2009年01月31日 19:00
大阪城公園内にレンガ造りの古い建物があります。ここは旧大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の化学分析場跡なのだそうです。「大阪砲兵工廠って何?」恥ずかしながらそれが何なのかを最近まで知りませんでした。
大阪砲兵工廠とはいったい
どういう施設だったのでしょうか。
一般的に大阪砲兵工廠と呼ばれていますが、名称は何度か変わり最終的には大阪陸軍造兵廠となります。明治新政府が発足と同時に設立した兵器工場(主に大砲や弾丸等を製造)で、発足当初から西欧先進諸国の高い技術水準に追いつくため、明治新政府の採算を度外視した投資と諸外国の最新技術が投下されました。その成果は年を追うごとに大きな進歩と発展を遂げていき、兵器以外の金属製品も製造していきます。明治28年、大阪市民に水道の水を供給可能にした鉄管は、高度な鋳造(ちゅうぞう)技術を持った大阪砲兵工廠が製造(約半数は輸入品)。明治時代における日本の製鋼技術、ニッケルやクロームなどの特殊鋼技術のほとんどが大阪砲兵工廠の技術で開発されたといっても過言ではないようです。
第一次世界大戦が始まると、日本には参戦国からの軍需品等の注文が殺到しました。大阪の工業水準は、大阪砲兵工廠の高い技術力と民間企業の研究熱とが相互にうまく作用し、世界水準まで引き上げられていきます。東洋のマンチェスター、東洋一の工業都市大阪の誕生は、大阪砲兵工廠の存在なくしてその発展はなかったかもしれません。
「大阪市100年」より
明治中期の大阪砲兵工廠の表門です。向こうに見えるのは伏見櫓(やぐら)です。戦時中に焼失して現在はありません。
「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
28センチ榴弾砲(二十八糎砲)です。日露戦争の時に大活躍した大砲です。
「なにわ今昔」より
昭和7年に撮影されたものです。大阪城の敷地いっぱいに陸軍造兵廠の施設が建ち並んでいます。当時、敷地内は軍事機密だったのでたいへん貴重な写真だと思います。
「日本の技術 大阪砲兵工廠」より
国産戦車も昭和2年に完成させています。この写真は量産された八九式中戦車。
「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
昭和18年本部前の分列行進の写真です。奥の高い建物が本館です。
「なにわ今昔」より
昭和20年8月14日の大空襲の写真です。それまでも何度かの爆撃を受けていましたが損害は軽微でした。この日、大阪に残る最後の目標とされ、集中爆撃を受けます。
「なにわ今昔」より
この爆撃のあった翌日に終戦を迎えることになりました。
「なにわ今昔」より
この写真は昭和24年の秋だそうです。大空襲により壊滅的な被害を受けましたが、被害率は約60%で、約4割の機械類は使用可能なものとして残り、戦後民間へ払い下げられました。
「大阪文学散歩」より
昭和56年出版の本の写真です。取り壊し直前の写真でしょうか。
「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
昭和49年に撮影された本館全景。昭和56年に取り壊されました。
現在も表門があった場所の近くに残る旧化学分析場。窓には板がはめられ中には入れません。
表門があった場所です。一枚目の写真と同じ場所です。正面の建物は屋根の形状は変わっていますが昔からある建物のようですね。一枚目の写真と比べると、入口と窓の形状が同じです。ということは、これも明治中頃以前に建てられたもののようですね。
この建物は○の印の場所です。
地図は「大阪砲兵工廠の八月十四日」より(部分拡大)
ここは昔何だったかというと、便所となっていますね。
大阪城公園内には大阪砲兵工廠の遺構がいくつか残っています。
ここは大阪砲兵工廠の水門の跡です。材料や製品の輸送は主に水運で行われていました。
ここには地下壕の跡があります(矢印)。本土決戦に備えて、中部軍管区司令部庁舎(現大阪市立博物館・平成13年閉館)から終戦当時第4司令部庁舎があった現在の豊国神社辺りまで地下壕を掘っていました。
それが今でも2ヶ所、わずかに見えます。
ここが元中部軍管区司令部庁舎。
京橋駅の裏手にある「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」。昭和20年8月14日の大空襲で、大阪城に近い京橋駅に1トン爆弾が直撃し、多くの方々が亡くなりました。その霊を弔おうと昭和22年8月14日、森本栄一郎氏が自費で建立された慰霊碑です。
