こちら孤島のまどよりお便りします

円野まどの恥の多い日々の記録

自分は大丈夫だと思っていたのに気付けば性差別をしていた【旅館おひつ問題に思うこと】

〒 みなさま

 

こんにちは円野まどです。

 

皆さんは「旅館のおひつ問題」ご存知ですか?

「ああ、すこし前に騒がれたアレね。」と思う方も「何それ?」と言う方もいらっしゃいますよね。今日はそれをきっかけに考えた私の「男女差別問題」についてお話したいと思います。

 

 

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*「旅館のおひつ問題」

きっかけは一人の女性が、投稿したツイート。

夫と一泊二日旅行に来てるんですけど、旅館で毎回毎回、上座に座ろうが下座に座ろうが妻の方に置かれるおひつとしゃもじが辛くてね。私はもういいんだけど、外国人観光客にもまさか同じことしてるんじゃねえだろうなって心配になる。お願いだからやめてね、本当…。心配だよ。 Twitterより引用。)

ご夫婦で旅館を訪れた際、旅館で座る位置を変えてみても奥様のほうにおひつを置かれてしまったことが発端でさまざまな意見が噴出しました。

ご飯をよそうのが大変だ、というより「給仕は女性がするもの」とされていることを中心に議論が起こっていたようです。

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*SNSの反応は様々

現在も色んな意見が出続けていますが、女性も男性も実に様々な感想を抱いていらっしゃいました

女性側の意見を一部抜粋しますと「旅館でも女性は働かねばいけないのか」「性差別だ」「全然気にしない」「むしろやってあげたい」という意見など、賛否さまざまでした。男性側の意見はあまり見つけられなかったのですが(ぜひどう感じるか教えてくださいね)「おひつがどこにあるのか意識したことがなかった」といったものや女性側からも出たように「伝票は男性側に置かれることは?」といった同じようなことが男性にもあるかもしれないよ、といったお話が気になりました。

なるほど、と思ったのは「男性に伝票が渡されるように一定層の人間がそれをマナーだとしているから旅館の人にも悪気はないのでは」といったご意見でした。

サーブするための取り皿やスプーンを男性側に置くとクレームにつながるケースが過去にあったようで飲食店のマニュアルとして、それらは女性のところへ置くと決まっているところもあるようです。

うーん、旅館の方に悪気があるわけではないのでとっても難しいですね。

*私の率直な感想

 私はこのおひつ問題をリツイートで知ったのですが、その時激しく動揺しました。

「えっ、あれってよそってあげてね・・・ってことだったの・・・?」

皆さんは知っていました・・・?私は自分のほうに、おひつが置かれたときこんな風に思っていました。

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(いっぱい食べてねってことかな・・・?)と・・

だからおひつをドンと置かれると満面の笑みで「わあ!ありがとうございますっ!」 と答えていました・・・。

 

同じ種類の事として、居酒屋のサラダや大皿料理とりわけ問題があると思います。

私はこれについても、(何話したらいいか思いつかないし、何か手を動かしてたら話しに入らなくていいから良かった~)くらいのことを考えていました。ただよそうのがヘタすぎて、なんかこうお役御免になることもありましたがそれはともかく・・・、こう参加してるなって気がして達成感があったのであまり考えてなかったです。

更には私の育った環境です。

私の家庭は年度終わりとか、節目の夜は母が玄関で父を三つ指ついて迎えていました。そして「一年間ありがとうございます」と挨拶をします。誤解のないように添えておきますと、これは父が望んだわけではなく、母の性格によるものです。母は女性として「男性のいいなりになる」という意味ではなくて「男性も自分も双方恥をかかさない、かかない、品のある振る舞いをしましょう」と私に教えていました。何をもってそうするかは、私が自由に考えて決めるようにとも。日がなだらけてゴロゴロ本を読む、そんな私はもちろん大和撫子ではありません。

そして自分は差別的だと思ったことはないし、自分の家がすこし前時代的な所があるという点も理解しているつもりでした。恩や尊敬はもちろんあるんですが、極めて客観的に考えると今の時代だったら「お父さんみたいな人は離婚されそう」くらいのことは思ったことがあります。

自分の普通と世の中の普通ときちんとバランスを取れているつもりだったのです。

ただ、ふと 盛り上がるおひつ問題を見て

私はもしかして現代においては既に「男尊女卑な人間」と言えるのではないかな?と思ったんです。

今でもおひつを女性の前に置くのが差別!と思っているわけではありません。

それに苦痛を感じるという事実を軽視する自分を「男尊女卑的なのかな」と思いました。私はしっかりと【自分の育った環境=普通のこと】という刷り込みを考えに残していて、女性が一歩下がる事に対して無関心な時があるのかもしれません。

実はよく言われている男女平等問題に対しても「これは女性側も求めすぎなのかもしれないな」とか「男性も大変だけど、男性が大変だと言うと味方があんまりいないな」とか、無意識に感じている時があります。

