「今でしょ!」でお馴染みの林修先生が、以前テレビで「どうしたら幸せになれるか」というお話をされていた。ご覧になった方もいるかもしれない。
林先生はまず下の図のように「やりたい・やりたくない」を横軸に、「できる・できない」を縦軸にとり、マトリックスを作るという。では、以下のどの分野を取り組めば、より幸せに生きていけるだろうか、と問いかける。
③の領域は当然避けるべき。理想的なのは①だが、自分がやりたくて尚且つできる(才能がある、得意である)なんてことは極めて稀である。そこで残るは②と④だが、多くの人はどうしているか。やりたいけど出来ないこと、という④の中で必死にもがいて上手くいっていないのではないか。だったら②の「やりたくないけど、何故か簡単にできてしまうこと」に目を向ければ良いのではないか。自分が当たり前に思っている才能を生かして仕事をした方が上手くいき、幸せにもなれる。ざっくり言うとそんなお話だった。
林先生自身、教えることは特段やりたいことではなかったようだ。でも並外れて得意だったのだ。
確かに、自分では見逃しがちな自分の持ち味を知ることは大事だと思う。最初はやりたくないことでも周囲から認められたり、感謝されることによって、「やりたい」という気持ちが生まれることもあるだろう。好きに変化することもある。それを続けて、最終的に本当の夢を叶えることも可能かもしれない。
でも、本当にそれで良いのだろうか?最終的な目標が、幸せなのか社会的成功なのか、それぞれをどう定義するかによっても大きく異なって来るとは思うけれど…。この話を聞いた時には「なるほど、確かにそうだな」と思ったのだけれど、今は「果たしてこれで本当に幸せだろうか?」という疑問が頭に浮かぶ。
東野圭吾さんの「カッコウの卵は誰のもの」を思い出した。小説では、才能と遺伝子の関係を研究する科学者が登場する。彼らの狙いは、スポーツに向いた人材を遺伝子から見つけ出し、早くから専門的な指導を行い、優秀なスポーツ選手を育成することにあった。
研究所の柚木は、高校生の鳥越伸吾をクロスカントリーの選手として育成するためにスカウトする。伸吾は優秀なスポーツ選手になりうる遺伝子パターンを持っていたのだ。
確かに伸吾には才能があった。別段練習をしているわけでもないのに持久力は高く、学校のマラソン等の記録はずば抜けていた。彼はクロスカントリーに興味はなかったが、生活が苦しかったので、家族の生活と自分の学費も保証してくれるということで、仕方なくスカウトの受諾を決意した。
でもやはり彼は競技に関心は持てなかった。何とか自分の本当の気持ちを押し殺して練習に取り組んでいるだけだった。
同じ競技に励む仲間からは羨ましがられる。だが彼にしてみれば、才能など無くても、それでも楽しいと思えるほどにクロスカントリーが好きな仲間たちの方が、よっぽど羨ましかった。実は、彼には他にやりたいことがあった。それはギターだった。
物語の後半で、伸吾をスカウトした柚木が、上司に自身の迷いを告白する。「何を迷っているのだ」と問う上司に対して、柚木は次のように心情を吐露する。
「今までのやり方とか考え方についてです。僕は、各自が持っている才能を生かすことが幸せに繋がると信じてきました。スポーツにしろ芸術にしろ、他人より優れた結果が出れば誰だって楽しいはずだし、たとえ最初は好きでなくても、少しずつ夢中になっていくものだと信じていました。さらにそれを生きる糧に出来れば、これ以上に良いことはないじゃないかと思っていました」
「でも、そうではない人間も中にはいるんです。圧倒的な才能がありながらも、そのことを少しも嬉しいとは思わない人間がね。それが鳥越伸吾です。彼にとってオリンピックは夢でも何でもない。彼の夢は、好きなだけギターを弾くことなんです。プロのミュージシャンになれなくても、観客が一人もいなくても構わない。ただ音楽に触れていれば幸せなんです。そういう人間に、おまえは才能があるんだからといって好きでもないことをやらせるのは、一種の人格無視じゃないでしょうか」
ここで林先生と柚木とを比べることは、一概にはできないかもしれない。でも私にとっては柚木のセリフがとても印象的で、本当にその通りだと思ったのだ。
才能がある、得意なことがある、というのは素晴らしいことだと思う。でも自分の才能は自分で選ぶことはできない。もしそれが自分の中にある明確な「やりたいこと」と合致していなかった場合、それは悲劇にもなり得る。
最初の林先生の図は、理性的に戦略的に考えて賢く選択しているように見えるけれど、せっかくの心の声を頭というノイズでかき乱しているだけとも言えるのではないか。だったらマトリックスの「できる・できない」の軸なんか、いっそ取っ払ってしまえば良い。ただただ誰が何と言おうと好きだと思うこと、やりたいことを貫くのだ。
自分の頭とか理屈を超えた、自分の心の本当の声を、自分の心から湧き出てくる感情をもっと尊重してもいいのではないか。周りからは「馬鹿だなぁ、そんなに苦労して。そんなことしなくても、こっちの分野の仕事をすればもっと楽に生きられるのに」と思われるかもしれない。でも本人の心が本当に楽しくて幸せなのが、その「馬鹿」な道だとしたら。
お金を得る、生活を安定させる、社会的成功を収めるという幸せなのか、それとも本当に生きる幸せか。私たちが生きるということはどういうことなのか。人間はやはりお金やパンだけで生きているわけではないのだと、私は思う。