大阪城公園内に「ピースおおさか・大阪国際平和センター」があります。大阪大空襲や満州事変から日中戦争を経て無条件降伏に至るまでの約15年戦争について、映像や展示物で戦争の悲惨さを伝えてくれます。私も初めて行ったのですが、今の時代がいかに平和かを実感しました。
是非どうぞとは言いにくい所ですが、過去の戦争についてちょっと考えてみるのはいかがでしょうか。
(追記)
旧大阪陸軍刑務所 (旧陸軍大阪衛戍(えいじゅ)刑務所)。
軍法会議で判決を受けた軍人が服役した所だそうです。
大きな地図で見る
(関連記事)
「北野高校の壁に戦争の爪あとが」2007.09.17
「大阪大空襲と市電」2008.06.08
「大阪大空襲 十三が焼けた日」2008.06.13
「大阪砲兵工廠本館の取り壊し」2009.01.29
「大阪砲兵工廠って?」2009.01.31
「大阪神戸西宮・空襲戦災状況地図」2012.07.11
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コメント
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
日本のピッツバーグ 大阪
5枚目の写真の撮影された前年、アメリカでも、「日本のピッツバーグ大阪」と驚きの目で報じられていますね。
1942年 ナショナルジオグラフィック誌英語版掲載
《知られざる日本》日本のピッツバーグ 大阪
http://www.flickr.com/photos/pinboke/691152348/sizes/l/
http://www.flickr.com/photos/pinboke/691152688/sizes/l/
( 2009年02月02日 10:00 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
追記:旧大阪砲兵工廠(こうしょう)跡とアパッチ
旧大阪砲兵工廠(こうしょう)跡について、ぼくらの世代ですぐに頭に浮かぶのは「アパッチ」という言葉です。
開高健「日本三文オペラ」
アパッチの疾駆 今は幻…大阪
http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pickup/20070313bk02.htm
( 2009年02月02日 10:21 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ピッツバーグと日本三文オペラ
pinboke_planetさん
1942年というと真珠湾攻撃の翌年ですね。
敵国の記事をこんな風に扱っていることに
アメリカの余裕を感じでしまいます。
アメリカからするとマンチェスターではなく
ピッツバーグなんですね。
なるほど…。
大阪砲兵工廠のこと調べていると
必ずアパッチ族の話も出てきます。
ただそれについての記録はほとんど残っていません。
『日本三文オペラ』などの小説の中に
残っているんですね。
『日本三文オペラ』は読んでみようと思っています。
( 2009年02月02日 22:45 [Edit] )
ばんぼー | URL | t/Klp7tQ
大阪城
さっそく昨日、妻と子と3人で大阪城へ行ってきました。
元中部軍管区司令部庁舎、博物館に使用した後は使ってないようでもったいないです。府庁はWTC移転するならここに半分移転でもいいのかも^^
砲兵工廠跡は時間が無くて見つけきれませんでした。
適当な広場で子と柔らかいボールとプラスティックのバットで遊びました。
自分が大阪城内に入ったのは小学校以来かもしれません。
ただでさえコンクリートなのに平成の改修で派手派手になって、興ざめな気持ちになってました。
一方、世界同時不況や円高真っ最中なのに、アジア諸国からの観光客が沢山いました。
大阪城の売店で私は生まれて初めて卵せんべいを食べました!!妻と子はみたらし団子を食べました。
外国の人もなにか食べてたようですが、口にあったのかなあ。何気に観察したら、とうもろこしとか分かりやすいものを食べてました^^それにしても今外国から来る人ってお金あるんでしょうね。
私は恥ずかしいことに、大阪府庁が大阪城のそばにあることを始めて知りました。。(府民なのに)
( 2009年02月02日 23:03 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
大阪城いろいろ
ばんぼーさん
大阪城公園は家族で行っても1日楽しめますよね。
春は梅林や桜もいいですよ。
とても気持ちのいい場所です。
