただ、「ああ、生きづらいなぁ」と思うだけ。生きづらさを目の当たりにすると、「ああ、自分って頭おかしいんだな」そう思うだけである。

もっと強く大胆に。それが今後の人生の目標です。