この記事を読んで、「ブーメラン」という反応が多いことが気になった。
「チェンジ」という言葉は破壊力が大きいので、そう言いたくなる気持ちも分かる。
ただそれでも、
「相手が自分にとって、異性として好みではない」ということと、
「相手の生き方は正しくない。間違っている」ということは、まったく違うと思う。
元記事は「自分は現在の加護亜依は、異性としては好きじゃない」でも「自分にとって嫌いなこと、好みではないことであっても、相手が正しくない、間違っているということはおかしいのではないか」「その正しくないという根拠を、年齢や子供の有無で決めるのは自分たちを息苦しくすることではないか」と言っている。
結局の所、女性は女性の中で『こうあるべき姿』を同じ女性に強制していないか?
価値観までをも量産型にしようとしていないか?
だがその主張は結局、自分に跳ね返り自分で首を絞めてしまっている。
自由を認めないという事は、生きていく上での選択肢を狭めている事に他ならないんだ。
(引用元:「インスタで叩かれている加護亜依を見て、人間ってクソだなと思った」もう勝負ついているから。)
この箇所は本当にそう思うので、これが伝わらなかったのであればすごく残念だ。
ブコメだと、この意見に一番近い。
記事の中で「例示として女性を出しただけで、男性女性は関係ない」と書かれているし、表題はそういう意味での「人間」だと思ったけれど、「ブナシメジ」のインパクトが強いこともあり、そうとらえられやすかったのかもしれない。
ただ自分も「生き方」に関しては、女性のほうが対立を生みやすいし、よく問題になるように思う。それは女性のほうが外的因子によって、生き方を選択しなければならない場面が多いからだ。
「結婚するのか、しないのか」
「子どもを産むのか、産まないのか」
「子どもは何人産むのか」
「仕事を続けるのか、続けないのか」
どういう選択をしても、自分の生きたい生き方ができることが理想だとは思う。
ただ現実ではまだ結婚してパートナーの仕事や家族の都合、妊娠出産のために仕事を辞めたり、仕事に打ち込むために結婚や出産を諦めたり、先延ばしにするのは女性のほうが多いと思う。
何かを得るために、何かを捨てなければならない。
そうすると、自分が得たものの価値を信じるために、そういうつもりはなくても、自分が選んでいない生き方を否定する言動をしてしまうときはある。
「母親になれば、女性としての部分は捨てて当然」
「常に子供を優先させなければ母親失格」
「専業主婦は楽でいい」
「結婚・出産をしていない女性は、一人前ではない」
「子どもは一人よりも二人、三人のほうがいい」
自分の選ばなかった道は正しくないものだと信じるために、その選択肢を強く否定してしまう。
こういう対立軸は、社会的に選択の局面が多い女性同士のほうが生まれやすい。
性差がない問題だと、フリーで生きることを肯定するためにサラリーマンの生き方を「社畜」と否定したり、逆にフリーの生き方を攻撃したりする。
自分が得なかったものの価値を少しでも落としたい、そうすることによって自分の得たものの価値を信じたい。
だから「こうあるべきだ。これが正しいんだ」と叫びたくなる。
そういう衝動にとらわれるときは誰にでもあるし、ついやってしまうこともあると思う。
でもそれは元記事で書かれているとおり、「足を引っ張り合って社会を息苦しくさせているにすぎない」のだと感じる。
29歳だったら、母親だったら、バニーガールの恰好をすることが間違っているわけではない。
男性だろうが、女性だろうが、何歳になろうが、子持ちだろうがそうでなかろうが、人には好きな恰好をする自由がある。法律や規則や状況に基づくならばともかく、年齢や性別を根拠にして「何々をすることは間違っている」というのは他人が決めることではない。
そしてその姿に対して、どう思うかは見る人の自由である。絶対に好感を持たなければならないわけではない。
それを本人に言うかどうかはともかくとして、「私はそれが嫌い」と感じる自由は、誰にでもある。
「嫌い」「受け入れられない」という感情を持つことと、相手の存在を否定することはまったく別のことだ。
相手を好きになれないことは、相手の存在を否定することではない。
「相手を受け入れなければ、相手を好きにならなければ、それは差別であり、相手の存在を否定することであり、相手に対する攻撃だ」という言動をたまに見るけれど、すごく怖い発想だと思う。
「嫌いだけれど、存在は否定はしない」
「自分個人としては受け入れられないけれど、存在することは認めている」
それが多様な価値観を共存するために、大事な発想だと思う。