米国的ハロウィンの輸入失敗と日本的ハロウィンの完成

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クリスマスの研究でお馴染み堀井憲一郎氏のハロウィンに関するお話。
最近の広まりっぷりを見ても、ハロウィンほど興味深いイベントもなかなかない。




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イベントの要素

イベント(行事)は、モノ、コト(テンプレート)や場所といった要素が揃わなければ広く流行らない。

たとえば家族で過ごすクリスマスであれば、

モノ→ケーキ、プレゼント
コト→家族でケーキを囲む
場所→自宅

と言った風に要素を満たしている。
これが、バブリーな時代の恋人たちのクリスマスなら、

モノ→指輪、鞄などブランド品
コト→デート
場所→ヘリ、高級ホテル

バレンタインデーなら、

モノ→チョコレート
コト→告白、義理
場所→学校、職場

*1

土用の丑の日なら、

モノ→ウナギ
コト→ウナギを食べて精をつける
場所→うなぎ屋

象徴するモノがあり、そのイベントに際して行うコトがあり、訪れる場所が決められている。
そのテンプレートを守ることでイベントを行ったことになる。

日本と相性の悪いハロウィン

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だがハロウィンには、長い間それが揃っていなかった。
輸入したかった米国的ハロウィンは、

モノ→仮装、お菓子
コト→子供がオバケに仮装しお菓子をもらいに近所を回る
場所→近所

自分が小さい頃は、映画「ハロウィン」に登場する殺人犯レザーフェイスのイメージしかなかったし、現代日本であんな米国式ハロウィンをやるなんて無理としか思えなかった。
没交渉のマンションや団地で子供がお菓子をもらいに回れるわけもなく、都市部で夜に子供を歩かせるなんて、防犯の面で危なくて仕方ない。
一部では町内会が企画したりパッケージ観光のごとく「子供らにお菓子をあげる家」に協力を仰ぎ、安全を確保した上で昼間にハロウィンを行ったところもあったように記憶してる。


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米国的オバケに馴染みなく、子供だけでうろつくのは防犯的に疑問があり、近所も回れない。
旧来の、米国的ハロウィンは、現代日本に様式が合わない。
だから輸入されても広く普及することはなかった。
ところが、

2009年から全エリアで「ディズニーシーのハロウィン」が開催され、大人気となった。シーの入場者数がランドと拮抗するようになったのは、ハロウィンを開催してからだとおもう(私個人の分析)。

ただ、2009年のディズニーシーのハロウィンは、ヨーロッパらしさを残そうとして、貴族の仮装舞踏会という仕立てになっていた。怪傑ゾロのマスクのようなものでミッキーたちも顔を隠し、ヨーロッパらしい、貴族ぽい雰囲気で展開されていた。なんだか、ヨーロッパはアメリカと違って優雅なのよ、というメッセージを発しているようで面白かった(大阪に対する京都のポジションを連想してしまった)。

2009年からディズニーのハロウィンが変わった。

それはディズニー以外でのハロウィン・イベントが盛んになったからだろう。

2009年がハロウィンの転機である。

10月31日が土曜日になるごとに盛んになっていく。

2009年のハロウィンは、土曜日だった。次に土曜日になったのは2015年で、このときから渋谷スクランブル交差点の大騒ぎがニュース定番となった
なぜハロウィンは日本でこれほど大ブームになったのか(堀井 憲一郎) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)

堀井氏によれば2009年からのディズニーシーのぶっこみにより、ハロウィンは日本にねじ込まれた。
ただ、ディズニー的ハロウィンは、

モノ→仮装
コト→ディズニーランドに仮装して行き、パレードを見たり遊ぶ
場所→ディズニーランド、ディズニーシー及び周辺

であって、あくまでディズニーランドのイベント。
各家庭の自宅で迎えるものではない。
これも広く普及するには至らない。

ところが渋谷でハロウィンの日、仮装して騒ぐ連中が大きく報道され始める。
渋谷での騒ぎは2000年代からあったようだが、ワールドカップでの騒ぎ以降「渋谷のスクランブル交差点で騒ぐ」イメージがついたことにより、マスコミもスクランブル交差点に注視するようになり始めた。
これは阪神が優勝してカーネルサンダースが道頓堀に投げ込まれて以来、大阪で何かあると道頓堀にニュース中継が出るのにも似ている。

これらの要素が関連しあい、イメージが作られ、現代の日本型ハロウィンというものが徐々に形作られることになる。

日本的近代ハロウィンの完成

モノ→仮装
コト→仮装してディズニーに行く、パレード、酒を飲んで騒ぐ
場所→ディズニーランド、渋谷???