砲兵工廠の遺構場所の地図を追記しました。
広い場所なのでどこに何があるかわからないですよね。
私が行った時も海外の旅行者が多かったです。
公園の南側にバスの駐車場があるんですが、
たくさんのバスが止まっていました。
うれしいことです。
大阪府庁舎は個人的には今のまま今の場所で
ずっとあってほしいと思っています。
( 2009年02月03日 00:12 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
1943年のぼくの写真が見つかりました
1943年のぼくの写真
http://www.flickr.com/photos/pinboke/3249488591/
兄の健ちゃんは旧大阪砲兵工廠化学分析場の真ん前、大阪偕行社附属小学校から
中山道落合の宿 脇本陣へ引越し、全校生の大半が藁草履通学の小学校へ転校しました。
毎朝編み上げ靴の紐を結ばなくても良くなりました。
( 2009年02月03日 19:45 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
大阪偕行社附属小学校
pinboke_planetさん
すごくいい写真ですね。
映画の一場面みたい。
よくこんな写真が残っていましてね。
すばらいい。
ちゃんと元大阪偕行社附属小学校の場所にも
行ってきました。
追手門学院大手前高等学校の門柱は
大阪偕行社附属小学校の時のものらしいです。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1090034.jpg
また今度、昔の写真を探して検証してみたいと思います。
( 2009年02月04日 00:17 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
砲兵工廠
よく父の言葉で聞きました
ほかに被服工廠というのも聞いた覚えがあります
あのレンガの建物は写しています
あれとは別に 桃園の近くにもっと朽ちたのが あります
14日の空襲はすごかったようですね
もう一日早く降伏の印を押していたらあの人たちは死ななくてもよかったのにって思います
京橋の駅でも大勢が死んだそうです
アパッチ族 私は 梁石日の『夜を賭けて』を思い出します
アパッチという言葉は 確か 新聞記事で最初に使われたのだったと思います
夜を賭けて ぜひお読みください
当時 その中で生活していた人の書いた小説です
映画化されましたね
アパッチのおばあさん役に清川虹子さんが出演されて まもなくなくなられています
( 2009年02月04日 00:21 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
夜を賭けて
TOSSYさん
被服工廠は知りませんでした。
大阪砲兵工廠の地図の中では
探し出せなかったのですが
どの辺りにあったんでしょうね。
また調べてみます。
14日の空襲で亡くなられた方は
本当に無念だったでしょうね。
あと1日遅ければ…。
梁石日の『夜を賭けて』も面白そうですね。
読んでみようと思います。
( 2009年02月04日 01:22 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
砲兵工廠跡
大阪ビジネスパークのあたりは 昔焼け跡でした
あれがアパッチの出たところなのでしょう
環状線(当時は城東線)にのって 玉造まで通学する妹が 目にゴミが入って真っ赤になりました 目医者に行ったら 電車通学をしていますかと聞かれました
電車の窓から鉄粉が入ったようです
当時冷房はありませんから窓は開いていました
焼け跡はそのまま長いことあったのです
森之宮団地も工廠跡地のはずです
被服工廠がどこにあったのか正確な場所は分かりませんが あったことは確かなようです
こんなサイトを見つけました
http://www.vega.or.jp/~toshio/osaka.htm
( 2009年02月04日 23:40 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
砲兵工廠跡
TOSSYさん
戦後長い間、焼け跡は廃墟のようになっていたと聞いていますが、
錆びた鉄粉が舞っていたのですね。
当時の様子がリアルに伝わってきます。
被服工廠は違う地図で探してみます。
「大阪城公園・それは私の庭」を読みました。
大阪城公園の歴史がよくわかります。
大阪城公園は世代間によって
まったく違うイメージを持つ場所ですね。
私にとっては緑豊かな公園のイメージしかありませんでした。
