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科学

人類が言語を獲得した「瞬間」にはこんなことが起きていた|集中連載「人類言語のディープ・ヒストリー」

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学際的な論文を正しく読み解くための読書法を論じたことまである。どうやって本と出会ったか、著者はどんな人物か、私はその本をどう評価するか、その本をどのように受け入れて発展させたかを報告したのだ。

学際研究では実験は時間の無駄だ。学際的な本や論文を正確に読み解く技術が求められる。

大脳皮質を構成するグリア細胞、感覚器官から脳室に直結する脳脊髄液接触ニューロン、イェルネの免疫ネットワーク理論、それらを繰り返し丁寧に読みつつ発表を準備することで、自分の脳内でまったく新しい仮説、「言語処理は、脳の一番奥深くにある脳室のなかでおこなわれている脊髄反射である」という仮説が生まれた。

脳室とは、脳脊髄液の循環によって、前頭葉、側頭葉、視床、視床下部から小脳、延髄、大脳皮質にいたる脳のほとんどの部位と接触する存在だ。

脳脊髄液は無色透明の液で、そのなかに血液中に比べると200分の1ほどの免疫細胞Bリンパ球が浮遊していて、活発に免疫応答している。免疫細胞はモバイル・ネットワークできるように進化した神経細胞である。それが意識であり、知能を形成する。

これは1984年にノーベル医学生理学賞を受賞したニールス・イェルネの受賞講演「免疫システムの生成文法」から学んだことだ。脳脊髄液中を浮遊するBリンパ球が概念装置で、五官の記憶を保持する大脳皮質グリア細胞が具象概念の意味、Bリンパ球相互のネットワーク記憶が抽象概念の意味となる。

そんなこと誰も言ってないじゃないか。脳科学者でもないのに自分勝手なことを言うなと叱られそうだが、仮説を掲げて5年以上たつのに、この仮説にはまだ誰からも反証がない。

それに脊髄反射で言語処理というのは、経験上納得がいく。言葉への激しい反応は、抗原抗体反応だと言われれば、なるほどと思う。

我々は自分が知っていることには反応できるが、知らないことには反応しない。それどころか、反応しなかった記憶すら残さない。禅が答えの出ない公案を与えるのも、現代芸術がナンセンスなオブジェを提示するのも、どちらも脊髄反射を止めて、知らないものに気づき、知らないことを知るための訓練であるのだろう。


(遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体 / 荒川修作+マドリンギンズ)

4 母語の片耳聴覚と文法処理、例外としてのピダハン


生成文法を確立したノーム・チョムスキーにも、まだ解けない難題がある。それは、「成熟した話し手は特定の状況において新たな文を生みだすことができ、他の話し手たちはそれが同様に新しい文であるにもかかわらず、即座にそれを理解することができる」という命題を証明することである。

この命題は微妙に意味をあいまいにする表現を使っているが、解釈しなおすと、「なぜ人は無意識に文法を使って文を紡ぎ、無意識にその文法を理解できるのか」という問いに収斂できる。この謎をまだ誰も解いていない。

文法は言語学者にとって最大の難題で、誰も答えをもっていない。2009年秋に駒込の居酒屋で鈴木孝夫先生に「文法ってなんですか」とうかがったら、「それは難しいんだ」と答えてくださった。

文法は二重に自然発生的である。

まず、ある言語の文法を、いつ、誰が、作ったかわからない。文法の種類はさまざまで、一度に全部できたとは考えられない。自然発生的に、意味接続・修飾を、音韻変化によって指示するようになったのだ。

次に、個人が文法を覚えるにあたって、いつ、どうやって、覚えたかの記憶がない。赤ちゃん期を過ぎて、もの心つくようになった頃に、少しずつ自然と使えるようになる。

さて、フランス語の文法に「分節(langage articulé ランガージュアルティキュレ)」というものがある。実はこれが何かを知るフランス人は少ない。要はdu painやde l’eauやla table、les tablesのように、常に冠詞を付けて表現することだ。

フランス語では主格代名詞の省略がないほか、前置詞のあとに名詞がくる。だから、フランス語会話音声においては、常に文法的音節が先行してそのあとに概念的音節がくる。

この分節は、実は日本語の文節と同じ構造である。日本語の文節は、「ね」で切ってみて意味が通じる最小単位だが、常に概念的音節が先行し、そのあとに助詞や用言の活用語尾がくる。フランス語と日本語は、概念語と文法語が一定の前後関係となる文節(分節)単位で会話音声を構成する点が共通なのである。

文法は隣接する概念語を修飾する。こんな簡単なことに気づくまでに3年くらいかかった。そして文法はオノマトペ性が高い。文法の音節は音が意味を表している。これは荒川修作とマドリン・ギンズの「意味のメカニズム」の一作品である“Shall we dance?”という作品を見て気づいたことだ。

文法的音節は、波形をベクトル処理しているのだろうか。ティンバーゲンによれば、鳥は「首の短い影」が「近づいてくる」と、避難を促す鳴き声を上げる。つまり、形状のパターン認識と、運動ベクトルを統合している。我々の脳は、概念語は記憶にもとづいて処理し、文法は音韻波形をベクトル処理しているだけではないだろうか。

目をつぶって人の話し声を聞くと、話し手がどこにいるか、正確な位置がわからない。私たちは、母語を聴くときに、片方の耳しか使わない。最初に音が入った耳で聞いて、反対側の耳は音が入らないように減衰させている。

この母語の片耳聴覚は、文法処理のためではないか。ふつう脳幹にある聴覚神経核は、きわめて複雑な処理をしていて、片側の耳から入力された信号を、左右の脳に伝えて、微妙な左右の強度差、周波数差、位相差をもとに音源の位置や速度を推定する。

文法を習得する前の幼児はきわめて運動性が高くて動きに敏感なのに、3~4歳になって文法を習得した子供は運動能力が落ちる。これも、両耳聴覚の方向定位機能を文法処理に転用するためだったのだ。

ここまで考えてきて、ブラジルのアマゾンの支流に住むピダハンのことを思い出した。ピダハン語には文節構造がなく、文法的修飾がない。これはピダハンが、四六時中四方八方から襲い掛かってくるワニやヘビの脅威があるために、方向定位能力を文法に転用できなかったためではないか。

実際、『ピダハン』(みすず書房)の著者、ダニエル・エヴァレット博士が来日した際に、直接質問してみた。すると、やはりピダハンは母語を両耳で聞くことが確認されているという。

文法を使う大人は片耳聴覚で、文法を使えない幼児は両耳聴覚。ジャングルの奥地の文法をもたないピダハン語は、大人も両耳聴覚する。

「文法処理は脳幹聴覚神経核の方向定位能力を利用している」というのが、チョムスキーの難題への解答になるだろうか。



得丸久文 Kumon Tokumaru
1959年生まれ。東京大学法学部卒業。卒業後、日商岩井・宇宙航空機部で人工衛星地球観測を担当。その後、国連・教育科学文化機関アソシエートエキスパート(在パリ)、日商岩井エアロスペース・ヨーロッパ事務所(在ロンドン)、(財)環日本海環境協力センター勤務。
現在は、言語的人類の音声の論理性とそれを処理する神経免疫細胞ネットワークの研究(デジタル言語学)を進めている。著書に『道元を読み解く』(冨山房インターナショナル)

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