イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史と、ウェールズとの関わりが深いアーサー王についてのページです

分かりやすいスコットランドの歴史概要

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こんにちは。ウェールズ歴史研究家、たなかあきらです。ウェールズの歴史だけではなく、ウェールズとの大きいスコットランドイングランドの歴史についても書いていこうと思います。

スコットランドについては、ウェールズと同じケルト系民族が祖先となって、中世ごろまではウェールズスコットランドは同じ国でした。時代を経るうちに、別れていき、スコットランドウェールズは独自に変化していきました。

スコットランドの歴史は、波乱万丈であり、現在の英国に大きな影響を及ぼしています。古代から現在までの歴史の概要を、一気に駆け抜けようと思います。

 

スコットランドの登場

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スコットランドはいつ頃から歴史に登場するのですか?

 

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紀元前およそ6000年頃、氷河期が終わった後に、イベリア半島からケルト族が移住してきたんだ。その頃が今のスコットランドの始まりと言えるんじゃないかな。新石器時代の紀元前2000年頃になると、スコットランドでも巨石文化が花開くんだ。

 

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イギリスでもストーンヘンジなど、作られた時代ですね。

 

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そうだな。スコットランドは多くの石の建造物が見られ、環状に建てられた巨石、地下住居、要塞などを作ったんだ。巨石文化 スコットランド

旧石器時代の頃から、スコットランドに住むケルト系の種族たちは、いくつかの小さな国を作ったんだ。しかし、紀元前後から、スコットランドにも大きな外敵脅威が現れ始めるんだ。

 

ローマ帝国との争い

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スコットランドは初めからスコットランドとは呼ばれておらず、「カレドニア」と呼ばれていたんだ。このカレドニアローマ帝国が勢力を広げようと侵略してくるんだ。

当時のイギリスは、スコットランド付近を「カレドニア」、イングランドウェールズ付近を「ブリタニア」、アイルランドを「ヒルベニア」、と呼んでいたんだ。

ローマ帝国は、紀元43年にブリタニアを征服し、勢いに乗ってカレドニアにも攻めてきたわけだ。

 

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カレドニアローマ帝国に占領されてしまったんですか?

 

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紀元82年にローマ軍はカレドニアに押し寄せてきたんだ。この頃より、カレドニアに住むケルト系の人々は、戦うときに体を青く塗ることから、「ピクト族」呼ばれるようになるんだ。ピクト族は、ローマ軍に果敢に立ち向かい、征服を何とかしのぐことが出来たんだ。

 

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ローマ軍の事だから、ブリタニアに対したように、さらにカレドニアに攻撃を仕掛けてきたんでしょうね。

 

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いや、カレドニアブリタニアとは状況が異なったんだ。ローマ軍は天候の悪い痩せた土地を奪っても、あまり利益がないと思ったのかもしれない。支配しているブリタニアカレドニアの境界線を作ったんだ。ハドリアヌスの長城とアントニヌスの長城を作ってローマ軍を駐在させ、ピクト族が南に攻めてこれないように防御したんだ。

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なるほど。じゃあ、カレドニアブリタニアの国境付近には、ローマ軍がうろうろしてたんですね。ローマ軍はずっと駐在していたんですか?

 

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二百年くらいローマ軍は国境付近にいたんだけど、410年に撤退したんだ。ローマ軍が撤退すると、新たな強敵が出現してブリテン島に侵略してきたんだ。

 

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その強敵とは誰ですか?

 

スコットランド王国の誕生

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6世紀頃ブリタニアの勢力地図

 

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アングロサクソン人だよ。アングロサクソン人は5世紀中ごろからスコットランドよりずっと南のブリタニア南部から侵略を始め、徐々に北上してブリタニアでの領土を広げて行ったんだよ。その頃のスコットランドは、4つの領域に分かれて、それぞれの王がそれぞれの領土を支配していたんだ。

 

・北部の大部分の領土はピクト人(ピクトランド)
・二つの長城に囲まれた領土と更に南部はブリトン人(ゴドウディン、アルトクラッドなど)
・南西部はアイルランドからやってきたスコット人(ダル・リアダ)
・南部の一部はアングロサクソン

 

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アングロサクソン人がどんどん北上して領土を広げたっということは、4つの領土の中で、同じようにアングロサクソン人が領土を拡大したんですか?
それとも、他の民族が領土を広げていくのですか?

 

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その話に入る前の準備体操として、キリスト教の話をしておこう。スコットランドは、ヨーロッパの中で早くからキリスト教が広まった場所なんだ。僅かな信者が隔離した場所で暮らしていたんだけど、563年に聖コルンバがアイルランドからやってきてから状況が変わったんだ。

スコットランドヘブリディーズ諸島のアイオナ島に修道院を建てた後、聖コルンバはそこを拠点にして布教活動を進めたんだ。スコットランドだけでなく、西ヨーロッパ各地にまで布教していったんだ。

 

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へえ。キリスト教スコットランドの領土と何の関係があるんですか?