さて、あとは場所だけが今ひとつ。

渋谷という場所は、若者の街ではあるが一定年齢以上の街。
夜に地方の小学生や中学生が気軽に行ける場所ではない。

ましてや渋谷は、東京であって、関東近郊の人間ならまだしも他地方の人間は渋谷の騒ぎに参加することはできない。


そこで各所でハロウィン難民ともいうべき「ハロウィンで仮装してみたいけど仮装していく場所がない人たち」人々を受容する(ハロウィン消費に目をつけた)地方が「ハロウィンイベント」と称した場所を提供することになった。
ディズニーに対抗意識を燃やすUSJはもちろん、今年は火事に見舞われた西武ゆうえんちから北海道の白い恋人パークに至るまで、さまざまな場所がハロウィンの「場所」を提供し始めた。

今年は、親子でハロウィンイベントに参加する人々が多い、と聞くがそれもハロウィンイベントを提供する場所があるからこそとも言える。


これによりハロウィンは「若者が仮装して馬鹿騒ぎ」をするイベントから「親子で仮装してイベントに参加したり、若者が仮装して騒ぐイベント」へと形を変えることで日本文化に溶け込みつつあるように思える。

この辺、文化的に面白い。

もともとのハロウィンは「子供がお化けの格好をして近隣を周り「trick or treat」(イタズラかお菓子か)と言いお菓子をもらう」イベントだった。
ところが現代日本に当てはまらなかった結果、「仮装」という部分だけを引用し、ディズニー的なパレードとアウフヘーベン*2されたイベントとして定着しつつあるように見える。
現代日本的ハロウィンとは、家庭ではなくパレード(子供が参加するようなものは主に昼間)に参加するもの。

モノ→仮装
コト→仮装してイベントに参加、パレード
場所→各所のハロウィンイベント

実に日本的で現代的で、資本主義的な意味性を欠いたテクスチャの集合、実に歪な、これだけ歪まなければ現代の日本で受容されることはなかったハロウィンは、好景気を背景にカップルのものとしてでなければ普及しなかったバブル期に作り上げられた「恋人たちのクリスマス」の歪さにも似ている。
意味がなくても、そこにイベントとしての形式や様式さえあれば受容される。

本来の意味の無意味

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アメリカ的な(そして日本的でもある)クリスマスは、遅れてきた資本主義国ならではの祝祭である。中世的権威を無視している。それが世界で受け入れられている。資本主義国であるかぎりは、宗教とは関係なく、クリスマスを祝わなければならないのだ。
サンタクロースは資本主義的クリスマスのアイコンである。
キリスト教にとってサンタクロースは異端なのだろうが、はために見ているぶんには、クリスマスの存在そのものがキリスト教にとっての異物に見える。

「本来の~」などというのはバカバカしい。

誕生日のケーキにしろ、なぜケーキを食べるのか、なぜろうそくを吹き消すのか、なぜ誕生日を祝うのかすら疑問に思わず毎年誕生日を祝い、戦時下の映画に影響を受け卒業式に第2ボタンをもらう風習は誰も疑問に思わない。
「そういうものだから」「そう決まっているから」そうなのでしかない。

中国から輸入された多くの風習であれ、どの時点を「本来」と定めるかによって意味は異なるのだから「輸入された」こと云々を言うのも筋が違う。

文化とは、時代や場所に影響を受け変わるのが当然。
元からあるから正しく、元の形だから正しく、持ち込まれたり変化するものは間違っているという捉え方では、「文化」を見ることはできない。
文化において変化は当然。
元の意味や元の形を知る意味はあっても、そこに文化的「正しさ」はない。

日本人の多くはキリスト教徒でもなければ、仏教徒でもない。
坊主が念仏を唱える葬式をあげ、墓を作っても仏への信仰が日常にあるわけではない。日本は信仰心が曖昧だからこそ西欧から来たイベントが本来持つ宗教的側面を無視することができるのかも知れない。


徐々に形を作りつつある現代日本独自のハロウィンは、リアルタイムにフォークロアの変遷を観察できる興味深い現在進行形のイベント。
普及もテンプレートもまだまだ未成熟。
周囲にイベント参加への導線が少ない昭和世代が、現代のハロウィンについていけないのは不思議でもなんでもない。

日本におけるクリスマスは、明治の終わりころから蕩尽の対象となって、その姿は変わらない。風変わりな祝祭として、無駄遣いをする日でしかない。時にクリスマスに対する反発がうまれるのは、異教徒の祭りで騒ぐからではない。伝統のない祭りなのに騒ぐからである。
新しい祭りにたくさん金を使うと、怒る人たちがいるのだ。
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今や当たり前になった「恋人たちのクリスマス」だってさんざ変遷を経てきた結果、現在の形になっただけ。
時代が違えば「カップルでクリスマスなんてアホか」なんて世代だっているだろう。ハロウィンだって同じ。
コスプレをして、SNSにアップすることが目的のインスタ映えする現代らしいイベント。
そこにどんな意味があるか、どんな由来があるかなんて関係なく、宗教的文化的背景は完無視して、ひたすら借り物の祭りを借り物だからこそ気楽に楽しむ。

いつか「生まれたときからハロウィンは必ず祝うもの」という世代だってこれからは出てくるだろう。

個人的にコスプレすることは今後もなさそうだが、毎年、徐々に完成しつつある日本的ハロウィンの変化を楽しみに見ている。

*1:少し余談だが、イベントにスイーツが関連することが多いのは、ハレの日に対して祝いの甘いモノを準備するからかもしれない

*2:ガッチャンコ