いい勉強になった記事になりました。
( 2009年02月05日 02:18 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
梁石日&松下幸之助
梁石日の「夜を賭けて」私も出版されたころ読みました。作者の自伝的小説としては「血と骨」が有名ですがこちらにもその雰囲気がありますね。
さて、鶴橋から今里ロータリーへ東に向かって歩いていますと、北側にちらっと「梁石日の生家」という案内板が見えます。昔から有名人の生家というのはご本人がおなくなりになった後に、宣伝(場合によっては公開)されるものだと個人的には思いこんでいましたが、はじめてこの案内板に接した時、今は時代のテンポが速くなったと感じました。
なおその案内板のすぐ近くに「松下電器起業の地」の看板も立っています。時代が違うので実際にクロスする事はなかったかと思いますが、近代大阪を象徴するお二人の案内板のツーショットは印象的です。 なお以前「新之介」さんが、福島の幸之助についても書きたいとおっしゃっておられたと思いますが、福島は「創」業の地だそうです。
( 2009年02月07日 07:43 )
高崎 | URL | Sc7BOXXE
鉄粉は
こんにちは、初めまして。いつも楽しく拝見させていただいてます。砲兵工廠跡、つい先日も年老いた母とその話をしていたところでした。S36年製の私も、子供の頃に環状線の電車の窓から見ていた記憶があります。考えてみればずいぶん永く赤さびた廃墟のまま残っていましたね。ただ、その廃墟から舞い上がる鉄粉が目に入る距離、というほど眼前では無かったように記憶していますし、電車、鉄粉、窓開けっ放しといえば、おそらくレールや車輪やブレーキの粉塵と考えるのが妥当に思えます。
母は戦前戦後長く塚本に住んでおりまして、そのころの写真も残っているのですが、なかなか町並みを記録した物はないですね。写真が趣味、という訳ではないですから当たり前かも知れないですが。ただ、当時の水準を考えると、隅々までピントの合った非常にきれいな写真が多く、何か貴重な物がないかと物色しています。(^^;
何か見つかりましたら、また書き込みします。
( 2009年02月07日 18:40 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
松下電器起業の地
increscentmoonさん
福島辺りはよくうろうろしてますので
創業地域の辺りも知っているのですが
松下電器起業の地がそんな場所にあったとは…。
今里周辺も興味がある場所なので
また行ってみようと思います。
松下幸之助氏の本はいつか読もうと思いながら
まだ読めていません ^^;
( 2009年02月08日 12:50 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
家族写真
高崎さん
>電車、鉄粉、窓開けっ放しといえば、おそらくレールや車輪やブレーキの粉塵と考えるのが妥当に思えます。
なるほど、ブレーキの粉塵か。
確かにそうかもしれませんね。
線路に敷かれている小石が茶色く錆びた色になっているのも
その鉄粉が錆びたものなんでしょうね。
お母様は塚本に住んでおられたのですか。
なぜだかうれしいですね。
私も家にある古い写真を見ましたが
なかなか町が写ってる写真はないです。
家族ばっかりです ^^
写真ってそういうものだったんでしょうね。
( 2009年02月08日 13:07 [Edit] )
西村 | URL | -
そんな場所もあったな
片町線の市議の駅前で育った私にとって、砲兵工廠跡や
アパッチは、近くて遠い場所でした。
1961年生まれの私は、中学までは、ほとんどそんな存在は知りませんでした。
しかし、中学(1973年頃)では、アパッチから通っている
友達もいたし、「あそこに入る時は腕時計を隠して行かなあかんで」なんて言われていたものです。
よく思い出してみたら、1度だけ防空壕に探検に行ったこともありました。
最近になって、梁石日の『夜を賭けて』を読んで、子供のころのことを思い出していました。
( 2009年12月26日 10:22 )
新之介 | URL | -
西村様
私たち世代もほとんど知らない大阪の陰の部分ですよね。
でも、事実として忘れ去られないようにしていくことも
とっても大事な事だと思っています。
そういう時代があって、今の平和な時代があるんだから…
と、思っています。
( 2009年12月27日 21:59 )
TK | URL | GsbZZxQM
コーナンからこのサイトに
こんにちは、はじめまして!