私は何かがあったとき、「一緒に苦痛の沼に落ちよう」という意見が好きではないので「一緒にラクになりましょう」ということを考えます。

だから、その意味でも「男性も大変だ」と考える所までは良いのですが、今回のおひつみたいに「女性も大変」にピンと来ないときがあるのってもしかして「自分たちの側も多少のことは目をつぶるべき」みたいな、何故か無意識に自分の感覚を世の女性の普通みたいにどこか捉えてしまってないかなあって・・・考えすぎかもしれないのですが、そういう危機感が今回生まれました。

上座とか下座とかってテーブルマナーに近いというか、もうある種の「そういう儀式」みたいな所があるので、何の疑問もなかったこともあります。

だけど、「いやだなって強く思っている人がいるのに」「私は気にならないからなあ」って、次のページを読んでいる自分、ちょっと怖いなって思ったんです。

完全に無意識にしていることだけれど、無意識に人の苦痛をスルーできるのってなんだか思考停止してるなって感じ始めました。

主語大きい話じゃないですけど、どこかで自分も女性で、自分は全然苦痛じゃないから他の女性もガマンできるだろうって思ってるのかな、そこはまだ分からないですけど私ってもしかして

ナチュラルに男女差別的なことを普通としているのでは?」

と気づいて驚きました。コウノドリとか見て普通に「女性は大変だよね」と思うとか、同性としてやりにくいことや困ったことに共感もあるし、何かあれば女子びいきになるし、味方のつもりでいました。

でも、「その問題に無関心である」ということの根底にあるものが「大した事だと思っていない→相手の苦痛を軽視している」ってことなら良くないし、自分に関して何も疑っていないことがどうなのかなって思うんです。適切な行動がとれることがあってもそれって「その時その場所でそのケースでだけ」だったりしますよね。正解は流動的なこともある。

それなのに長い間、誰かが困るかもしれないことに無関心でいられたのは「自分は殴られなかった。じゃあいいや。」ってことなのかなあと今もやもやしています。

男性も女性も、どちらも生きやすいように考えるのが一番いいって思います。

無形の圧力があるなら、じゃあそれを感じないようにしたいよねってスムーズに思えなかった自分を直したいなと思いました。

今回のおひつ問題でこれが浮き彫りになったことが、自分の中で一番ショックなことであり、また収穫だったと思います。

 *時代は遷り変わるし、正解は人それぞれ

女性が一歩下がることが美しいとされていた時代は確かにあって、それはそれで静かな色気と共に存在していたように見えるので、過去まで「全て間違いだった」と私は思わないんです。

だけど、私のおばあちゃんが20歳だった時と、私のお母さんが20歳だった時と、私が20歳だった時と、今これから20歳になる人時代時代の感覚があります。

簡単に考えると「その時代によって苦痛に感じることが違う」んじゃないかなって私は思っています。それは女性の進学率でも、社会の状態でも、人類の進歩によって、または単純な時間の経過、さまざまなことで簡単に変わってしまうことだと思います。

加えて現代は「家族」とか「~さん家の子」とか「妻」とか「長男」とかそういう役割の顔より個人が個人であることを強く意識するようになったと感じています。

SNSで自分で自分の名前を付けられるようになったのも大きな影響があるのかなと個人的には考えています。「私が・・・という名前の私である」ことを自覚できる機会が増ました。

そして「私」を感じれば感じるほど、尊厳を傷つけるようなことが耐え難くなるのは自然な流れなのかなって思います。

これを書いている今もおひつが目の前に置かれても、私は怒る事はありません。

でもそれがあくまで「私は」で、それをいやだなって感じる人に対して知らないうちにその感情を踏み潰してしまわないように、そんなことを戒めたいと思いました。

自分のことを普通だって慢心した時、自分はルールブックの顔をして差別をするのかもしれないなあ・・・と感じます。

これから年齢を重ねて、知っている事や経験した事が増えても、その事を忘れないでいたいなと思いました。

【まとめ】

ちょっとぐだぐだになったので最後に軽くまとめますね

・自分の普通がいつの間にか「世の普通」にならないよう気を付ける
・自己評価が低いので、自分が容易にできることは人も出来ると思いがちだけどそれが思わぬ圧迫につながる
・無関心であることが差別になることもある
・時代によって苦痛に感じることは変わると思う
・現代は自分の所属するもの以上に「個人」であることが重要な時代なので、その尊厳を傷つける事が何かを意識していきたい。

こんな感じです・・・!

皆に良い環境って言うのは難しいかもしれないけど、皆に悪くないことなら目指していける気がします。私はよく、現状に問題点を見出すより、自分の不足点を見て頑張ろうって思うのですが、その考えが誰かを追い詰めることもあるんだなとか最近いろいろものごとへの向き合い方に再構成が必要だなって感じています。

それでは自分の中に眠るハラスメントを見てひやっとしたお話でした!

 

それではまたお便りします( *´×`* )!

 

円野まど