 

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聖コルンバはアイルランドからやって来たって言ったよね。アイルランドの人々はスコット人と呼ばれ、スコット人はどんどんスコットランドの南西部に侵略していたんだ。
このスコット人が南西部に作った国を、ダル・リアダ国と呼んだんだ。このダル・リアダ国がどんどん、勢力を広げていったんだよ。

聖コルンバが持ち込んだキリスト教スコットランドにも広がっており、同じ宗教を持った人々は統合しやすいんだ。そして、843年にケネス1世がスコット人の領土とピクト人の領土を統一して、スコットランド王国を建国したんだ。 

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アイルランドからやってきたスコット人が作った国、だからスコットランドって言うんですね。

 

強敵が続々と出現するスコットランド

 

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こうしてスコットランドが誕生したんだけど、強敵が次々と出現してくるんだ。まずは、890年頃にヴァイキングスコットランドに侵略を始め、シェトランド諸島オークニー諸島ヴァイキングに奪われてしまったんだ。 

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ヴァイキングっていうと、イングランドヴァイキングにかなり領土を奪われしまった時期がありましたよね。

 

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スコットランドの場合は、南部のブリトン人と同盟を結び、本土の侵略は防ぐことが出来たんだ。ついでに、この同盟によって、南から攻めてきたイングランドも打ち負かし、スコットランドと南部のブリトン人の領土は1018年に統一されることになったんだ。

 

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スコットランドが強化されていくんですね。

 

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しかし、ヴァイキングに続いて、また強敵が現れるんだよ。イングランドが黙っちゃいないんだ。しかも、戦争でなくジワリジワリとスコットランドに侵入してくるんだ。

 

歴史的な英雄たちの登場

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英雄ウィリアム・ウォレスのモニュメント

 

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11世紀後半のスコットランド王は、ダンカン1世の息子マルカム3世で、マルコム3世はアングロサクソン人のマーガレットを妻としアングロサクソン文化を好んだんだ。

 

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マルカム3世により、スコットランドイングランドの文化が広まっていくんですか

 

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そうなんだ。スコットランド南部はイングランド化していき、封建制を導入していくんだ。北部はイングランド文化が入らず、首長が部族を守っていく大家族的な古い制度が残っており、南部と北部では格差が広がるんだ。

※ダンカン1世とマルカム3世はシェイクスピア作「マクベス」の登場人物。ダンカン1世はマクベスに殺され王位を奪われるが、マルカム3世が取り戻す 

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ところが、13世紀になるとイングランドが執拗にスコットランドへ攻撃を仕掛けてくるんだ。スコットランドは、ことごとくイングランドに敗戦し窮地に追い込まれるんだよ。1296年にはスコットランド王が戴冠するとき使用する石、Stone of Destinyがエドワード1世によって奪われてしまうんだ。そこで立ち上がった英雄がいるんだ。

 

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あっ、ウィリアム・ウォレス。

 

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スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスは、スコットランド復権を目指してイングランドに対抗したんだ。庶民派のウォレスはイングランド軍を破り破竹の勢いだったけど、スコットランドの貴族階級の支持を得ることが出来ず、更にイングランドエドワード1世の報復に会い、勢いを失っていくんだ。とうとうウォレスは捕らえれ処刑されてしまうんだ。 

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ウィリアム・ウォレスの後継者はロバート・ザ・ブルース(スコットランド王、ロバート1世)で、バノックバーンの戦いでイングランド軍を破り、1320年にスコットランドの独立を手にしたんだ。ロバートもスコットランドの英雄の一人なんだ。

 

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これでスコットランドは、イングランドからの独立できたんですね。

 

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ところが、ロバート1世がなくなると再びイングランド軍が攻めてきて、スコットランドの独立が弱まっていくんだ。ロバートの息子デヴィッド2世は、イングランドに敗戦しフランスに追放され、またイングランドで人質に取られたりしたんだ。

 

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じゃあ、スコットランドはこれでイングランドに征服されていくんですか?