本日、チャリンコでコーナン片町店に行った帰りに、
『お城の近くにあるあのレンガの建物はなんだろう』と思い、
そのまま帰ってネットでコソコソ探しているうちに
こちらへ来てしまいました。
おかげでスッキリしました。ありがとうございました。
『化学分析場跡』だったんですね。
もちろん以前にも大阪城には行ったことがあり、
『なんだかちょこちょことレンガの建物があるな』とは思っていたのですが、
それもすべて解消されました。本当にありがとうございました。
私事ですが、今は中央区のほぼ熊野街道沿いに住んでおります。
せっかく大阪のど真ん中に住んでおる訳ですから
色々と大阪のことを調べて、臨場感に浸れたらな、なんて思っております。
今後もちょいちょい来させてもらうと思いますので、
なるべくご教授いただけたらと思っております。
よろしくです。
PS
中沢さんの講演面白そうですね。
もう定員いっぱいみたいですね。
一歩二歩遅かったかな~。
( 2010年03月30日 03:43 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
TKさん
そういってもらえるとうれしいです。
僕もあれなんだろう?っていう素朴な疑問から
大阪砲兵工廠のことを知りました。
これからもできるだけわかりやすく
解説できればと思っています ^^
( 2010年03月31日 23:31 [Edit] )
NOG | URL | JyN/eAqk
こんにちは
"昔の写真"を調べていてここにたどり着きました。
昭和46年生れなんですが、当時住んでいた法円坂住宅から京橋のダイエーまで自転車で行く際によく赤茶けた建物の横を通った記憶があります。町工場だと思い込んでいましたがあれが大阪砲兵工廠跡だったんですね。
そういえば、法円坂住宅と難波の宮跡の境界部にもフェンスで囲まれた廃墟がありました。ご存じないでしょうか?
( 2010年06月29日 16:12 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
NOGさん
>そういえば、法円坂住宅と難波の宮跡の境界部にもフェンスで囲まれた廃墟がありました。ご存じないでしょうか?
ごめんなさい。わかりませんが、日本交通公社の「空から見た大阪」の中に
こんな写真をみつけました。
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/naniwagu.jpg
難波宮跡と団地の境目にある細長い黒っぽい建物でしょうか。
なんなんでしょうね ^^;
( 2010年07月03日 23:05 [Edit] )
ファジー | URL | UXr/yv2Y
難波宮跡の黒っぽい建物と偕行社について
こんにちは・・・
難波宮跡と団地の境目にある細長い黒っぽい建物は、戦前の歩兵第八連隊の兵舎だと思います。
この当時にはまだ一部残っていると聞いていました。
また、「追手門学院大手前高等学校の門柱は大阪偕行社附属小学校の時のものらしいです。」とコメントされていますが、そうではないのです。この門柱は、大正5年に大阪城内にあった第四師団の酒保部の門を移築して大阪偕行社が正門として利用していたものです。そして戦後になって追手門学院が同地を払い下げを受けた後も同中高の正門としてそのまま利用しているものです。最近亀裂が見つかったので修復するとの話をうかがいました。いつまでも大切にしてもらいたい遺構です。
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-872.html
( 2010年07月14日 10:02 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ファジーさん
ほー、歩兵第八連隊の兵舎ですか。
そんなのが残っていたんですね。
門柱は僕も大阪偕行社のものだと思い込んでいたのですが
それ自体が移築されたものだったんですね。
なるほど、納得です。
( 2010年07月18日 23:12 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
つぶされるために人々は働かされた工場
私、子供の頃、戸ノ内に住んでいました。
母方の祖母が布施市(今はなき)の近鉄線沿いに住んでいました。
そこへ行くのには。
戸ノ内から歩いてモスリン橋を渡って加島の停留所へ。
トロリーバスです。
そして三津屋の陸橋越えは幼いながらに理解できました。
十三で、左手から国道176号線が合流する形状も子供ながらに理解できました。
そして十三大橋を渡って、中津の済生会病院のあの塔を見やります。
すぐ、あのほの暗い梅田のガード下のバス停へ到着です。
そうそう、大鉄局を見上げるのも子供ながらに儀式でした。
環状線(当時まだ『城東線』と父は言っていました)に乗って、
外回りで鶴橋方面へ。
「てんま」とか「きょうばし」などと駅名の響きを聞くのが好きでした。
当時は大阪城駅はありませんでしたが、
こうしたプロセスで待ちわびつつもなにかそらおそろしいイメージで眺めたのが
大阪砲兵工廠でした。早めに右手に壊れた広大な工場群、
そして川を渡って左手にさらに巨大な工場廃墟がかなりの秒数、私を見学時間に導きました。
ブレーキがかり、「もりのみや」という響きでもうすぐ近鉄に乗換の鶴橋だと、心の準備をする私でした。
その後、軍事工場都市としての大阪を再認識し、
いくつかの候補の後に米国によって、強力な核爆弾が落とされる可能性が相当にあったことを知り、
体験はせずながらもあの夏の大阪の悲劇を思ったのでした。
( 2010年08月01日 09:59 [Edit] )
machiko | URL | kc7nlNU6
昨年の秋、偶然見つけた新之介さんのブログでした。先日初めて懐かしさのあまり、コメントを書きました。現在は千葉で暮らしています。20歳まで豊中市大島町1丁目におりました。母は名古屋から、十三の北野高校のそばの家に嫁ぎました。父は武田製薬、十三工場に定年まで勤めました。S27頃、大島町に家を建てたようです。父が喜八洲のおまんじゅうや、みたらし団子をたまに買って帰って来た事、太郎坊で家族でお寿司を食べた事、日活で吉永小百合の青春映画を見た事、十三市民病院に妹が入院した事など、十三の思い出もいっぱいあります。ダイビルといえば、S42に商船三井に入社した私は、3ヶ月の試用期間を梅田から歩いて通勤しました。その後は神戸支店に勤務しました。ダイビルがなくなった事を知り淋しいです。「夜を賭けて」読まれましたか?私は数年前に読みました。山本太郎主演のDVDもありますよ。
( 2010年08月02日 09:09 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
土曜深夜番組で
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2010-08-07&ch=21&eid=4281
再放送かもしれませんが、番組で大阪砲兵工廠が取り上げられますね。
( 2010年08月07日 04:24 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
Empizzoさん
当時の情景が目に浮かびます。
NHKの番組はちょうど昭和20年8月14日の空襲の日のことのようですね。
それだけで胸が熱くなる。見るのがちょっと辛いです。
machikoさん
そうですか。
十三がどんどん賑やかになって行くいい時代ですね。
僕の子供の頃も喜八洲といえ酒饅頭とみたらしでした。
今は酒饅頭は形が変わって味も変わってしまいましたが
みたらしはいまでも昔のようにおいしいですよ。
「夜を賭けて」は諸先輩方にもお薦めされていながら
まだ読めていません。
DVDがあるのですね。
それを見てみようかな。
( 2010年08月07日 18:58 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
テレビを見て
「戦争の証言」シリーズでした。再でした。
それにしても、100万平方kmというのは都市部としては
でかい工場ですね。臨海部などでは空港並みの広さの大工場がありますが。
それに6万人もの従事者がおられたとは。
鍋や自宅の金物を供出とは!