 

スコットランド王室の広がり

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イングランドジェームズ1世(ジェームズ6世)

 

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実は、すぐには征服されず、スコットランドでは新たな王室がスタートするんだ。この王室が、逆にイングランドの王室にすり替わっていくことになるんだ。

 

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何やら、複雑なことが起こってそうですね、それに、この14世紀の頃にはウェールズイングランドに征服されてしまったけど、スコットランドは粘っているところも、すごいなあ。

ウェールズは事実上、1292年にエドワード2世によって征服されました

 

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1371年、ロバート1世の娘の子供、ロバート2世がスコットランド王となり、ステュアート家がスタートしたんだ。このステュアート家が、後にイングランド王室にも大きな影響を及ぼすんだよ。

ステュアート朝 - Wikipedia

 

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スコットランドは、イングランドと友好関係を築いた時期もあったけど、イングランドと度々戦争を起こしていたんだ。ジェームズ4世はフランスと同盟を結んでいたが、イングランドヘンリー8世はフランスへ侵略したため、イングランドスコットランドは戦争となりジェームス4世は戦死したんだ。

また、息子のジェームズ5世も、ヘンリー8世からローマ・カトリック教会から離脱を強要されたが拒絶し、戦争となり敗北したんだ。

 

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なるほど。

 

 

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ジェームズ5世を継いだのは、娘のメアリー・ステュアートだ。メアリーはスコットランド国王であり、フランス国王フランソワ2世の王妃であり、更にはイングランド王位の継承権も持っていたんだ。

※祖母はイングランド王ヘンリー7世の娘で、ヘンリー8世の姉

 

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メアリーは、イングランド国王エリザベス一世の暗殺計画などの陰謀に関わったとされ、スキャンダラスな人生を送り、イングランドに亡命するも捕らえられ、1587年にエリザベス一世に処刑されるんだ。

メアリー (スコットランド女王) - Wikipedia

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スコットランドにとっては、好ましくないことばかり起こっていますね。

 

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メアリーの後を継いだのは息子ジェームズ6世で、1567年にスコットランド国王になったんだけど、このジェームズ6世が大きくスコットランドの存在を変えたんだ。

 

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良い方向ですか、それともスコットランドの立場が弱まるのですか?

 

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どうだろうか。ある意味、立場を強め、ある意味存在が弱まったかも知れないな。メアリー1世の息子ジェームズ6世がスコットランド王の時、スコットランドの運命は大きく変わったんだ。

イングランド王のエリザベス1世には子供がおらずテューダー家は途絶えてしまったんだ。1567年にエリザベス1世が亡くなると、イングランド王の後継者を血縁のあるものから選ぶことになるんだ。

さっきも言ったように、メアリー1世はスコットランド王だけでなく、イングランド王を継承する資格も持っていたんだ。
 

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まさか、スコットランド王がイングランド王に?

 

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そうなんだ。スコットランド王のジェームズ6世も血縁上、イングランド王を継承する資格を持っていたので、1603年にジェームス6世はイングランドジェームズ1世として即位するんだ。

※ その後のイングランド王、スコットランド王、連合国王、は現在のエリザベス2世に至るまで直系で継承している

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形式上かもしれませんが、スコットランドイングランドを乗っ取ったような、そんな感じですね。驚きです。

 

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実際は、逆でスコットランドがよりイングランド寄りになっていくんだよ。

 

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続く革命と、スコットランド王国の終焉

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オリバー・クロムウェル

 

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議会はスコットランドに残ったものの、ジェームス1世はイングランド王になったので、王家もロンドンに移ってしまったんだ。このため外交も、スコットランドではなくイングランドでコントローするようになりスコットランドの立場は弱くなっていくんだ。

 

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なるほど。ジェームズ6世としてのスコットランド王の立場よりも、ジェームズ1世としてのイングランド王の立場に重きを置かざるを得なかったんですね。イングランド王としてジェームス1世はどんな政治をしたんですか?

 

ピューリタン革命

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ジェームズ1世からのイングランド王朝をステュアート朝と呼び、ジェームズ1世と息子のチャールズ1世のときは、国王の権力を強めた独裁的な絶対王政を行ったんだ。

 

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時代が逆行? イングランドで反発は出なかったのでしょうか。

 

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やはり、国王と議会は対立したんだ。プロテスタントピューリタン清教徒)を議会が支持し、国王はピューリタンを弾圧するんだ。

1637年にピューリタンを支持するスコットランドで反乱が起きイングランドでも1642年にピューリタンが革命を起こしたんだ。チャールズ1世は捕らえられ、処刑されるんだ(ピューリタン革命、清教徒革命)。そして、プロテスタントカルヴァン派、オリバー・クロムウェルが政治の中心人物となるんだ。
 

王政復古 

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クロムウェルが共和制をしいた約11年間は、国王が不在になっていたんだ。絶対王政を破り、民主的になったように思えたけれど、クロムウェルは独裁政治を始めてしまうんだ。

クロムウェルが亡くなると共和制は終了し、チャールズ2世が即位するんだ(1660年、王政復古)。王政復古したものの、絶対王政カトリックも復活し、再び国王と議会が対立するんだ。

 

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中世のウェールズや戦国時代でも、領土を取った取られたを繰り返していたように、イングランド王を兼ねたスコットランド王と議会の間で、同じような攻防が繰り返されたんですね。

 

名誉革命

 