しかも終戦前日の大爆撃とは!
原爆ドームなどが戦争遺産的建築物であれば、
大阪の工廠の残存も貴重かと思います。
( 2010年08月08日 14:37 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
Empizzoさん
以前の記事ですが「大阪砲兵工廠本館の取り壊し」の記事です。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-217.html
もし、今も本館が残っていれば重要文化財になっていたかもしれませんね。
僕は本館がまだあった時期に何度か大阪城公園に来ていますが
本館はまったく記憶にありません。
記憶にとどめておきたかった…
( 2010年08月14日 22:10 [Edit] )
蓮 | URL | bxvF113M
7枚目の写真について
新之介さん、お久しぶりです。
Twitter、Facebookで少しお話させて頂いたことのある蓮です。
大阪城天守閣復興80周年祭でいろいろな特別展示を見て、調べていたところ、こちらにたどり着きました。
そこでふと気づいたのですが、7枚目の写真の説明が、『この爆撃のあった翌日に終戦を迎えることになりました。』となっていますが、これは昭和27年撮影の写真だと思うのです。(「なにわ今昔」は所有しています。)
昭和23年に進駐軍の造兵廠接収が始まり、昭和27年に造兵廠の接収が解除され大阪城公園用地の整備が開始します。その整備直前の写真という説明の方が正しいと思うのですが、いかがでしょう。。。
この時の整備で取り壊されず残った旧本館が昭和56年に突然解体されたのですね。
とても残念です(´_`。)
( 2011年11月18日 23:34 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
蓮さん
ご無沙汰しております!
ご指摘通りです。
文章と写真の時代がずれているので誤解を招きますね。
私も今日大阪城に行ってきました。
この写真も展示されていたと思います。
戦後の大阪を象徴的に写しとった写真ですね。
( 2011年11月21日 00:29 [Edit] )
みぃにゃん | URL | 2sQQXnjA
良い事も悪いことも。
良い事も、悪いことも、両方が、記録された良い記事です。
戦車の写真も深読みしたら、当時最新の98式とか、97式とかではなく。
増して、当時の日本でも辛うじて行われていた、流れ作業向けの大きな工場(ゼロ戦とかの荒城がそうですよね。)も無く89式戦車を作っていたとしたら、
東洋一の兵器工場と言うのは、当時の東洋には、日本の他には、工場で兵器を作れる国など無かった。
そう言う風に読み解けます。
京橋空襲犠牲者・巻き添えの話は、大阪にも別途無差別爆撃も有った様子なので…無批判に賛同は出来ませんが、心に刻みたいと思います。
( 2013年03月29日 13:01 [Edit] )
紫蘭 | URL | -
大阪陸軍造兵廠で勤労奉仕
私は戦時中に大阪外語(外大)の学生でした。昭和19年の春から夏にかけて造兵廠に勤労奉仕に行き、第七工場で5式15センチ高射砲の組み立て現場で働きました。最新鋭のB29迎撃用の巨大高射砲で砲身の長さが9mもあり、総電動式でした。
その年の10月に第二次学徒出陣で軍隊に行ったので、その後どうなったんだろうと気になっていましたが、終戦直前に2台だけが完成し、東京の\久我山陣地に配備され、一発で2機のB29を撃墜したと、あとで聞きました。
工場跡の写真など、とても懐かしいです。大阪城内には城南射撃場があって、学生時代にはよく実弾射撃に出かけたものです。(もちろん小銃です)
当時の事は、ヤフーブログにも書いたことがあります。(89歳ブログ・紫蘭の部屋)
( 2013年08月25日 23:40 )
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