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チャールズ2世の息子、ジェームズ2世スコットランド王としてはジェームズ7世)の時にイングランド議会との対立はさらに深まったんだ。議会はジェームズ2世の娘メアリーと夫のオランダ総督ウィレムを擁立し、1688年に革命を起こしたんだ(名誉革命)。

 

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ついに、ジェームズ2世は国外に亡命し、メアリーはメアリー2世ウィレムはウィリアム3世として共同でイングランド王となったんだ。この名誉革命で、事実上スコットランドの独立は終焉し、1707年に合同法によってスコットランドイングランドと合同して、グレートブリテン王国となったんだ。
 

スコットランドの衰退

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ジョージ1世

 

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ステュアート朝が終わり、次の王を選ぶときに、王位継承順位の低いドイツ人ジョージ1世がイングランド王になったんだ。ジョージ1世は、殆どイングランドに滞在することはなく、王の権力は低減してしまったんだ。

 

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国王の権威を重んじる人々にとっては大いに不満だったのでしょうね。

 

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まだまだスコットランドには、名誉革命に根強く反対する勢力が残っていたんだ。名誉革命で国外亡命したジェームズ2世の直系が正当な王だと主張する勢力だ。この勢力はジャコバイトと呼ばれ、ジェームズ2世の孫チャールズ・エドワード・ステュアートを擁立し、当時のイングランドジョージ2世の廃位を企てたんだ(ジョージ2世はジョージ1世の息子)。

 

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そこには、スコットランドの独立の狙いもあったのでしょうか。

 
 

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そして1746年にスコットランドでカロデンの戦いが起き、フランスの支援を得たジャコバイト軍とグレートブリテン軍が争ったんだ。イングランド軍はスコットランドのジャコバイト軍を大量虐殺し、ジョージ2世が勝利したんだ。しかし、この大量虐殺は、スコットランドの対イングランド感情に影響を及ぼすんだ。さらに、カロデンの戦いの後、スコットランドの状況は大きく変わり、立場は悪くなって行くんだ。

 

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法律でスコットランドの伝統衣装であるタータン(格子じまの毛織物)、伝統的な楽器バグパイプが禁じられ、武器を持つことも禁じられた。

スコットランドの部族の首長は、封建領主にとって変わられ、お金を儲けるために領土では羊の放牧がおこなわれるようになった
このため、1760年に封建領主は強制的に住民を去らせる「リアランス」を始め、ときには暴力手段を使うこともあったそうだ。
リアランスは、スコットランド北部を中心に行われ、スコットランド南部では逆に
経済的に花開き、格差が広がったんだ。
 

産業革命で復活

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18世紀のスコットランドは、たばこ貿易でヨーロッパの中心となり、さらに製糸や石炭鉱業が盛んになったんだ。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関車産業革命を起こし、スコットランドでは、グラスゴーを中心に繁栄をもたらしたんだよ。

経済的に発展はするものの、政治的には問題があったんだ。ウエストミンスター寺院が新たな政治の中心となったため、スコットランドの政治家たちは、スコットランドを去ってイングランドに行かなければならなかった
 

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イングランドにいて、スコットランドの政治ができるんでしょうか?

 
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そうなんだ。スコットランドの人々の間では不満が募り、1934年にスコットランド国民党を作るに至ったんだ。 
 

スコットランドの転機~現在 

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スコットランドにも脚光を浴びる大きな出来事が起こったんだ。これによりスコットランドも徐々に光を取り戻していくように思うな。
 

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ん~スコットランドの立場が強くなる出来事。なんだろう?ひょっとして、北海油田

 

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そう、その通りだ。北海油田の発掘により、スコットランドの経済は急速に成長し、イギリス全体の経済発展にも大きな貢献をしたんだ。スコットランドの経済が豊かになってくると、人々はあることを願うようになってくるんだ。

 

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スコットランドの独立ですよね。

 

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1296年にイングランドエドワード1世によって持ち去られてしまった、Stone of Destiny(スコットランドの古代王政のシンボルで、スコットランド王が戴冠するときに使用する石)スコットランドに返還されたんだ。現在は王冠の宝石とともにエジンバラ城で見ることができるよ。

 

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1997年、英国議会は国民投票を行い、スコットランド議会を復活することが決まったんだ。そして、1999年にスコットランド議会が設置され、2003年にはエジンバラに議事堂が建てられたんだ。

そして、2014年9月18日、スコットランドの独立の是非を問う住民投票が行われ、反対票が55%を占め、独立は否決されたんだ。

 
 

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最近は、イギリスのユーロ離脱により、再びスコットランド独立の熱が再燃しているようだな。スコットランドだけでなく、ウェールズ北アイルランドも、今後どのように動いていくのか、目が離せないと思います。

今回の記事で、スコットランドの歴史にも興味を持っていただけると、ありがたいと思います。

 
とびきり哀しいスコットランド史 (ちくま文庫)

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図説 スコットランド (ふくろうの本)

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